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「種粒から実る新しい体」

2023年9月10日 教会設立記念礼拝説教(聖霊降臨節第16主日)  
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編139:13~18
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:35~41

             

本日、私たちはここに教会設立記念礼拝を迎えました。設立から99年の歳月を数えながら、ここまで積み重ねられてきた教会の歩みを主の恵みの中で受けとめ直し、その真の主なる神さまに向かって感謝と讃美をお献げする時であります。

1924年9月13日に教会の建立式が行われました。ご存知の通り、私たちの教会はその出発点から正式な会堂を持っていませんでした。また、正式な牧師もいませんでした。それでも教会として立てられた。既にここに、教会とは何であるかというが如実に示されているように思います。教会は、建物のことではない。牧師が絶対的な権威を振るって組織するところでもない。ただキリストの憐れみによって呼び集められた、キリストの真の権威と命に繋がり続ける共同体であります。飼い主イエス・キリストによって養われるべき小羊の群れに他なりません。

ところで、これも多くの方がご存知のように、私たちの教会は、99年前に突然誕生したわけではありません。そこには前史があり、備えの時があった。それが、1916年に発足した、手塚縫蔵を中心とする「松本聖書研究会」です。この聖書研究会が教会設立の母胎となりました。手塚縫蔵という人は、私たちの教会の創設に関わった中心人物であり、また、その後の教会の伝道の働きを担った優れた信仰的指導者でもありましたが、牧師には最後までなりませんでした。生涯、小学校の教師・校長として貫き通しました。そのように教育者でありながら、しかし伝道者でもあった。今風に言えば、信徒伝道者であったと言ってよいと思います。

したがって、この聖書研究会に集まるメンバーも学校の先生たちが多かったようであります。熱心に聖書を読み、聖書の真理を共に探究し合った。これは、当時の時代状況を考えてみましても、大変稀有な姿だったのではないでしょうか。海外の宣教師たちが日本に入ってきて英語塾を開いたり、そこで聖書の学びを展開する、というような活動は当時よくあったことですが、しかしそれとは一味も二味も違う。全くの生え抜きの姿です。

ところで、私はこのような歴史を辿りながらいつも思うのですが、この聖書研究会がどうしてその後、教会となっていったのだろうか、不思議に思うのです。研究会としてずっと続いてもよかったところ、なぜ、研究会に留まることができなくなったのか。ある人のこんな言葉を思い起こします。「聖書研究を一緒にやったら、自然と一緒に祈るように導かれる」。

学校の先生たちが多かったと言いますから、知的好奇心や探究心は高かったことでしょう。また、色々と筋道を立てて聖書について議論をすることも活発だったと思われます。けれども、聖書の真理、福音の真髄に本当に到達するためには、頭だけでは追い付かない。勉強すればするほど、まさに祈りなくしてその先の真実には出会えないという心が駆り立てられていったのではないかと思うのです。

実際、この聖書研究会と並行して、既に当時から「祈祷会」が頻繁に持たれていたことは、決して見失われてはならない事実です。そして祈りつつ聖書と深く対峙してゆく営みは、やがてさらなる福音への渇望を呼び起こしながら、しかしまさにその福音による代え難き喜びによって、人々の心を捕えてゆきました。

と申しますのも、実は研究会発足から2年後の1918年に、既にこの会は「日本基督松本伝道教会」と名称を変更しているのです。まだ正式な教会としては認められていなかったものの、しかし共にキリストを求め、信じ、この方を真の主と崇める群れ。つまり礼拝する群れがここに生み起こされていった。さらには、このキリストを世に向かって宣べ伝えてゆく伝道の群れともなっていったのです。


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さて、私はこのような熱き信仰の先達に深い敬意と感謝を抱きながら、実は秘かに天での再会を楽しみにしています。もし私も赦されて御許に召され、やがて終わりの日に新しい命をもって甦らされるその時、どんな再会が待っているのか。特に手塚縫蔵先生にお会いして、私が今申し上げたことについて、ぜひさらに直接お話を伺って真実を知りたい。そんな思いに駆られます。

けれどもまた、ふと素朴に、こうも思うのです。天で再会する時、いったい何歳くらいの手塚先生とお会いするのだろうか。研究会を立ち上げてから教会設立に至る、あの活力溢れる若い頃のお姿だろうか。それとも晩年か。あるいは地上で見せた最後のお姿だろうか。これは何も私だけでなく、おそらく皆さんにとっても関心のある、切実な問いではないでしょうか。既に先立った夫や妻、両親、あるいは子ども、友人たち。これら掛けがえのない愛する人たちとまた天で会う日に、互いにどんな顔や体つきなのか、何歳くらいなのか、服を着ているのか、裸なのか…。考え出すと止まりません。

どうやらコリントの教会の人々も、そんな思いをあれこれ抱いていたようであります。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(35節)。キリストの復活に続いて死者たちも甦る、とは言うけれども、それはいったいどんな風に、どんな体で復活するのか。そうしたある意味もっともな疑問を抱いていたコリントの人々の思いを汲んで、パウロはここで正面から向かい合います。

要するに、コリントの人々も含め私たち人間にしてみれば、死後の世界など全く見えるわけがないし、分からない。分からないから、信じられないということにもなる。甦りがあるかないのか、それはどのように甦るかを具体的に示してくれないことには、信じることさえできないではないか。そんな、私たちの誰もが抱いてしまうような素朴な問いに対して、パウロはここで真剣に向き合うのです。

実は同じようなことは、主イエスの時代にも起こっていました。マルコ福音書の第12章に、サドカイ派と呼ばれるユダヤ人グループの一派が登場します。彼らは、復活というものがいかに馬鹿げた教えであるかを示そうとして、主イエスに挑発して来るのでした。事の次第はこうであります。ある夫婦がいて、夫は自分の七人兄弟の中で長男だった。さて律法には、長男が子どもを残さずに死んだ場合、遺された妻は、今度は次男(夫の弟)と結婚して、その家の子孫を残すべきだとの掟がある。そうまでして、男系の子孫を残すことを大切にした当時のユダヤ社会の定めでありました。

そこでサドカイ派の彼らは、この掟を引き合いに出して、結局、七人の兄弟が上から順番にその一人の女性と結婚することになって、しかしついに誰も子を残さずに死んだとしたら、はたして復活の時、その女性は誰の妻になるのかと問うたのです。こう問うことで、彼らは、復活を信じるとこんなに矛盾したことになってしまうことを明らかにして、だから復活などないのだと主張したかったのです。

しかし、これに対する主イエスのお答えは明白でした。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。ここで主イエスが仰ることは、復活において、私たちは「神の力」のもとで、今この地上を生きているのとは全く異なる新しい姿、天使のようになるのだ、ということです。そんなことも知らずに、「あなたたちは…思い違いをしている」と一蹴されるのでした。


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神の力を知らない故の、思い違い。あるいは愚かさ。コリントの人々に向き合うパウロの思いも、この時の主イエスと重なっていたのではないでしょうか。「愚かな人だ」(36節)。

愚かだ、との烙印を押されることは、言われる方はたまったものではありません。しかしこのような言い方をせずにはおられなかったパウロもまた、生半可な態度ではなかったはずです。生き死にに関わる真剣勝負であったに違いないのです。生きた本物の信仰に生きるか、それとも、手慣れた安価な信仰に生きるか。そこでパウロは、ここから三つの譬えを用いながら、死者の復活の体について説いていきます。その最初が、種蒔きの譬えです。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」(36~37節)。

農業をしていない人であっても、種蒔きについてはある程度想像がつくでしょう。私たちが土に蒔くのは、最初から麦や穀物などの実ではありません。それは後から成るものであって、最初に蒔くのは、やはりただの種粒に過ぎません。そしてその種がやがて、原型を留めることなくまるで失われるように死んで初めて、そこから素晴らしい実りが得られる。

この一連の事柄は、おそらく誰にとっても身近に理解できることです。ところがパウロにしてみれば、コリントの人々がこの種蒔きのことについてはよく知っておきながら、死者の復活の体のこととなると全く何も知らない、というのは何と愚かなことか。つまり死者の復活のことになると、種蒔きの事柄に秘められた神秘、「神の力」を見失って、いつでも人間の常識や願望の延長線で捉えようとする。自分たちが納得するように、神の神秘を手なずけてしまう。


けれども、実はそれなら、初めから信仰など要らないのではないでしょうか。もはや祈りも必要ないのです。祈りや信仰によって初めて確信される神の力など、そこでは吹き飛ばされている。しかしパウロがここで訴えたかったことは、まさに「愚かな人だ」と発破をかけながら、そこで神に対する祈りを、また信仰を、呼び覚ますことではなかったでしょうか。

私たちの教会がかつて聖書研究会から出発して、なぜ教会となっていったのか。それは聖書の真実や神の神秘というものに対する、畏れや謙遜があったに違いないと思うのです。人間の願望や常識、経験値や合理性などでは説明がつかない、ある決定的な、神の側にのみある真実への切なる渇望が、やがて祈りとなり、讃美となり、礼拝する群れへと押し上げていった。そう思えてなりません。

考えてみますと、私たちは死や死後のことはおろか、今現にあるこの生の現実、命の神秘ですら、実のところ、良く分かっていないのではないでしょうか。否、既にこの時点で、私たちは愚かだと認めざるを得ないのかもしれません。いったい私たちは、どのようにして生まれて来たのか。この問いに対しては、ある程度生物学的な知識によって理解することができます。けれども、では私たちは、なぜ生きているのか。自分が生きている意味は何であり、どこにあるのか。こう問われると、私たちは途端にたじろいでしまうのです。自分のことは自分でよく分かっているようで、しかし案外難しい。自分の命の造り主のことをよく知らなければ、私たちは自分のことすら覚束ないのです。

ちょうど昨日、こどもの教会の教師修養会がここで行われました。あらためて礼拝について学びました。そこでこの礼拝について各々の思いやイメージを分かち合ったところ、ある人は「礼拝は命」と答えました。またある人はこう答えました。「自分が神さまのものである、ということが恵みの中で示される場所、それが礼拝である」。本当にその通りだと思わされました。私たちが今生きているという現実ですら、神との交わりなしには成り立たないとするならば、ましてや死や死後のことなど、いわんや復活の体のことなど、いったい誰が知り得るでしょうか。私たちは生きるにも死ぬにも、すべてが一切、神の御手の内に置かれているのです。


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「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」(38節)。

先ほどの種蒔きの話の続きです。実は種を土に蒔くというのは、死者を土に葬るということの譬えだったのです。種は蒔かれると、土の中でやがて跡形もなく消え失せてしまう。それと同じように、死者も死んで葬られると、いよいよ朽ち果てて消え失せてしまう。私たちは、死んだら本当に消えてしまう。けれども、たとえ種は朽ちても、種の時には予想もしなかった命がやがて芽生えて、そこに実が成り、花が咲く。死者の復活もこれと同じように、全く新しい命が約束されているのです。なぜなら、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えにな」るからです。

復活による私たちの新しい命というのは、決して霊魂の事柄だけではありません。肉体は滅んでも霊魂だけは永遠不滅だということでもありません。私たちそれぞれの新しい命には、一つ一つ確かな体が与えられるということなのです。だからパウロはさらにこう言います。「どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います」(39節)。

こうして、私たちの新しい甦りの命に肉体が伴うということは、しかしまた、一人ひとりがそこで自分という固有性を失うことなく生きるということでもあります。復活することで、もはや私が私でなくなってしまうというのではなく、神さまから一人ひとり特別に愛される存在として生かされるのです。

この、まさに神に特別に愛される命においてこそ、私たちは真の輝きを放つ者となります。その輝きは、自分で磨いて光らせる輝きではありません。神の栄光を映し出す輝きに他なりません。地上ではなく、天上における輝き。「天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なってい」(40節)るのです。

そしてだからこそ、天上での復活の体による再会は、この上なく楽しみになるのではないでしょうか。地上で生きていたどの時点よりも輝きに満ちた姿として、そこに互いに現れるからです。その人が最もその人らしく、神の救いの完成の中で光輝く。しかも一瞬ではなく永遠に輝き続ける。天の国で再び会いたくて仕方ない人とも、あるいは逆に、天の国で復活してまでも会うことになるのは御免だ、と実は正直に思ってしまう人とも、私たちは、神の力によって全く新しい輝きを放つ者として相まみえることになるのです。


今年、教会設立99周年を迎えました。来る100周年とその先をさらに望もうとする私たちにとって、新しい歴史を切り開くとは、どういうことでしょうか。それは私たち自身が絶えず新しくされるということに他なりません。そしてその新しさとは、私たちの内にあるのではなく、私たちの外側に、しかしまたこの歴史のただ中に、既にイエス・キリストによってもたらされているのです。

このキリストにしっかり繋がって、神の驚くべき力に触れられる時にこそ、私たちはこの地上での死を突破してゆく永遠の命の道を、希望をもって歩むことができるのです。そしてこの歩みは、かつてあの松本聖書研究会がキリストの教会へと実を結んでゆく時に先達たちがたどった、祈りの歩み、讃美の合唱、そして礼拝する群れとしての行進と、その真実の根において一つなのです。神の力こそが、今も昔もとこしえに、ただただ恵みとして支配し続けるからです。


<祈り>

天の父よ。私たちの教会の記念の節目に、変わることのない真実の言葉を聞かせてくださり、感謝いたします。あなたが私たちを死者から復活させ、新しい命を宿した体を輝かせてくださるとお定めになったのは、まさに御子イエス・キリストを甦らせた時からであったことを思います。過去にお決めになったことを、永遠の眼差しの中で、今なお恵みをもって全ての人々にもたらそうとするあなたの御業を覚え、讃美します。どうかキリストの十字架と復活の出来事に現わされたあなたの力こそが、私たちの命の源となり、教会の歩みの土台となり続けますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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