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「神様の恵みは離れない!」

2022年10月30日 いっしょ礼拝説教(降誕前第8主日)
牧師 朴大信
新約聖書 ペトロの手紙一5:8~11

                

今日、約2年半ぶりの「いっしょ礼拝」を、皆さんと共に献げることができます。コロナが本格的に始まる直前の2020年春以来となります。ところで、いっしょ礼拝とは、何が「いっしょ」なのでしょうか。

子どもの皆さんにとっては、どうでしょうか。いつもの子どもの礼拝に、今日は何だか大人たちがたくさん、一緒に参加してくれている。そんな気持ちでしょうか。また大人の皆さんにもお尋ねしたいと思います。いつもの10時からの礼拝に、今日はあの子もこの子も、一緒にこの礼拝堂の席に連なって礼拝している。そんな印象でしょうか。

確かにそうです。今日は子どもも大人も、幼い子どもたちから、お年を召したおじいちゃん・おばあちゃんたちまで、みんな一緒に集まっている。そういう意味での「いっしょ」です。でも、ただ一緒にいるだけではありませんね。私たちは今、一緒に礼拝をしている。みんなで一つの礼拝をしている。

では礼拝するって、あらためてどういうことだろうか。その一番大切なこと、礼拝を礼拝として成り立たせている最も大事なことは、私たちが、神様に招かれて集まっているということです。しかも、みんな子どもとして招かれているというところが、特に大切です。「大人たちもいるじゃないか!」と思うかもしれませんね。でも神様の前では、みんな子どもなのです。神様の前では、誰が年上とか、偉いとか、強いとか、立派とか、そういう差はありません。

なぜかって、それは父なる神様が、私たちをご自分の「子ども」として愛して、呼び集めてくださっているからです。だから私たちは今、みんな神様の愛の中で一緒になっています。神様の家族として招かれているのです。その愛を受けて、感謝と讃美を献げるのが、この礼拝の意味です。


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さて、今日のお話は、その神様の愛から、でも私たちは時々離れてしまうというお話です。聖書はそういう現実を見つめます。でもだからこそ、そうならないよう目を覚ましていなさい、と教えます。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(ペトロの手紙一5:8)。

私たちは時に、神様の愛から離れてしまう、と先ほど言いました。でも面白いことに、聖書はこの現実を少し別の角度から理解します。私たちが離れるのではなくて、私たちを、神様の愛から引き離そうとする力がそこで働いている。私たちは、そういう得体の知れない恐ろしい力に取り囲まれて生きている、というのです。

その力のことを、今日の聖書では、「敵である悪魔」とか、「ほえたける獅子」と表現します。獅子とはライオンのことです。そのライオンが、いつでも私たちを食い尽くして、神様から引き離そうと狙っている。想像してみてください。もし今、この礼拝堂の扉から、突然ライオンが皆さんを襲って来たら、どうしますか。「ガオ~!!」と激しく吠えながら嚙みついて来る。あわてて逃げ出すでしょう。礼拝どころではない。神様どころではない。自分の身を守ることが先だ。そう思うに違いありません。

もちろん、本当にライオンが襲ってくることなど、実際にはないと思います。でも私たちは、安心して礼拝をすることができない、世界の人たちのことも知っています。例えば、中国や香港の教会がそうです。実は、そこにはいつでも国の政治の偉い人たちが目を光らせて狙っています。神を拝むのはよいけれど、最も拝むべきは、国の指導者であるべきだ。その指導者を無視したり、説教の中で批判したりしたら、たちまち憲兵たちがライオンのように礼拝堂に入って来て、牧師や信徒たちを捕まえて牢屋に入れてしまうのです。

でも、私たちはもっと身近な現実を思い浮かべても良いかもしれません。神様から私たちを引き離そうとする力。例えばそれは、この礼拝の後、皆さんにお土産があると先ほど司式者の方が仰いましたね。それが今から楽しみで、礼拝に集中できなくなっている人も、いるかもしれません。あるいは今日のお昼をどうしようか、今度のお休みはどこに旅行しようか、等とウキウキした気持ちを抑えられないでいる方もいるかもしれません。

でも反対に、悲しい事、悔しい事、赦せない事、苦しい事、そうした思いを抱えながら、今日の礼拝に参加している方もいるかもしれません。学校や職場の事、家族の事、将来の事、色々と思い悩みは尽きません。もちろん思い悩むこと自体が悪いわけではないはずです。どうしても必要な悩み、大切な心配というものがあります。でもそれが、いつしか自分でも抜け出せない位の思い煩いとなって、大切な神様の存在を見失ってしまうことがあります。思い煩いが、神様に向かう私たちの心を曇らせ、神様から引き離す力をもってしまうのです。しかも厄介なことに、その力は実に巧みに働きます。神様から遠ざかってしまう自分は、「別に悪くない」。「仕方ないじゃないか」、「こうなる他なかったじゃないか」という風に、自分の姿や振る舞いに対して納得させるように私たちを仕向け、蝕むのです。


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そこで、今日のカテキズムの言葉を思い返してみましょう。


問62 主の祈りは何を第6に求めていますか。

答 「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」です。わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるようにと、心から願うのです。


イエス様が私たちに教えてくださった主の祈り。その6番目に祈ることは、慣れ親しんだ文語では、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と唱える、あの言葉です。「わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力」、それをイエス様は「誘惑」とか、「試み」と仰いました。

イエス様がこの祈りを教えてくださったのは、どれほど私たちが誘惑に負けやすい存在であるかをよくご存知だったからです。その弱さと罪深さを、誰よりも深い所で知り尽くしておられたからです。それだけではありません。私たちが神様の愛から離れてしまうと、どんなに惨めな姿になってしまうか。このことこそ、最も深く心を痛めながらご存知だったからです。


神様の愛から離れると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。すぐには分からないかもしれません。神様なんかに頼らなくても、自分は生きていけると思える時期もあるかもしれません。けれども、そう思っている間にも、ライオンは実に巧みに私たちを食い尽くし続けているのです。そしてふと気がついた時には、一人そこで取り残されたように、自分の人生が寂しく感じられるかもしれません。生きていることに手応えが感じられず、自分の命が虚しく思えてくるかもしれません。喜びから遠ざかってしまう。そしてそんな自分とは対照的に、ある人が幸せそうに見えると、その相手を妬んだり、ひがんだりさえしてしまうかもしれない。そんな自分がますます嫌になって、自暴自棄になることだってあるかもしれません。

ところで、私たちの魂は、どこにあると思いますか。たいていは、胸や心臓あたりを指すかもしれません。しかしイスラエルの人たちは、喉を指すそうです。魂の渇きは、喉の渇きに似ているからです。私たちは、喉が渇いたら水を飲むように、魂が飢え渇く時には、何かで満たさなければ潤いません。もちろんただの水では足りない。命の水が必要です。真に私たちを生かす命の水。それが神様の愛です。

でも、どうすればそれを頂けるのでしょうか。神様の愛。それは、言うまでもなく神様の言葉を通して与えられます。聖書を通して、またこの礼拝を通して、神の言葉が語られる。それが聴かれる時、命の水となります。しかし神様は、その不思議をさらに豊かな仕方で私たちに見せ、味わわせてくださいます。なぜなら神の言葉は、肉となり、形となって豊かに現れるからです。

昨日、最近始まったばかりの「しらゆりの会」の二回目が行われました。24名もの方が集まりました。私は、この会は、神の言葉が語られるこの礼拝が生み出した、新しい形の交わりだと思います。神様ご自身が、今この教会に必要なものとして願われ、プレゼントしてくださった大切な交わりの機会だと喜んでいます。この会は、特に派手なことをするものではありません。ただ純粋に互いをよく知り、仲良くなる。神様に向かう一人一人の姿を、もっと身近に感じたい。そのために、自分の話をしつつ、相手の話にも耳を傾ける。そのように、互いに語り合い、聴き合うことを大切にする会です。でもなぜだかそこに、喜びが湧き出てくるのです。

昨日の会で、ある方がこんなお話をされました。「きく」という漢字には、「聞く」と「聴く」の二つがある。どちらも「耳」がある。でも「聴」には、さらに「心」がある。私たちには、ただぼおっとしていても、そこでたまたま聞こえてくる音や声に耳を傾けるだけではない聴き方があるはずです。今そこで語られようとする言葉に、じっと耳を寄せ、心を尽くして聴くということ。「聴」の一番下に、「心」があるように、私たちも、相手の下に身を低めながら、心で相手の心を受けとめる。そのことの大切が語られました。


本当にその通りだと思いました。ただし実際には、どんなに心を尽くしても、相手の全てを受けとめられるほど、私たちは完璧ではないはずです。時には誤解もあるかもしれません。けれどもそこでなおも大切なのは、本当に全部受けとめられるかどうかではなく、そのようにして互いに深く聴き合ってゆこうとする姿そのものが、そこで信頼関係を造り上げてゆくということではないでしょうか。

そのような積み重ねの中で、私たちはある時に気がづくのです。自分は独りぼっちではないと。心を込めて自分のことを受けとめようとする仲間の前では、絶望する必要はないし、自分を繕ったり、我慢したりする必要もない。そのままの姿で自分はそこにいてよいと思えて来る。安心感が芽生えて来る。そしてさらに気付かされることでしょう。そういう大切な仲間を与えてくださったのは、神様だったのだと。このような形を通して神様はこの私を愛し、働いてくださっているのだと。神様の愛が、そこで染み渡るように注がれるのです。神様の恵みは、私たちから決して離れることはない。


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この神様が与えてくださった最大のプレゼント、それは何より、イエス様です。イエス様こそ私たちの最も尊い友。最も深い聴き手。私たちの全てを知り、全ての必要を知っていてくださるお方です。

今日教えられた主の祈りで、「我らを試みにあわせず…」と祈る時、その「我ら」の中には、イエス様ご自身も入って私たちと一緒に祈ってくださいます。神様の愛から、私たちがいとも簡単に離れてしまう弱さ、そしてその身勝手さや罪深さを誰よりも深く知り、悲しんでおられるからです。そしてその誘惑の闇から、私たちを、命を懸けて救い出そうとされるお方だからです。

この救いの恵みに与るべきは、大人も子どもも、みんな一緒です。「いっしょ礼拝」の本当の意味は、ここにあります。みんな一緒に、イエス様に愛され、招かれ、赦され、新しく生かされてゆくのです。ここに喜びが溢れます。

最後に、今日お配りする聖句カードの言葉と、それに続く10・11節の御言葉をお読みして終わります。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(10~11節)。


<祈り>

天の父なる神様。今日のいっしょ礼拝の恵みを感謝します。弱い私たちは、時にあなたから離れてしまいます。またいつでも、様々な誘惑に負けてしまう罪深さを抱えています。でもそんな私たちから、あなたご自身の恵みは決して離れることがない約束の言葉を頂きました。どうか私たちを、イエス様の愛の中に留め、イエス様が共にいてくださる友との豊かな交わりの中に生かし続けてください。イエス様の御名前によってお祈りいたします。アーメン。


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