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「神の戒めを完成させる愛」

2022年9月4日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第14主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:1~3
新約聖書 マタイによる福音書5:17~20

               

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:2~3)。

今日から、毎月の第一週目の主日礼拝におきましては、旧約聖書に記される「十戒」を取り上げまして、これを神の言葉としてご一緒に聴いて参ります。十戒をどのように理解し、また生きたらよいか、そのことを深く尋ね求めながら、少しずつこの御言葉に親しんでゆきたいと願うのです。


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十戒。文字通り、「十の戒め」であります。先月まで、私たちは「主の祈り」の言葉に聴き続けて来ました。その主の祈りと、今日からの十戒、そしてもう一つ、毎週の礼拝で告白しております「使徒信条」。この三つは、教会の「三要文(さんようもん)」と言われます。教会の教えの中で、特に要となる三つの文、文章のことです。教会が、真のキリストの教会として立ち続けるために、歴史の中で絶えず告白し、祈り、また信仰の基盤としてきた、世界共通の言葉です。

これらは言うまでもなく、私たち自身の信仰にとっても、欠かすことのできない重要な三つの言葉です。しかし、どうでしょうか。十戒が礼拝の中で唱えられることは、あまりないかもしれません。私たちの教会もそうです。主の祈りと使徒信条は欠かさず覚えられているけれども、どうも十戒というのは、教会自身の歩みの中で、あるいは私たちの信仰生活においても、影を潜めてしまっている。

これはやはり認めざるを得ない事実でありましょう。実は私たちのこどもの教会では、毎週ではありませんが、ほぼ隔週でこの十戒を礼拝の中で唱えています。その意味では、子どもたちの方がより馴れ親しんでいると言えるかもしれません。いずれにしましても、私たちはこの十戒をどれだけ暗唱できているでしょうか。たとえ、聖書の原文通りではないにしても、第一戒、第二戒…と、その要点を順に追いながら、第十戒まで間違いなくたどり着けるだろうか。

けれども、実は口で諳んじることができるかどうか、ということ以上にもっと大事なことは、私たちが自分の日常生活を、またこの与えられた人生全体を、どうにかして形作ってゆこうとする時に、この十戒の力によって、自分がどれだけ生かされているだろうか…そのことに思いを巡らせるということではないでしょうか。

私たちは皆、それぞれの命を懸命に生きています。折の良い時も、悪い時も、十分ではないにしても、日々起きていることに対して、自分なりの受けとめ方や対処の仕方で自分の歩みを形作っているはずです。全く無原則に、無秩序に生きている人は誰もいないでありましょう。それを言葉で説明せよと言われたら困るかもしれません。それでもやはり、その人なりの筋道を立てた生活があるはずです。しかしまさにその生活の中に、十戒がどのように組み込んでゆくのだろうか。否、むしろ自分の生活の方こそ、どれだけ十戒の力の中に組み込めるのか。そのことを、共に見つめてゆきたいのです。


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十戒の力、という風に申しました。十戒の心、と言ってもよいかもしれません。私たちはこれから、少しずつ十戒を学ぶわけですが、それは単に、十の戒めを一つ一つ学び直し、覚え直し、その理解を深めるというだけのことではありません。私たちがここから本当に受け取りたいと願うのは、十戒全体に貫かれている力、あるいは心そのものです。

十戒を知るとは、もちろんその内容の一つひとつを知る、ということは言うまでもありません。しかしその時にいつも忘れないでいたいのは、この十戒を授けてくださったお方がいらっしゃるということです。私たちが十戒を本当に深く知ってゆく、という営みは、まさに、他でもない主なる神ご自身の力、あるいはその御心を知る、ということに尽きます。私たちが、神の懐の中に巻き込まれてゆくところでこそ、十戒の力が分かる。心が響く。感謝さえ湧き起こる。

したがって、この命あるお方の存在を切り離して、ただ十の戒めだけを覚えたり守ったりするところには、本当の感謝や喜びは生まれようがありません。私たちが明るい輝きのもとでこの十戒を受け取り直すことができるのは、ただ、神の御心と御力に捕えられて、初めて可能となることだからです。


ある人がこの十戒のことを、「自由の道しるべ」と言い表しました。またこれとよく似た言葉で、ある人は「自由への指針」と表現しました。興味深いことに、どちらとも「自由」を指し示すものとして十戒を理解している、ということです。なぜこのように十戒を明るく受け取ることができるのでしょうか。

たいてい、私たちの理解では、戒めとは、実にしばしば、すぐに束縛や拘束を意味する言葉として、イメージされるでありましょう。自由どころか、不自由を私たちに強いるものであって、したがって十戒を学ぶということは、ますます自分が色々な戒めで雁字搦めにされることだと考えてしまうのです。

実は、こうした十戒に対する否定的な考えは、必ずしも私たちの身勝手な思いだけによるのではありません。聖書にこそ、その根拠があるのではないか。つまり、十戒を過度に強調することは、律法主義に陥ることなのだから、それは福音に反することではないかと、例えばそう考えるのです。でも福音は律法を乗り越えたではないか。旧約聖書の教えや信仰は、イエス・キリストを証しする新約聖書によって乗り越えられたのだから、もはや私たちにとって、古い律法は不必要なものと見てよいのではないか。

否、あのパウロも言っていたではないか。私たちは律法によってではなく、信仰によってのみ義とされ、救われるのだと。そうであるなら、私たちにとってこの律法、中でもその核をなす十戒というものも、あまり重要ではないのではないか。今さらこれに縛られる必要があるのか。


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けれども、まさにそこで、私たちは今日この礼拝を通して、少し立ち止まってみたいのです。今引き合いに出したパウロは、ローマの信徒への手紙ではこう述べるのです。この手紙の第3章21節以下は、「信仰による義」という主題で、パウロの確信が記される手紙の中心部分の一つでありますけれども、その31節にこうあります。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」。

否、実はこのパウロに先立って、他でもない主イエスご自身が、あの山上の説教と呼ばれる語りの中で、こう仰っていたのです。それが、本日与えられましたマタイによる福音書第5章17-18節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。


パウロ、そして誰より主イエスも、決して律法が無くなればよい、とは考えません。むしろ律法は、いよいよ確立され、完成されなければならないものとして、はっきりその眼差しに捉えられているのです。律法がそうなのであれば、十戒についても同じです。では、そう断言できるその心とは何でしょうか。

もちろんこう言われるからには、十戒は私たちにとって良いものであるに違いありません。むしろ必要不可欠なものである。それはいたずらに、神から押しつけられた命令ではないはずです。そして十戒は、私たちが救われるための絶対条件というのとも異なります。約束を全部守ったら救いが約束されるとか、一つでも守れないものがあったら罰を受けたり、天の国に行けないとか、そういうチェックリストではないのです。

この十の戒めの背後には、それがどんなに大切であるかの根拠があります。神の御心があり、御力がある。そこで先ほどお読みしたマタイによる福音書で、主イエスがこう仰っていたことに改めて着目したいのです。「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。

今日私たちに与えられました、十戒についての旧約聖書の箇所は、出エジプト記第20章1~3節でありました。その3節から、十戒の一つひとつの戒めが具体的に刻まれてゆきます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。しかし私たちが今日、律法の文字から一点一画も消し去ってはならないのは、むしろこれに先立つ1~2節の言葉です。ここは、十戒の前置きという意味での「前文」と言われる言葉です。


その中でも、特に1節。「神はこれらすべての言葉を告げられた」。この1節の言葉に、今日の最後にご一緒に目を留めたいのです。

ところで十戒のことを、英語ではデカログ(decalouge)と言います。デカというのは数字の「十」を意味します。また、ログはギリシア語のロゴスに由来する「言葉」という意味です。つまり十戒というのは、十の「戒め」とか「戒律」のことだと私たちは通常思いがちですが、もともとは神の「十の言葉」を意味する、極めてシンプルなものです。

しかし重要なことは、この「十の言葉」を指して、1節で言われていますように、それら全体が神の「すべての言葉」である、と記されていることです。言い換えれば、十戒とは、神が、どこまでも神ご自身の「すべての言葉」として、神の民に告げておられる言葉なのだ、ということです。あまたある神の言葉のほんのごく一部に属するものとして十戒があるのではない。文字通り、十戒は神ご自身の言葉のすべてに他ならないのです。

このことは、私たちがよく心に留めて刻んでおかなければならない神の真理です。十戒は、規則や法律をまとめた六法全書のような類のものではありません。神の、人間に対するすべての言葉。神の全力が、全体重が、そしてあらゆる御心が、この十の戒めの言葉に集中して注ぎ込まれているからです。


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これから私たちは、十戒の言葉の一つ一つを順に学んで参ります。既にご存知の方も多いことと思いますが、十戒は初め、二枚の板に文字が刻まれて、神がモーセに授けられました。そしてこの十戒はさらに、その内容からみて、大きく二つに分類することができます。第一の戒めから第四の戒めは、神に対する私たちのあり方を戒める言葉。第五の戒めから最後の戒めまでは、共に生きる隣人に対して、私たちがどう振舞うべきかについて定めた言葉。そのように理解することができます。

この二つの大きな教えから、思い起こすことはないでしょうか。そうです。まさに主イエスがある時、律法の中でどの掟が最も重要かと訊ねられた時にお答えになった、あの言葉です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。

神を全力で愛すること。またそれ故に隣人を自分のように愛すること。この、一枚のコインの裏表のような二つこそが、律法で最も重要な教えだと、主イエスははっきり教えられました。突き詰めれば、この二つが律法の全てであると。その他のあらゆる神の教えは、全てこの二つの掟に基づいていると。


私たちがこれから学ぶ十戒も、まさにこの二つの掟と全く歩調が同じです。主の言葉の全て、御心の全てが、ここに込められている。しかし、どうでしょうか。私たちが今、そのように賢く十戒の構造や分類を把握できたところで、はたして今日から直ちにこの教えを守ることができるようになるのだろうか。いったいどれだけの人が、今日の一日が終わる時まで、この教えを守り抜いて過ごせましたと、床に就く前に、堂々と御前に告白することができるでしょうか。

そもそも神は、私たちにこれを守る力があるからこの十戒を授けられたのでしょうか。しかし私たちは、この律法の前で、ただ己の無力さや傲慢さ、そして罪深さを突き付けられるほかない、惨めな存在であることを認めざるを得ません。けれども神は、その事を百もご存知でいらっしゃるお方です。否、むしろその事実を誰よりも深く、痛く知っていてくださるお方だからこそ、助けてくださるのです。十戒の教え、否、十戒の心を生きることが、どれだけ私たちにとって幸いなことであるかをどうにか味わい尽くさせるために、どんなことでもしてくださる。ご自分の命まで捨ててくださる。

それが、あのキリストのお姿ではなかったでしょうか。神の言葉のまさに全てが、肉となって形となった現れた出来事。その存在が、私たちに出会ってくださったのです。交わってくださったのです。この私たちを、惨めな姿に沈む闇と、深い罪の底なしの淵から救い出してくださるために、自らの命を十字架に打ちつけて献げてくださった。その計り知れない愛の中に、私たちを招いてくださった。

それが、他ならぬキリストです。愛そのもののお方として、神の戒めを完成させるために、私たちをそこに向かって新しく作り変えるために、今日もあなたを捕え続けていてくださるのです。


<祈り> 

天の父よ。十戒の言葉を新しく受け取り直しました。あなたの全力の愛が注ぎ込まれた尊い言葉をありがとうございます。はじめイスラエルの民に授けられたこの十の言葉が、今、同じく神の民として歩む私たちに、キリストの新しい光のもとで新しく手渡されていることを覚えます。どうか、私たちを縛るための戒めではなく、まことに私たちを自由へと解き放つ福音の言葉として、ますます鮮やかに、親しく、あなたの言葉が私たちの歩みに伴うものとなりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

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