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「私たちを造り上げる言葉」

2023年5月21日 主日礼拝説教(復活節第7主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記11:1~9
新約聖書 コリントの信徒への手紙一14:1~19

             

ご一緒に読み続けていますコリントの信徒への手紙一は、本日から第14章に入ります。その第1節にこう記されていました。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。皆さんはここをどうお読みになったでしょうか。

私は、この最初の1節で躓いてしまいました。「愛を追い求めなさい」。これは分かります。パウロは直前の第13章で「愛の讃歌」と呼ばれる言葉を歌い上げるように記し、その終わりに「最も大いなるものは、愛である」と結んでいた(13節)。だからこれに続く今日の第14章で、あなたがたも「愛を追い求めなさい」と呼びかける。ここまでは自然な流れです。

問題はその次です。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。これは、やはり直前の第13章ではこう言われていたのではなかったでしょうか。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(8~10節)。死んでも滅びない愛に対して、預言は完全なものを前にした時には廃れる、と言われていたのです。その不完全な預言の賜物を、しかし今日、愛と並んで、熱心に求めなさいと言われる。なぜでしょうか。

そもそもパウロがこの手紙を書くことになったのは、彼が指導者として立てたコリントの教会で、分裂を引き起こす問題が次々起こっていたからでした。そこで、あるべき教会の姿を繰り返し強調することになる。いったい教会とは何だろうか。何をする所だろうか。

教会は、ただ建物のことを指すのではありません。何より集まる群れです。より正しくは、キリストによって集められている群れです。では集まって何をするのか。集会をする。礼拝をする。その時、聖書が読まれ、語られる。神の言葉が語られ、聞かれる。しばしば証しもなされる。そして讃美が歌われる。こうしてみると、ここには一つ、どうしても言葉というものが欠かせないことが分かります。そしてまさにこの言葉なしに、教会は成り立たないのです。

そこでパウロが真剣に問おうとしたのは、はたして教会がどんな言葉を語るのかということです。教会の言葉を真実に支えるものは何か。考えてみますと「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」(13:4)といった愛の姿が、まずどこで具体的な形を取ってくるかと言えば、それは教会で語られる言葉においてではないでしょうか。教会においてこそ、何より愛を追い求める時、それは真実なる言葉を追い求めることと切り離すことができないのではないか。それが、今日の第1節に込められたパウロの心ではないかと思うのです。


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「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。

こうして、愛に裏打ちされた真の言葉、霊の賜物として与えられる「預言」というものの大切さを、パウロはこの後訴えてゆきます。そしてお気づきの通り、今日ここで一貫して問われるのは、「預言」と「異言」という二つの教会の言葉です。

ところで「異言」という言葉は、ほとんど聞き慣れない言葉だと思います。あるいは、この言葉自体は耳にしたことがあるにしても、実際に異言が語られている所に居合わせたことのある方は、ほとんどいらっしゃらないかもしれません。そもそも「異言」という日本語は、翻訳語でありますけれども、よく工夫の凝らされた訳語だと言えます。異なる言葉。ただし元々のギリシア語には、このような意味はありません。むしろ人間の「舌」という意味を語源に持つ言葉だと言われます。舌が勝手に生み出す言葉だと言っても良いかもしれません。

「舌」は、「言葉」を象徴します。私たちは普段、この舌を上手に操ることによって言葉を発しているからです。この舌を自由にコントロールできなければ、うまく話せない。ところが異言とは、まさにこの舌が自分のコントロールから外れて、勝手に動き出してしまう現象です。そしてこれは人間のなす業ではなく、聖霊がもたらす賜物なのであって、誰もが異言を語れるわけでもありません。

私はかつて、この異言を傍で聞いたことがあります。ある祈祷院でのことです。個室になっていて、それぞれが黙想や祈りに集中していた時のこと。私の部屋のどの方角からだったかは覚えていませんが、ともかく近くの部屋から、聞いたことも無いような声が聞こえてきました。まずその音量が、地響きがするように凄かったのを思い出します。それがあまりに特異に聞こえたために、もはや自分の祈りに集中できなくなり、しばらくその声に耳を傾け続けました。しかしよく耳を澄ませると、それは、ある意味のまとまりを持つ言葉というよりは、聞いても全く分からないような音の連続でした。何を言っているのかさっぱり分からない。まるで外国語のようだ。異国の言葉。異質な言葉。あるいは奇異にさえ感じる違和感のある言葉。その意味でまさに「異言」と呼べるような言葉だったのです。


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この異言という現象は、古今東西、実際に起こり得るものです。そして霊からの賜物として、教会に与えられている特別な言葉です。当時のコリントの教会も、初代に建てられた教会としてこの言葉を追い求め、大切にしていたことでしょう。次週はペンテコステでありますけれども、まさに「炎のような舌」を与えられ、霊的な確信に生きていたに違いない。

したがって、パウロはここで、頭ごなしにこの異言に対して批判を展開するのではありません。5節で「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはない」と言います。あるいは、最後に近い18節で彼は、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」とさえ言っているのです。実は他でもないパウロ自身が、異言を誰よりも雄弁に語ることができたことを、私たちは初めて知らされます。

しかし、だからと言ってこれを手放しに重宝して良いということではない。そのパウロの心を表す言葉が幾つもの箇所で見られます。「異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(5節)。13節では、「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と言われます。そしてもっとはっきり言われているのは、もう少し先の27節以下です。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」。

「解釈」の大切さが何度も強調されます。「通訳」と言ってもよいでしょう。教会で異言が語られる時、もしその傍から、その意味するところを誰かきちんと分かるように説明できる者がいなければ、黙っている方が良い。否、黙っていなさい、とまで言われるのです。もちろん自分一人の祈りの生活の中では、その場所で神に向かって思うままに、舌が動くままに異言を語っても構わない。

けれども、「だれよりも多くの異言を語れる」賜物を与えられたパウロがここで明確に心に決めていたことは、自分の語る言葉が誰にも通じないままの状況で異言を語ることはしまい、ということです。なぜかと言えば、それは結局、「自分を造り上げる」(4節)だけのものにすぎないからです。自分自身を高めるだけで、周りの人を生かし、共に「教会を造り上げ」(同)ることにはならないからです。ただ自らの高揚した霊的体験に酔いしれるだけのことだ。要するに、そこで語られる言葉は、真の愛を失ったままの言葉だということなのです。


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ではいったい、教会で語られるべき言葉とはいかなる言葉なのか。それが今日の、「異言」に対する「預言」ということになるのですが、ここでパウロが多くのことを述べている中で、一つ、印象深く心に留まるような語り方をしている箇所に注目したいと思うのです。

「だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか」(6~8節)。

興味深いことに、ここに幾つかの楽器が登場します。笛や竪琴、最後にはラッパが出てくる。そしてパウロは言うのです。こうした「命のない楽器」(7節)が本当に命あるものとなるためには、しっかり音に変化をつけ、いったい今「何を吹き、何を弾いているのか」(同)、聴いている人たちにそれが分かるように、「はっきりした音を出さなければ」(8節)ならないのだと。

特に興味深いと思うのは、最後のラッパです。もしこのラッパがはっきりした音を出さなければ、どうなってしまうのか。「だれが戦いの準備をしますか」と言われるのです。ラッパというのは、単に音楽会や晴れの舞台などで吹かれる楽器のことだけではありません。戦争という、厳しい戦いがいよいよ始まろうとする時にも、戦意を高める合図の道具としてしばしば使われます。

そのような意味でのラッパが、曖昧で意味不明な音しか出さないとなれば、いったいどうして、人々の心に戦いの構えを呼び起こし、これから一丸となって気を引き締めて、戦いに挑んでゆこうとする士気を高めることができるでしょうか。中にはぼんやりしている者、うつむいている者、戦う意欲を失っている者がいるかもしれません。しかし、まさにそのような人々の心を掴むラッパの音が鳴り響く時、その明確な音に奮い立たされながら、臆病で後ろ向きになっていた者たちが気を取り直すということが起こる。そして戦いに出て行くための構えがそこで造り出される。


このラッパとは、もちろんここでは比喩として用いられています。そして町の中でラッパがきちんと鳴り響くということは、そのまま教会においても、明確な言葉がしっかりと語られる、ということを意味します。人々の心を捕え、説得し、回心させ、神に向かう備えをさせる言葉であります。そしてこの世に向かって、信仰者として生き抜くための戦い、神の言葉・福音の言葉を携えてこれを人々に宣べ伝えるための戦い。この戦いに備えさせる言葉であります。

その言葉のことが、6節では「啓示か知識か預言か教えかによって」語られる言葉、という風に言い表されます。「啓示」とは、隠されていたものが明らかにされるということです。この場合、特に神について隠されていたこと、覆われていたものが明らかにされるという意味です。問題は、誰がそれを明らかにするか。私ではありません。神ご自身が、自らを明らかにしてくださるのです。人は、自らの力によっては神を知ることができない。神がご自身を現わしてくださるのでなければ、私たちは本当には神の姿を知ることができないからです。

この神の啓示が決定的な仕方で起こったのが、イエス・キリストの誕生でした。神は、御子イエスを私たちのために与えてくださる仕方で、ご自身を現わしてくださったのです。のみならず、その愛する独り子の命を十字架の死に引き渡し、三日目に甦らせ、やがて天に挙げられると共に聖霊をこの地上に送ってくださることをもって、神はご自身を現わし、私たちを愛してくださいました。神の啓示は、神の愛に外なりません。

この神の啓示を、人間の側で捉えたものが「知識」です。神学や教理などがこれに当たるでしょう。そしてこの知識を広く語り伝えること、これが「預言」です。今で言えば、礼拝における説教がこれに当たります。しかし単なる知識の披露や解説ではありません。その漢字が言い表しているように、この預言の言葉は、何より神から預かっている言葉です。神が私たちに託して届けてくださっている言葉です。神が私たちを諦めずに愛し、永遠に交わってくださる、その神ご自身の覚悟を決めた啓示の行為に基づいて語られる、奉仕の言葉に外なりません。

そして、この神ご自身の啓示に仕えようとする預言の言葉は、さらに実際の場面では、教会の礼拝を越えて、生活の場で、あるいは教育の場で、ありとあらゆる人間関係や社会において、信仰上の指針を示したり、教え導いたりする言葉ともなるために、「教え」になります。


このように、教会の言葉は、いつも神の啓示によって始まります。そして私たちに対する神の愛が注がれてこそ、それを受けて生きる私たちの言葉の営みにも真の命が与えられ、役割が与えられてゆきます。その中で、特に今日は、「異言」ではなく、「預言」の大切さが何度も強調されました。「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(19節)。

その意味で、この礼拝で毎週語られる説教が、預言の言葉として、どこまでも神から託され、その神にお仕えする言葉として、そしてそれがそのまま神の愛の言葉となるように語られ、また、聴かれるように、私たちは全身全霊でこれに集中しなければなりません。


*****

もちろん私たちは、必ずしも全員が、預言者や牧師になる必要はありません。様々な生き方があり、役割がある。しかしそこには共通して、ある一つの戦いがあるのではないでしょうか。それは、神に選ばれ、神の命に生かされている私たちが、福音の言葉、つまりこの世に対する勝利の喜びを、ラッパが鳴り響くようにはっきりと語り伝える者としてこの世に遣わされてゆく時に抱える、戦いです。家庭であれ、職場であれ、人間関係においてであれ、必ずそこには戦いがある。神の言葉、信仰の言葉が通じないという戦いです。

言い換えれば、私たちは「預言」を目指していながら、いつでも「異言」を語ってはいないだろうか。意味不明な音の羅列、という異言ではないにしても、しかし互いに通じるはずの日本語を語っていながら、聖書の言葉が相手に理解されない。神の言葉が届かない。かえって反発を招く。そんな試練に、私たちは絶えず直面しているのではないでしょうか。

なぜでしょうか。実はここに、私たちの罪の問題がしぶとく絡みついているからです。そのことを教えてくれるのが、今日併せてお読みした旧約聖書・創世記第11章の「バベルの塔」の物語です。それまで一つの言葉で通じ合っていた人間たちが、やがて神によって言葉を乱され、互いに心も通じ合わなくなっていく物語です。その理由は明らかです。自分たちの繁栄の領域を天にまで拡張し、神のようになろうとして、あのバベルの塔を高く築いていった所に、まさに人の罪が現れたからです。その罪に対する神の裁きでした。

罪とは、私たちが神になり替わろうとすることです。神によって造られた存在なのに、その造り主を忘れて、あるいは押し退けて、神なしに生きてゆこうとする私たちの姿です。そして神なしに生きるとは、まさに神の愛を欠いて生きてゆくことに外ならないのです。愛を欠く私たちの振舞い、そしてその口から放つ言葉は、いつでも、自分だけを高めることにしかならない異言となってしまう。それが私たちの現実です。相手に通じないどころか、その相手を傷つけ、苦しめ、いつしか消し去ってさえしまうのです。

「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。

私たちも真実の愛を追い求めたいと思います。そして、誰しもが預言を語れるようになりたいと願います。人に通じる言葉。人を生かし、愛してゆく言葉。そしてその人を造り上げ、やがて教会を造り上げることにもなる力ある言葉。その愛の言葉に生きることができるために、キリストが全てを私たちに献げ尽くしてくださいました。高ぶる私たちとは反対に、どこまで低く降って、十字架の死にまで仕えてくださったのです。


<祈り>

天の父よ。あなたが私たちを愛してくださる故に、豊かな言葉の力が与えられていることを感謝します。どうかこの御霊の賜物を軽んずることなく、生涯、追い求め続けさせてください。そして自己満足のための語りや説教、祈りに傾くことがないよう私たちを義し、その言葉を聞く者が「アーメン」と重ねながら、自らの内にも新たな信仰が芽生えてくるのを喜べるような言葉を、どうかこの貧しい口からでも語らせてください。そこにキリストの教会が立ってゆく姿を望ませてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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