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「私たちの礎」

2022年2月13日 主日礼拝説教(誕降節第8主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書43:1~7
新約聖書 コリントの信徒への手紙一3:10~17

             

私たちのこの教会の建物は、1980年に建てられました。それからもう40年余の歳月が経っています。実は本来なら、去る一月に、この教会堂を建ててくださった山共建設の当時の社長さんが、この会堂に足を運ばれて、主日礼拝を私たちとご一緒してくださるはずでした。そのような予定を立てて楽しみにしていたのですが、直前になってコロナの感染状況が再び険しくなったことから、しばらく来会を見合わせることになった次第です。

この社長さんとは、私は一年半ほど前に初めてお会いしました。わざわざ訪ねて来てくださいました。そしてこの礼拝堂の長椅子に並んで座りながら、40年経過していたこの建物のあれこれについて、色々興味深いお話を伺いました。しかし驚くことに、この社長さんは何度も、「この建物はまだまだ持ちます。大丈夫だと今もはっきり申し上げることができるくらいに、しっかりとした造りで建て上げました。あの頃の苦労が懐かしい」と仰いました。

その誇らしげな表情が忘れられません。けれども、決して高ぶることなく、実にもの静かで穏やかな姿であられたことの方が、なお私の印象に強く残りました。本物の専門家とは、こういう姿なのかと深く感心しました。そしてさらに驚いたのは、しっかりとした礎の上に、しっかりとした造りの建物を建て上げた後の、今ここに集まっている私たちの姿、特に日曜日の礼拝の姿を今度ぜひ見たい、否、ご一緒したい。そう仰ったことです。建物が本当に立つのも、崩れるのも、実はそこに集まっている人々のあり様が大切だから。そんな主旨のことを仰るのです。遠からず、礼拝でご一緒できる日を楽しみに待ちたいと思います。


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さて、今朝私たちに与えられましたコリントの信徒への手紙を書いたパウロも、随分はっきりとした、実に誇らしげなものの言い方にも聞こえるような仕方で、次のように語り始めました。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)。

自分は熟練した建築家として、建物の土台を据えた。そう語ります。その建物とは、まず何でしょうか。前回お読みしたすぐ直前の9節に、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とありました。あなたがた、つまりコリントの教会の人々を指して、その彼らを、「神の建物」と呼んでいました。教会に連なるキリストの信者たち、クリスチャンの群れは、その全体が言ってみれば一つの神の建物である。そう表現しながら、その建物が揺るぎなく立つための土台を私は据えたのだと、パウロはここで言っているのです。

前回も申した事ですけれども、パウロが「あなたがたは神の建物」と言った時、まずそこで考えていたのは、教会に集まる一人一人のことではありません。一人一人が建物であるということではなく、信仰者の群れ、信仰の共同体であるコリントの教会全体のことが考えられていました。「あなたがた」というのは、それ自体一つの教会であり、神の建物である。したがって、そこに集まる一人一人は、その建物を造り上げるための部分部分ということになります。

パウロはそういう意味で、今日の建物の話を展開していきます。けれども、だからと言って、一人一人の存在が軽んじられているのではありません。パウロの据えた土台は同時に、私たち一人一人の人生の土台ともなるからです。教会が神の建物であるということは、そこに連なる一人一人が、その建物を形作る部分だと申しました。その部分である私たち一人一人も、実はこの土台の上にしっかりと立っていなければ、教会も本当には成り立たないのです。

教会の土台は、そこに連なる一人一人の命と人生の土台でもある。このことを、私たちはしっかり受けとめなければなりません。教会には教会の土台があって、自分の人生にはそれとは別の土台がある、というのではないのです。言い換えれば、日曜日にこうして教会の礼拝に集っている私たちと、ウイークデーに家庭や学校、職場や地域で生活をしている私たちとが、別の土台の上にいるのではない、ということです。


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パウロが熟練した建築家のように据えた教会の土台が、私たちの人生の新しい土台ともなる。その土台とは何でしょうか。パウロは11節でこう述べます。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。

イエス・キリストが土台である。このお方を土台に据えて生きる。私は今日のパウロの手紙を読みながら、先週、天に召されたばかりの山﨑仰平さんのことを思い起こさないわけにはいきませんでした。

ご葬儀の後、私は最後に火葬場に向かいました。言うまでもなく、その数時間後には、生前の仰平さんとは別の、全く変わり果てた姿が目の前に運ばれて来ました。言いようもないものものしさがありました。堪え難くも、肉体がいよいよ完全滅んで消え去ってしまった恐ろしさと虚しさに襲われました。

けれども、ご遺骨を壺にお納めする際に一同気づかされたことがあります。それは、そのお骨が実に固くて丈夫であったということです。特に足腰の辺りがそうでした。全体重を最も底から支えている部分。肉体の土台とも言える部分です。それがとても固く残ったために、係の方が崩して収骨しなければならなかったほどです。

私は、それが仰平さんの生き様を象徴していたように思えました。多くの方がご存知のように、仰平さんは音楽の先生でありました。現役時代も退職されてからも、数々の要職に就きながらたくさんのお仕事をされました。教会でももちろん、多くのご奉仕を頂いたことは言うに及びません。しかしその働きや生き様を、最も見えない所で支えていた土台が何であったのか。それが最後にあらためて示されたことを確信したのです。

今日の箇所で、パウロがこの後いみじくも述べていますように、文字通り、火の中を潜り抜けて初めて映し出される真実なる姿。凄まじい火によって燃え尽くされても、なお残り続ける救われた者としての幸いな姿。それは、まさに主イエス・キリストを土台にして歩んで来られたお姿であります。

仰平さんは、「山﨑仰平」というそのお名前の通りに、山を仰ぎ続ける信仰に生きられました。それは一方で、山を仰ぎながらも、ご自分の信仰の弱さや身勝手さ、そしてその内に潜む己の罪深さを思わされ、忸怩たる思いを幾度も抱かされる現実を意味しました。しかし、だからこそ、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」というあの詩編第121編の信仰に支えられて来ました。

私の助け。それは主イエス・キリストのあの十字架の犠牲の愛だ。この愛に生かされる限り、自分も愛の内に生き直すことができる。愛の人として生きたい。苦しむ人の慰めとなるように生きたい。それが仰平さんの祈りであり、希望であり、ご自身の人生が本当の喜びとなるための核心でありました。

その意味で、仰平さんは、今日のパウロの言葉に倣って申せば、「熟練した建築家」でありました。言葉を変えるなら、実に謙遜な、熟練した信仰者でありました。ご自分の生涯の土台に、自分自身ヲ置くのではなく、キリストを土台に据えて生きて来られたからです。そしてその尊いお一人の命が、教会という神の建物を形造る部分となったからです。


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パウロは、自分のことを「熟練した建築家」と言い表しました。「熟練した」というのは、「知恵ある」という言葉です。自分のことを「知恵ある」と言うのは、随分と大胆なように思えます。しかしパウロは、自分の働きを誇ってこう述べるのではありません。彼がコリントン教会の土台を据えることができたのは、今日の初めに彼自身が明確に記していたように、「神からいただいた恵みによって」です。自分の知恵や才能によってではありませんでした。

彼が据えた土台は、人が考えて作り出したものではありません。11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台」とあったように、教会の土台、そして私たちの人生の土台として据えられているのは、イエス・キリストです。パウロがそれを据えたというのは、実にこの主なるお方を宣べ伝えたということに他なりません。それは、彼の能力による結果ではなく、そもそも彼の意志や決断によることですらなかったのです。

彼は、もともとイエスをキリストと信じる信仰には敵対心を持ち、教会を迫害する人でした。その彼に、生ける主イエス・キリストが出会い、彼の全存在を捕らえて、キリストを宣べ伝える使徒としてお立てになったのです。彼はこのキリストとの出会いによって人生の回心、あるいは、コペルニクス的転回とも言える人生の決定的な転機を経験して、今や伝道者として生きる者となったのです。それは全て、彼に与えられた神の恵みによることでした。彼は、自分に出会ってくださった主イエス・キリストを、そのままに何もつけ加えず、何も取り除かずに宣べ伝えることによって、知恵ある、熟練した建築家のように土台を据えることがでたのです。


ところで、そうは言っても、土台を据えるだけでは建物になりません。神の家にはなりません。だからパウロはこう言いました。「…他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(10節)。

土台の上に、実際に家を建てなければならない。問題は、「どのように建てるか」ということです。それは具体的に、どのような素材を用いて建てるか、ということです。12節に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」とあるのがそれです。キリストという正しい土台の上に家を建てる時、何をもって建てるかで、建物の姿は変わって来ます。私たちが、自分の人生を、そして教会を建て上げてゆく時に、何を素材として建てるかが問われているのです。

ここには、六つの素材が並べられていますが、それらは前半の三つと後半の三つに区別できるでしょう。つまり「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。そのように二つに分けるのは、その後の所に、おのおのが建てた建物が「かの日」に火によって吟味される、そしてそれが残るものか、燃え尽きてしまうものか、その二つのどちらであるかが明らかになるということが語られているからです。

「かの日」というのは、神がこの世の全ての者をお審きになる、終わりの時です。ですから、吟味する火というのは、神の審きの火を意味します。神の審きにおいて、私たちの建てる建物は、「残る」ものと「燃え尽きてしまう」ものとに分けられるというのです(14~15節)。つまり、神の審きに耐えられるものと、そうでないものとがある。そのことが、何を素材として建てるかによって決まる、というのです。あるいは、その素材をどのように用いるかによってこそ決まる、と言った方が良いかもしれません。

私たちは、教会を、また自分の人生の家を建てていくにあたって、神の最後の審きに耐えられるような素材を捜し出し、そしてよく吟味して用いなければなりません。素材をよく吟味するとは、教会という神の建物を建ててゆく際、自分がどのような素材・部分として用いられ、生きてゆくかということを意味します。そしてその時に大切なのは、人間の目から見て、これは立派だ、これはすばらしいものだと評価されるものが、神の審きに耐えられるとは限らないということです。いわゆる、社会的にみて成功を遂げた者が、神の目に価高いわけではないのです。

むしろ社会の片隅で貧しく目立たない人生を送った人が、しかし主を信じ、御言葉によって導かれ、支えられて生きた、その歩み方の方が、神の審きにおいては耐え残るものとなるかもしれません。また教会を建て上げてゆく時も、お金持ちがたくさん献金をしたり、優れた能力を持った人がすばらしい働きをすることは、確かに教会が実際に立っていく時には大切で、ありがたいことには違いありません。しかし逆にそうできない人たちは、神の建物の建設から除外されてしまうのでしょうか。否、神の目から見て、本当に教会を建て上げてゆく素材は、もしかしたら病気や老いで寝たきりの人が、日々教会のことを覚えながら、人知れず執り成しの祈りを献げる、そのような姿なのかもしれません。

金がいつも優れて、藁がいつも劣っているとは限らない。この世のものさしが、教会という神の建物の価値を決めるわけではない。私たちは、自分の人生を、そして教会を建て上げてゆくことにも、何をどのように用いてゆくのかよく吟味したいと思います。そこにおいて、人間の感覚や社会の常識に捕われるのでなく、終わりの日の主なる神の吟味に本当に耐える素材を見出してゆきたいのです。

そういう素材を見分けるための鍵は、神が既に据えてくださったあの土台、十字架につけられた主イエス・キリストという土台と、自分の素材がしっかりかみ合うかどうか、に尽きます。土台とその上に建てられてゆく建物とがしっかりかみ合い、マッチしていることが大切です。十字架につけられたキリスト、つまり神がその独り子を与えてくださるほどに私たちを愛してくださった、その自己犠牲の愛という土台としっかりかみ合い、結び合う素材によってこそ、自分の人生が、教会が、真の意味で建て上げられてゆくのです。


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最後に、本日併せてお読みしました旧約聖書のイザヤ書43章に、主に贖われ、主のものとされたイスラエルの民に与えられた約束が記されています。その第2節に、「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、贖いの恵みを土台として与えられた者は、この約束の内に生きることができるのです。そしてこの約束は、終わりの日の審きにおいても、私たちを支え続けます。私たちが建てる人生の建物が、また教会が、どんなに欠けの多い、問題に満ちた、燃え尽きるしかないものであっても、十字架につけられたキリストという土台の上に建てられている限り、主の救いは揺るがないのです。

人が建てる家は、完成した時が最も価値が高く、輝いています。しかし神の家は、時の中で朽ちることなく成長し続ける。この世に向かって光を放ち続けます。それを可能にしているキリストの土台の上に私たちも立ち、教会に結ばれる限り、私たちの命も輝き続けるのです。

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