2022年10月2日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第18主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:1~3
新約聖書 マタイによる福音書22:34~40
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私が幼い頃、父の仕事の関係で海外で暮らすことになりました時、日本からある一冊の本を持って行きました。どうしても手放すことのできなかった一冊、それは、漫画の聖書物語でした。その中でも、特に新約聖書に出てくる、イエス様が悪魔から誘惑を受けられる場面が大好きでした。ストーリーはもう分かりきっているのに、なぜかこのお話だけは、何度も繰り返し、惜しみながらゆっくりページをめくっていたことを思い起こします。
主イエスは40日間、断食をして空腹を覚えながら荒れ野で過ごされた時、悪魔から三度誘惑を受けられました。しかし見事にその誘惑をことごとく立ち切り、悪魔を退けられました。私は単純に、そのイエス様の姿が格好いいと思いました。その強さに憧れ、引き込まれてゆく思いでした。言ってみれば、正義のヒーローのような印象をずっと抱いていました。
けれどもずっと後になって、この主イエスの力強さは何だったのだろうかと思い直すようになりました。強いお方であることは今も間違いない。しかしその強さは、イエス様自身の強さだったのだろうか。そこでもう一度、この場面を注意深く振り返ってみました。「『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』 イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」(マタイ4:3~4)。
私はあらためて心に留めました。悪魔を立ち去らせた主イエスの本当の強さを支えていたもの、それは「神の口から出る一つ一つの言葉」であったのだと。父なる神の御言葉と一つとされるところに、本当の強さが生み出されるのだと。
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先月から、私たちはこの第一週目の主日礼拝におきまして、「十戒」の言葉に一つ一つ耳を傾け始めています。前回も申したように、「十の戒め」と書くこの十戒は、元々は神の「十の言葉」という意味であります。戒めや命令である前に、まずこれが、神ご自身の口から出た一つ一つの生きた言葉、それゆえ私たちを生かす言葉でもあることに注目したいと思います。
その一つ一つの言葉が、十個集まっている。しかしバラバラではありません。これらはまるで、一つの花束のように束ねられている。神の一つの命に結ばれた花束。この花束のような神の十の言葉が、実はさらに、他でもない神ご自身の「すべての言葉」であるということ。これこそ、私たちの心にぜひ刻んでおきたいことです。
今朝与えられました出エジプト記第20章の言葉。その1節に、このように記されています。「神はこれらすべての言葉を告げられた」。つまり、この後に続く神の一つ一つの言葉は、神ご自身の「すべての言葉」として告げられたということです。尽きることのない神の豊かな言葉の宝庫からほんの一部がここで語られるのではなく、まさに神の全力の、全身全霊の言葉が、ここに直球勝負で手渡されてゆくのです。
そこで神は、いよいよ十戒の言葉を次のように語り始められます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:2~3)。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。これが、第一の戒め、神の最初の言葉として告げられました。誰に対して告げられたのでしょうか。この十戒をシナイ山で最初に受け取ったモーセです。そしてこのモーセが率いる、イスラエルの民たちです。イスラエルの民。それは神から特別に選ばれた契約の民、信仰の民たちでした。彼らもそれを誇りとし、喜びとしていました。その彼らに向かって、しかし神は釘を打つようにして、この第一の戒めを告げられたのでした。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。
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私たちは今日この言葉を、出エジプト記を通して聴いています。文字通りここには、イスラエルの民が奴隷の身として捕らわれていたエジプトから、モーセに率いられて脱出してゆく時の姿が描かれています。やっと解放される。しかし約束の地までの道はあまりに長く、大変険しいものでした。そしていよいよ彼らがシナイ半島の荒れ野でさ迷い続けた果てで、この十戒は授けられたのでした。
実は指導者モーセがシナイ山に登っている間、民たちは不安を募らせていました。それどころか、この苦難の旅路に光が見えない現実に不満を抱き、神への信頼も揺らぎ始めます。そしてついに、彼らは身に付けていた金の飾りを外して祭司アロンに手渡し、それで金の子牛の像を造るのです。彼らはその偶像の周りで、飲めや歌えの大騒ぎを起こす始末でした。
ここには、大切な存在を見失った人間の姿が象徴的に描かれています。満たされない思い、どうにも拭えない不安や怒りに駆られてゆく時、人は目に見える偶像を造り、あるいは時に目には見えない偶像さえ祀り上げて、それで何とか心の支えを得ようとする。いつの時代、どこの場所であっても起こる現実です。
この偶像の現実について、「ハイデルベルク信仰問答」は次のような眼差しで見つめます。
問95「偶像礼拝とは何ですか」。
答「御言葉によって、ご自分を現わしてくださった神の代わりに、また、これと同列に、人間が信頼を置くべきものとして、他の物を、考え出したり、持ったりすることです」。
なるほどと思います。そして改めて思わされるのは、私たちはこの偶像崇拝を、つい自分自身でやってしまうということです。誰かに押しつけられる訳ではないし、ましてや神に求められてすることでもないはずです。
私たちが知るべき唯一の神は、ここで「御言葉によってご自分を現わしてくださる」神だと言われます。もっと言えば、それしかできない神です。否、そこにこそ全力を注ぎ、命を懸けられる神です。しかし人にはその言葉が分からない。聞こえない。待てないのです。だからその神の代わりに、あるいはそれと並んで、別の神々を拝み始める。自分は別に、唯一なる神を否定まではしない。けれども、何だかこの神様だけでは頼りないと思い、疑い始めてしまうのです。
唯一なる神を、真の神とし続けること。これは私たちにとって、自然にできることではありません。信仰の闘いです。そしてまさにこの点について、ハイデルベルク信仰問答は次のようにはっきりと決意を言い表すのです。
問94「第一戒で、主は何を求めておられますか」。
答「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」。
こう述べて、最後にある決意を付け加えるのです。「すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです」。
極論すれば、これは、神を取るか、被造物を取るかという話です。しかし私たちは、本来これは二者択一の問題ではないと考えます。神を信じることが、必ずしもこの世の被造物を捨てることにはならないことを知っているからです。私たちは、物なしには生きてゆけません。神がお造りになった自然を始めとする被造物、あるいは、神が人の手を通して与えてくださった様々な豊かな品々を、すべて捨て去って生活するなど、とうていできません。むしろ私たちは、被造物の中に創造主なる神の姿をしっかり捉えることで、被造物との関係も正しく結ぶことができるはずでありましょう。
けれども、もしもそこで創造主を見失い、モノとの関係も崩れ、「ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば…」、私は「むしろすべての被造物の方を放棄する」のだ。そうした決死の覚悟が、ここで表明されているのです。
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とても厳しい姿です。歯を食いしばるような話です。もしもここまでできなければ、信仰失格との烙印さえ押されそうです。しかしこの決意は、どのように生まれてくるのでしょうか。そして神が、この第一の戒めをご自分の口から仰る時、そこにはいったいどんな深い御心があるのでしょうか。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。この表現は、確かに響きとしては戒めであり、命令です。けれどもただの命令ではない。神の命、神の全力が込められた断言命令です。それはこの言葉を聴く者にとっては、もはや選択の余地がない命令として受け取ることになる、と言ってよいものです。つまり私たちが、これを命じられる神を、真の唯一なる神とすることもできれば、そうしないこともできる、というような選択肢を前提にして、神はこの言葉を口にされているのではない、ということなのです。
私たちには、もうこのお方を真の神とするよりほかに道はない。そして神にあっては、「あなたは、私をおいてほかに何ものをも神としない者である」。否、「あなたはもはや、神ならぬものを神などとする必要がない程にまで、この私を真の神として愛する者となっている」。否、まさにそのために、私はお前のために命を懸ける。全てを注ぐ。その神ご自身の決意こそが、ここで断言されているのです。私たちの決意が先立つのではない。
だからもう、何ものをも神としない。他のいかなる神をも神としない。それがこの私の生き方になっている。口先ではなく、存在の深みにまで根差してしまっている。私が生きているということは、もはや、この神を唯一なる神として愛して信じるということ以外、何ものでもない。もしそれでも、神を神としないという心が万が一生まれてくるとしたら、それはもう、自分が自分でなくなることだ。
こうして、先行する神のご決意に私たちが心から呼応できる時、この第一の戒めは、私たちにとっては戒めではなく、喜びとなるに違いありません。ではどうしたら、神のご決意が分かるのでしょう。私たちは決して、力んで歯を食いしばる必要はありません。むしろその力を捨てる時に、神の御心が示されるのです。その意味では、自分の信仰すら当てにしないということです。ただ一心に、神がこの私のために何をしてくださったか。それを受け取るのです。
十戒を最初に受け取ったイスラエルの民は、いきなり第一の戒めから聞いたのではありませんでした。神がその前に仰ったことがあります。それが2節の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ここに、神の戒めに先立つ、神の恵みが宣言されます。あるいは、私たちの信仰告白のための土台が、根拠が、ここに約束されているのです。
あなたはもう、エジプトの地にはいないではないか。奴隷の家に縛られてもいないではないか。解放され、自由となった。私が導き出したからだ。もし今もエジプトに留まった状態でこの私の言葉を聞くならば、きっと耐えられなかったことだろう。しかし今は違う。あなたたちは、私の御手の中で確かに生きているのだ。
今日を生きる私たちは、もちろんイスラエルの民とは、時代も、場所も、置かれた状況も違います。そして決定的に異なることは、私たちがイエス・キリスト以降の時代に生きているということです。それは、この主イエス・キリストを通して、私たちが新しい契約の民として生きる者となった、ということに他なりません。このお方を通して、父なる神の愛を、ご決意を、知らされるのです。
初めに申したように、キリストは、「神の口から出る一つ一つの言葉」によって生きられました。神こそを真の神とする志を貫かれました。ではそのキリストは、今日の第一の戒めの言葉を、そして十戒全体を、どのように受けとめておられたのでしょうか。それが分かるのが、本日併せてお読みしたマタイによる福音書の言葉です。
「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」(22:35~40)。
主イエスにとって聖書(「律法全体と預言者」すなわち旧約聖書)とは、極まるところ、「あなたの神である主を誠心誠意愛すること」と、「隣人を自分のように愛すること」。この二つに尽きる。それが父なる神の御心だと仰います。そうであるなら、律法の中核をなす十戒も、この二つに集約されるでありましょう。そして実際、そうなのです。この十戒も、極まるところ、神を愛すること、そして人を愛することの二つが柱となって、形作られていたのです。
このマタイ福音書の主イエスの言葉は、旧約時代の十戒の言葉を新しく語り直してくださった言葉として聞くことができるでしょう。しかしこれは、ただ言葉だけの話ではありません。主は、私たちが十戒の内側に湛えられた神の本当の命の恵みに生きられるように、ご自身がその礎となってくださったのです。いったい、キリストは私たちに何をしてくださったのでしょうか。
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そこで最後に、私たちは再びハイデルベルク信仰問答から、その大切なエッセンスを教えられたいと思うのです。実はこの問答書において、そもそも十戒がどこに位置付けられているか。それはこの書の目次でいう所の最後に当たる第三部、「感謝」という項目の中なのです。私たちキリスト者にとっての感謝の生活の中に、この十戒がある。なぜでしょうか。
実りある感謝の生活は、何より悔い改めによって支えられます。この悔い改めこそ、キリストが私たちにもたらしてくださる恵みです。では、この悔い改めによって、私たちに何が起こるのでしょうか。そこで問答書は言います。「古き人の死滅と、新しき人の復活」であると。私たちはキリストとの出会いによって、古い自分に死に、新しい人に生きる、ということです。
大切なのは、この新しい人に生きる姿が、ここでは「新しき人の復活」と表現されていることです。これはとても素敵な表現です。私たちがキリストに救われるとは、どういうことか。それは今までの自分とは全く違う新しい人に生まれ変わることではなく、実はそこで、新しい人が復活することだ。そう言うのです。
甦るというのは、普通、過去の古い人間が甦ると考えられます。しかしここでは新しい人が甦る、と言われます。甦るという以上、これは元々あった私たち本来の姿が、キリストによって甦らされるという事態を意味します。私たちの本来の姿。それは神が天地創造の時、私たちを最初にお造りになった時の姿に他なりません。あのアダムのエバが罪を犯す前の姿。罪によって死すべき宿命に定められる以前の姿。神の永遠の命の中で一つとされた祝福された姿です。
その姿に、私たちは立ち返らせて頂くのです。キリストのご復活に続く者として、復活させて頂く。罪に汚れた今の自分とは全く違う、新しい人に甦らせて頂くのです。しかしその新しさによって、実は私たちは初めて、本来の自分の命を生き始めるのです。罪の虜となって息絶えていた本当の自分が、ここで初めて取り戻される。その命を喜んで生きるようになる。感謝の生活も、実はここから生まれて来ます。そして十戒の教えの一つ一つは、まさにその生活を導く指針となってくれるのです。
この足場に私たちが立つことこそ、神が最も望んでおられることに他なりません。神を真の神とすること。それは、神を私たちの真の神として喜ぶことです。しかしそれは、私たち自身もまた、自らの命を喜ぶことと、どこまでも一つであり続けるのです。
<祈り>
天の父よ。あなたの十の戒めの言葉を、喜びと自由をもたらす言葉として聴くことができて、感謝いたします。今日の荒れ野のような時代を生きる私たちに、どうかこの十戒の言葉が、キリストの命を潜り抜けて、私たちの命へとますます深く沁みわたりますように。いつでもあなたを真の神とする所から、すべてを始めさせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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