2023年7月23日 献堂記念礼拝説教(聖霊降臨節第9主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編49:10~13
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:12~19
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「初めに、言葉があった」。これは既に多くの方がよくご存知の、ヨハネによる福音書の最初の言葉です。この表現があまりに素晴らしいために、後の時代になって様々な言い替えがなされて来ました。例えばドイツを代表する文豪ゲーテは、その作品『ファウスト』の中でこう記しました。「初めに、行為があった」。では、もしパウロだったら、何と表現したでしょうか。私は今日の手紙を読みながら、このように想像します。「初めに、復活があった」。
振り返ってみますと、パウロはこの手紙の本論のクライマックスとも言える第15章の初めの方で、このように述べていました。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと…」(3節)。
こう述べて、その復活したキリストがいったい誰に現れたのか、それはこの自分のような月足らずの者にも最後に現れてくださったのだ、ということを証言しました。そして今日、このキリストの「復活」を巡って、もう一度12節から詳しく語り直してゆくのです。繰り返し語り直し、強調せずにはおられなかったコリント教会の、懸念すべき事情があったからに違いありません。
パウロは次のように思いをぶつけました。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)。どうやら、「死者の復活などない」という誤解が広がっていたようです。否、単なる誤解では済まない。パウロにしてみれば、それは致命的な福音の誤解だと言って良い。死者の復活などない、とは何事か。だから、これを問題視するパウロの言葉は続きます。「死者の復活がなければ…」(13節)。同様の訴えは「もし、本当に死者が復活しないなら…」(15節)、「死者が復活しないのなら…」、(16節)という言い回しにおいても繰り返されます。
ところで、死者の復活の「死者」とは誰のことでしょうか。細かい話のようですけれども、この死者は、原文では複数形で書かれています。つまり「死者たち」。たったこの違いだけで、この死者とは、抽象的な意味での死人ではなく、実際に死んでいった者たちのことを指すことが分かります。既に死んだ者たち。それはまた、やがていつかは死すべき私たちのことも含むことになります。
そうしますと、12節でパウロが言いたかったことはこうなるでしょう。まずキリストが、実際に死んでいった者たちの中から復活されたことを自分はこれまで宣べ伝えた。だからこそ、その死者たちもまた、キリストに続いて復活するのだという約束の希望を語った。キリストの復活が、私たち人間の復活の根拠になるということです。ところがこれを疑い、否定する者たちが現れたというのです。
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私たち自身の復活。いつかは必ず死すべき人間が、本当に死んでしまった後、もう一度甦るという約束。私たちはこの約束に対して、どれだけの希望と、また現実味をもって生きることができるでしょうか。この約束は、はたして死後にだけ意味を持つものでしょうか。しかしこのことは、今を生きる私たちの生活や命の根本に関わることなのです。一言の英語で言えば”life”。すわなち、私たち一人一人の命と、生活と、人生全体にまで及ぶ、私たちの存在そのものに深く根差す信仰の決定的な事柄に他ならないのです。
さて、本日は献堂記念礼拝を覚えて、この礼拝を守っています。今年で献堂43年の歳月を数えることになります。ちょうど昨年の記念礼拝に、この会堂を建ててくださった㈱山共建設の当時の社長降幡廣信さんをお迎えしたことは、記憶に新しいことと思います。そしてご本人から、この会堂に対する思い、また何より、ご自身の信仰の証を直接伺うことができことは本当に幸いでした。実はその降幡さんが、何という巡り合わせでしょうか、教会で毎月購読しています『聖書をいつも生活に』というクリスチャン向けの新聞の次月(8月)号に、証し人として紹介されています。
建築家として広く知られる降幡さんは、日本建築学会賞をはじめ、既にこの分野で数々の賞を受けて来られましたけれども、特に「古民家再生」におけるパイオニア的存在として注目を集め、現在では「古民家の父」として慕われています。「1980年頃から前例のなかった古民家の再生事業に取り組み、古い物の風情や味わいは残しつつ、現代生活の利便性を取り入れる斬新な設計・工法の方法論を確立」したと言います。
けれどもここに至る道のりは、決して順風満帆とはいきませんでした。古びたものはどんどん壊され、捨て去られ、絶えず新しいものが価値あるものとして歓迎され、追求される風潮の中で、降幡さんの仕事は、「古家の造作」と揶揄されたりもしたそうです。しかし、それでも心折れずにやり続けられたのは、聖書で知った「新生」の恵みが支えになったからだと言います。「人が新しく生まれ変わるなら、民家が生まれ変わってもいいだろう」。
実は降幡さんご自身、27歳の時に大病を患い、一時は自死を考えるほど追い詰められ、心身が衰弱していく中で本格的な求道生活を始められました。そして聖書を通して「天国という世界があることや、キリストによる救いが人を『新生』させることなどを学ぶうち、胸に希望の灯がともるようになりました」と告白しておられます。絶望と死の闇に暗く閉ざされていた自分の命に、天からの光が差し込んできた。そして永遠に朽ちることのない天の国での命を、イエス様の救いによって確信できるようになった。
この、まさに自分自身の復活の希望が、しかし降幡さんにおいては、天の事柄にだけ留まるのではなく、地上にあっていかに生きてゆくかという人生の問題と深く関わってゆくようになります。それが「新生」という意味でありましょう。新しく生きる。死にかけていた者が、本当の命を得て、新しく生きる者とされる。そのようにして、若き日々の人生の危機を乗り越えていかれた。そしてそのご自身の身に起こった「新生」体験が、建築界における「古民家再生」の道を切り開いてゆく原動力ともなりました。
私たちは、降幡さんの証を通じて、単なるこの世のサクセスストーリー(成功物語)を聞かされているのではありません。降幡さんの人生を支えていたものは何であったか。そして私たちは、人生の究極において希望をどこに置くのか。そのことが問われています。死が全ての望みを絶ってしまう、そのとてつもない絶望を突き破る復活の勝利が、私たちの人生に約束されているのです。
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もう一度、今日のパウロの言葉に戻ります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)。
コリントの教会の中に、死者の復活など無いと言う人々がいる。それはつまり、自分たちの復活はない。人間死んだらそれでおしまいだ、と考える人たちがいたということです。どうしてそのような人々が現れたかについては、詳しく分かりません。しかしおそらく、次のように想像することができます。
この人たちとて、キリストによって教会に導かれたのですから、キリストの復活は信じていたはずです。そこまで否定することは無かった。けれども、おかしなことに、キリストご自身の復活は信じるけれども、死者の復活は信じない、という人々がいたようなのです。神の子・キリストにはあり得ること。しかし、自分たち人間にはあり得ないこと。一度死んだ人間が、しかも葬られて腐敗しきった肉体が、まるでゾンビのように生きかえるなど起こり得ないではないか。
そう訴えながら、むしろ彼らの大いなる関心は、まさにそうした朽ち果てるべき肉体から解放をもたらす、霊の永遠性にありました。目に見える肉よりも、この、目には見えない霊を重んじる信仰の方が何より大切だった。やがてこの自分の肉体が滅びようが、どうなろうが、そんなことは自分の救いに関係ない。自分にとって究極の救いは、肉体に縛られることのない霊の永遠性である。そうした当時のギリシアの精神風土に由来する、いわゆる霊肉二元論に基づく信仰が、教会の中にも広がっていたのです。
このような信仰は、突き詰めれば、救いは、既に今この地上の生活において霊的に全うされている、ということになります。だから、死後の復活、死者の甦りなどさして問題にならない。ましてや体が復活する、体をもって私たちが甦る、等ということは何の真実味も無ければ、希望にもならない。そのような彼らの信仰の姿に、パウロはついに声を上げずにはいられませんでした。
「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(13節)。もし本当に、あなたたちが思う通り、死者の復活など無いとすれば、いったいどういうことになるのか。パウロはここから、特徴のあるものの言い方をしてゆきます。死者の甦りはない、という人たちに対して、「いや、ある」とは答えません。そうではなく、もし死者の復活がないなら、キリストの復活もなかったはずではないか、と言う。さらには、もしそうなら、あなたがたの信仰も全部崩れてしまうではないか、とまで畳みかけるのです。
この13節の言葉は、16節にもほとんど同じ調子で繰り返されていますので、ここにパウロの急所が、つまりこの手紙の読み手に、ぜひ分かってもらいたいと願っている真実が示されているはずです。そしてパウロにしてみれば、これまでみてきたコリント教会の実に様々な問題の根っこには、まさにこの「復活」を巡る大いなる誤解や、それを軽んじる姿勢があると見ていたに違いありません。
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「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」(16節)。二度も同じことが語られるパウロのこの確信的な言葉は、しかし、この手紙を読み継いできた教会の歴史においては、ここは不思議にも、少し誤解されてきたところがあります。つまり、そもそも死んだ人がもう一度甦るなどということはあり得ないのだから、キリストの甦りもあり得ない。人々は普通そう考える。けれども、実は死んだ人間であっても、復活するということはあり得る。自分はそう信じる。だから、キリストにも甦るということが起きるのだ。パウロはそういう論理展開をここでしているのだ、と読むのです。
これは結局、復活の根拠をどこに置くかという話です。パウロの意図に反して、ここでなされている誤解は、復活の根拠をどこまでも人間の側に置くということです。それはまた、人間の常識の中にこそ根拠を据えて物事を判断する、という発想です。そうすると、ここから導き出される結論は二つしかありません。もし死んだ人間が甦るということがあるなら、キリストにだって復活はある。でも死んだ人間が復活しないなら、キリストにも甦りはない。
しかし、はたしてパウロはそんなことをここで言おうとしたのでしょうか。むしろまったく逆でしかあり得ません。復活の根拠は、人間になんかない。キリストにしかない。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかった」。既に死んだ者も、またやがて死すべき私たちも、もし死者が復活するということが本当に起こらないなら、それはキリスト自身も、本当には復活しなかったことになる。
とどのつまり、死者の復活を抜きにしたキリストの復活などあり得ないということです。死者の復活を目指さない、単なるキリストご自身のための復活など、全く意味をなさないということに他なりません。
キリストの復活。それはただひとえに、決定的な破滅へと落とし込める死の淵から私たち人間を救い出し、甦らせてくださるための出来事に他なりませんでした。私たちがそれを知ろうと知るまいと、また信じようと信ずまいと、神は、私たちの思いを越えて、私たちよりも先回りして、予め私たちにとって最も必要な救いの約束を、キリストを通して実現してくださったのです。
なぜなら神は愛だからです。私たちをどこまでも愛してくださるお方だからです。神は、私たち抜きでも存在し得る全知全能のお方でありますが、しかし神は、他でもない私たちを愛し、その交わりの内に置き続けることこそを、何よりも喜びとするお方だからです。だからこそ、「インマヌエル」。まさに私たちと共に生きてくださる約束を果たすために、キリストをこの世にお遣わしになったのです。
そのキリストの復活の恵みに私たちが与るということ。それは、私たちもまた、死者の中から甦らせて頂ける約束が手渡された、ということに他なりません。けれどもそれは、死後において初めて死が克服されるという約束に留まりません。私たちを死に追いやる罪そのものが、神によって打ち砕かれ、赦され、神の永遠の祝福の中で、私たちは既にこの地上にあって、神との愛の呼吸の内に生かされるものとなったのです。
だからパウロは、今日の箇所で繰り返し、またこう述べるのです。もしもこの、キリストの復活という決定的な出来事がなかったら、私たちの信仰は「無駄」(14節)だと。そしてその信仰は「むなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることにな」ると(17節)。
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このパウロの言葉から、私たちは今年もまた、耳にもう一つタコを加える思いで、この献堂記念礼拝を覚える度に、ほとんど毎年のように思い起こし続けている次の言葉を、共に心に刻みたいと思います。すなわち、「会堂のあることによって、信仰の堕落を恐れる」。この現在の教会堂が、教会の創設以来初めての、悲願の会堂として建てられた時に、当時の和田正牧師が、言わば釘を刺すように仰った言葉です。
いったい、「信仰の堕落」とは何を指すのでしょうか。パウロもまた、信仰が無駄になるとか、むなしくなると言う。しかしこれは、抽象的な話ではありません。信仰が堕落し、全部がむなしく崩れるということは、信仰だけのことではなく、まさに信仰をもって生きる私たち自身が、堕落して、むなしくなるということです。
では、信仰が堕落しないために、何が大切でしょうか。反対に言えば、「信仰の完成」とは何でしょうか。そして、信仰に生きる私たち自身の人生は、いったい何をもって完成し、成し遂げられるのでしょうか。この世の成功や功績でしょうか。あるいは、この世の終着点である死でしょうか。
確かに死は、ある意味で、私たちの人生を完成させます。そしてそれまでのその人の歩み、またその中で積み上げてきた様々な功績をも最大限に美化さえしながら、その人生を輝かしいものにする。しかし私たちを本当に輝かせるのは、死に打ち勝つ復活の希望です。やがて朽ち果ててゆくこの命にあって、その闇を突き破る永遠の命こそが、私たちの命を内側から灯し、燃え上がらせ、神の祝福の内に生かすのです。そのために、甦りのキリストが、その祝福の源、初穂となって、今この時を生きる私たちに出会ってくださいます。
<祈り>
御子イエス・キリストを甦らせてくださった天の父よ。主のご復活によって、死すべき私たちにも新しい甦りの望みが与えられていることを、感謝いたします。天に約束された復活の命、あなたと共にある永遠の命が、どうか、今この地上を生きる命にも光を注ぎ、私たちを足元から支え、立ち上がらせる力となり続けますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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