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「私たちは神の宮」

2022年2月20日 主日礼拝説教(誕降節第9主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編27:4~6
新約聖書 コリントの信徒への手紙一3:16~23

             

『信徒の友』というキリスト教雑誌があります。私たちの教会でも毎月購読している雑誌であり、あるいは個々におかれましても、ご自分で買われて愛読されている方もいらっしゃることと思います。その『信徒の友』の一番最後に、「日毎の糧」というコーナーが設けられています。カレンダーに沿って、文字通り毎日毎日、日毎に、御言葉の糧が短く掲載される。その日の聖書箇所とその解き明かしが刻まれています。

そしてこれとセットのようにして、実はこのコーナーは、御言葉の糧に引き続いて、全国の諸教会のことも一日一教会ずつ、順に覚えて祈っていけるように構成されています。南から北に向かって、毎日一つの教会が紹介されて、祈りの課題が示される。その祈りを、教会の壁を超えて祈り合ってゆくのです。

今年の1月から、ここ長野県の諸教会が祈られる番となりました。そして去る2月8日㈫、私たち松本東教会のために全国各地の方々、そして教会が祈ってくださいました。その祈りの声は、ハガキというお便りの形となって、特に先週は毎日のように届けられました。20通程になるでしょうか。会堂内に飾ってはいますけれども、残念ながら今はほとんど集まれない状況ですので、ライブの皆さんは、ぜひ今度いらした時に手に取ってご覧頂きたいと思います。

私たちの教会が、多くの祈りに支えられている事実を実感させられます。また、ハガキという形をとらないまでも、背後にはさらに無数の祈りが積み上げられている恵みも、あらためて思わされます。これには本当に励まされます。その中で、一つこんな祈りの言葉がありましたことをご紹介します。

「『信徒の友』の今日祈る教会に合わせて、御教会をおぼえて…祈りました。明確に贖罪信仰の伝統を打ち立てて教会の形成の闘いを続けてきた教会、ここが突破口となって宣教の将来が開かれますように」。

明確な贖罪信仰の伝統。これは私たちが何度も立ち返るべき教会の原点であり、信仰の原点であり、そして福音の原点でもあります。贖罪。罪の贖い。私たちの罪が、十字架のキリストという尊い犠牲の代価によって赦されたということです。言葉ではそう理解できる。しかし、キリストの犠牲をもってして贖われなければならない罪、神の御前に告白して悔い改めるべき私たちの罪とは、あらためて、どんな罪なのでしょうか。

それは端的に申せば、自らを神としてしまう罪です。自分自身を神よりも上に置くという罪。そうしながら、つまり神を見失ってしまうという罪であります。しかし神を見失うということは、同時に、神によって見出されている自分の本当の姿をも見失う、ということに他なりません。神に知られている自分の真実な姿を見失い、自分の目で捕えている自分を、自分の本当の姿だと思い込んでしまう。それは言い換えれば、知らず知らずの内に自らを偽り、自分自身を欺くということでもあります。


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今朝与えられました、コリントの信徒への手紙。その18節で、使徒パウロはこう述べました。「だれも自分を欺いてはなりません」。私たちは、この言葉をどのように聴くでしょうか。そしてパウロは、なぜこのようなものの言い方をしたのでしょうか。

よく考えてみますと、「自分を欺くな」という教えは、特別パウロに言われなくても、あるいは聖書に示されなくても、私たちがよく知っている人生の一つの教えのようにも思えます。「自分を欺くな」。つまり「自分に嘘をつくな」、「自分に正直になれ」等というように、自分の人生を誠実に、真面目に生きようとする者が心得ておく教えとも言えるでしょう。人に何と言われようと、また、世の中の目でどう見られようと、自分は自分。私はいかなる時も自分自身であり続けたい。

けれどもパウロは、ここで、そういう御もっともな生き方を奨励するために語っているのでしょうか。実は、私たちがここで立ち止まってよく知らなければならないのは、いったいここで彼が語っている「自分」とは、どういう存在なのかということです。この「私」という存在が、いったい何であるのか。

これを知るためには、やはりどうしても前回からの繋がりを踏まなければなりません。すぐ直前の17節に「あなたがたはその神殿なのです」と記されていました。そして16節では、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と問うていました。私たちは神の神殿である。これはさらに9節では「神の建物」とも初めは言われていました。私たちは神の建物、神の住まわれる所、すなわち神の霊を宿す神殿になっている。その自分を欺いてはならない、ということなのです。

ともすれば、私たちは「自分を欺いてはなりません」という教えを聞くと、その言葉だけを切り取る限りは、「だから何だ?」等と言ってあまり新鮮味を感じないかもしれません。しかし神がこの自分の中に住んでくださっている、その神殿として生きる自分を欺いてはいけない、という新しい光の中でこの言葉が特別な意味を持ち始める時に、私たちは心を打たれるに違いありません。「あぁ、本当にそうだ!」と。「自分を偽ってはいけない」、「自分のことを錯覚してはいけない」、否、「自分の本当の姿を見誤ってはならない」のだと。そのことを忘れてものを考えたり、振舞ったりすると、もうそこで自分を欺くことになるのだと。


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ではいったい、自分を欺かないようにする姿とは、どんな姿なのでしょうか。自分に正直に生きる。誠実に生きる。しかしそれは、単純にそこに居るありのままの自分を自分で生きるというよりも、むしろそこで、神の眼差しに捕えられ、神との交わりに生かされ、神の御手によって既に新しく造られている自分の姿を、それこそ、ありのままに受けとって生きるということです。

そしてパウロは、そのように生きる姿を、具体的に18節でこう示しました。「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」。自分を欺くことなく、神の御前で本当にありのままに生きるためには、つまり「愚か者」になれというのです。

随分、突拍子もないことを言うなと思われるかもしれません。しかしもうご存知のように、この愚かさに生きるとか、あるいは本当の知恵に生きるとかというテーマは、パウロがこの手紙で最初から問題にしていた重要なテーマです。そして今日、いよいよ第3章の終わりに至って、パウロはこの問題に一区切りを付けようとします。


あらためて18節の言葉に着目しますと、「愚かな者になりなさい」というパウロの教えの真逆に置かれる姿は何でしょうか。それは、この自分が「この世で知恵ある者だと考えて」生きる姿です。そしてパウロは、私たち人間がいったい何によって自分を欺いているのかと言えば、それはまさに、「この世の知恵」に他なりませんでした。したがってこの手紙に見られる一つの大きな特徴、それは、これがパウロの、この世の知恵との闘いの言葉だということです。そして、共にこの世の知恵と闘おうという、私たちの教会への呼びかけの言葉だということです。そして、神の知恵に生きず、この世の知恵にどっぷり浸かって生きている私たちの内に蔓延る見えない罪、贖われるべき罪の問題を浮き彫りにするのです。

「この世の知恵」に対抗する神の知恵とは、すなわち「十字架の言葉」(1:18)に他なりません。キリストの、自己主張の言葉ではなく自己犠牲の言葉です。十字架の言葉とは、優劣をすぐにつけたがる、この世の物差しの中で互いに相対しながら競い合う自己主張、あるいは自己を正当化する類の言葉ではありません。そうではなく、文字通り、相対するものを絶する、これ以上ない程の絶対的な自己犠牲、そしてどこまでも己自身ではなく、他者、すなわち私たちを真に生かすために献げられた、キリストの尊い命の中から放たれる真実なる言葉です。

この十字架の言葉を愚かにするようなこの世の知恵に生きるならば、私たちはそこで自分を欺いていることになる。私たちは今日、神の神殿としての自分を欺いてはならないと教えられていました。しかし私たちが神の宮になる前の存在、つまり神をまだ自分の中にお迎えしていない時、あるいはキリストの十字架の言葉を自らの内に刻み込む前の時に現れて来ていたのが、「この世の知恵ある者」としての姿でした。そして私たちは、キリストの洗礼を受けた後も、しばしばこの姿に逆戻りしてしまう事を認めざるを得ないでしょう。

そのような姿で生きている時に、もし私たちが自分のことを知恵ある者だと誇っていたとするならば、自分は何と愚かであったかと、そして今もなお愚かであり続けているかと、気づかされることでしょう。否、むしろ「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」(19節)と、私たちは恥じることを知らなければならないとさえ言えるでしょう。そのような愚かさに私たちは生きる。しかしそう気づかされる時、そこで打ち砕かれてゆくその自分自身の中に起きている神の真実に、私たちはむしろ身を全て委ねて生きてゆく。それが、実は「本当に知恵のある者」として生きていることになるのです。


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こうして、パウロがこれまで切実に訴えながら述べてきたことは、決して理論上の事柄ではありません。この手紙を宛てている所の、コリントの教会の現実を直視してのことでした。これも今まで幾度も触れられ、今日もまた触れられていましたが、コリントの教会の中で、この世の知恵を誇る者たちがいた。そしてそれは、党派争いにまで発展していた。「私はパウロにつく」、「私はアポロに」、否、「私はケファに」と言った具合にです。

しかしパウロにしてみれば、このような自己主張同士の争いが起こるのは、結局、神に見出されている自分の本当の姿を欺いているからだと見えるのです。自分を、「この世で知恵ある者だと考えて」いる。およそ、この世の対立や争いの根本には、ほとんどこうした思いや誇り、プライドがあると言うことができます。こう言うと、すぐに反論が上がるかもしれません。「否、私は自分が知恵ある者だ等とは思っていない、むしろ全く知恵の足りない者だから、もっと知恵を得たいと願っているのだ」という謙遜さを訴えたくなるかもしれません。

けれども、どうでしょうか。実はコリント教会の人々も、最初は同じ謙遜さを持っていたと言えます。だからこそ、彼らは知恵ある教会の指導者たちに結びついてゆきました。ある人はパウロに、ある人はアポロに、ある人はケファについた。確かに、どの指導者も立派だった。しかし当人たちには、そんな自覚や自惚れはなかった。問題は、そういう指導者たちに付いて知恵を得よう、より優れた者、より立派な信徒になろうとした、コリントの教会の人たちでした。

党派はそうして生まれました。そしていつしか、自分たちの方があのグループよりも優れた知恵を持っていると高ぶるようになったのです。ですから、自分は知恵のない愚かな者ですと、謙遜に振舞ってさえいれば自分を欺くことにはならない、とは言えないのです。「自分は愚かだから知恵が欲しい」という思いと、「自分は知恵ある者だと誇る」という思いは、根っこでは同じなのです。どこまでも、この世の知恵に生き、自らを誇ろうとする姿は変わらない。


だからパウロは21節で、「だれも人間を誇ってはなりません」と畳みかけます。人前だけでなく、神の御前でこそ、自分たちを誇らないようにしよう。欺かないようにしよう。絶えず愚かな者とされながら生きてゆこうと呼びかけるのです。しかしそのように訴えて、その後に大変驚く言葉にぶつかります。「すべては、あなたがたのものです」。

なんと大胆な言葉でしょうか。この世のありとあらゆる全ては、あなたたちのもの。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの」(22節)。実にスケールの大きい言葉です。コリントの教会の人々は、この世の誇るべき知恵を手にしたいと願っていました。そうならば、その知恵はとっくにあなたがたのものだ。そう言うのです。否、それだけではない。その知恵を授けてくれたパウロやアポロ、ケファといった指導者たちも、もうあなたのものだ。いやいや、もっとはっきり言っておこう。この世界、そしてこの世の宿命である生きること死ぬこと、つまり今目の前で起きていることだけでなく、将来のことも、死後のことも、みんな余す所なく、あなたがたのものだ!それらは全て、自分のものだと言えるのだと言うのです。


私たち自身のことを考えてみますと、確かに私たちは心の中で、何でも自分の手に入れることができたらどんなに良いだろうかと、願っているふしが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。知識だけではありません。様々な形の財産。レストランで選びきれない食事のメニューのあれこれ。名声。健康。長寿、などなど。そしてさらには、いくら自分で頑張って手に入れても、それだけでは足りないという脅迫観念。隣りの芝生が、つい青く見えてしまう現実。分かってはいても、無いものねだりをしてしまう自分。そうした無限の所有欲に耐えず駆り立てられています。

そういう意味では、実は私たちはそれらを自分のものにしようとしている内に、いつの間にか、それらの虜となっている。それらを支配しているようで、実のところ、支配されている。従属している。私たちは、時に社会で多数が認める価値観の虜となる。時に国家の所有物ともなる。あるいはシステムの虜、経済の所有物、あるいはまた、誰かの奴隷のようにもなったりする。だんだん苦しくなる。気付いた時には、もはや逃げられなくなっている。抜け出す力も術もない。そうした、決して望んでそうなった訳ではない、私たちの悲惨な現実のただ中で、しかしパウロは本当に大胆なことを言う。それら全ては、あなたがたのもの。なぜ、こんなことが言えるのでしょうか。


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それは、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからです。この最後の23節で決定的な言葉として語られているのは、私たちがキリストのものとなっている、ということ。私たちの全存在が、主イエス・キリストの所有となっている。私たちの持っているもので、キリストに明け渡す訳にはいかないようなものは何一つなくなる、ということです。

そのキリストは、神ご自身のもの。神がキリストを持ち、キリストが私たちを持っている。そしてパウロもアポロもケファも、この世界も、生も死も、今起こっていることも将来起こることもみんな、このキリストの御手の内にあるもの。だからキリストの中にいる者にとって、全ては自分たちのもの。決して支配されない。虜になどならない。一切が私たちを縛るものではなくなる。私たちはキリストの真実の中で自由にされるのだ!

考えてみれば、全てが手に入るといっても、決して万事が手放しで喜べるものだとは限りません。「生も死も」とあります。生の方はありがたいけれど、死が私たちに属するなんてとんでもない。むしろ脇に置いておきたい。できるだけ遠ざけたい。そう思うでしょう。でも現実はそうはいかない。あるいは今起きていること、将来起きていることだって、その中には受け入れ難い現実、耐えようもない苦悩は、どうしても伴うものです。

けれども、それも全て私たちのもの。みんな受け入れたらよい。もちろんそれは、自分の手の中にあるからと言って、全て綺麗に対処できるものではありません。むしろよろめき、たじろいでしまうかもしれません。しかしそうだとしても、そこで自分一人ではない。キリストが全て主人として引き受けてくださる。たとえ思いがけない死の定めが待っていても、この死も私のものだ。今経験しているこの困難も私のものだ。否、キリストのものだ。そして父なる神のものだ。そのように、私たちが全てのものを神の一切の全権に委ねることによって、自分のものとして受け入れることができるのです。

キリストの体として生きる私たち教会共同体は、この命に生きることができます。なぜなら、私たちは神の神殿だからです。そしてまた、この私たち教会全体も、神の霊を宿し、キリストのものとされている神殿だからです。最後に、本日併せてお読みした詩編第27編の御言葉に耳を傾けて、終わります(4~6節)。

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