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「終わりを見つめ、ひたすらに」

2022年7月31日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第9日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書40:6~8
新約聖書 コリントの信徒への手紙一7:25~40

         

私は先週、基督教共助会という小さな群れが毎年夏に開きます、信仰修養会に参加して参りました。その3日間のプログラムの中で、私は内心ヒヤヒヤする思いで過ごす場面がありました。

今年の修養会の主題は、この基督教共助会を支えた、特に二人の先達を覚えて、それぞれの歩みに想いを馳せるというものでした。その先達の一人に、森明という人が取り上げられました。森有正の父上であり、103年前に基督教共助会を立ち上げた人物。そして私たちの教会とも関わりのある東京の中渋谷教会を設立した牧師でもあります。この森明に関する主題講演が、初日に行われました。

私は、この主題講演に対する応答発題をするようにとの任が命ぜられていました。ヒヤヒヤしたと申したのは、この任務自体に対する緊張感もそうなのですけれども、しかしそれ以上に、大変困ったことに、その2時間の講演中、肝心の森明について触れられたのは、講演が始まってようやく1時間が過ぎた頃だったということです。しかし言及されたのはごく僅かで、本格的に森明について語られたのは、実に最後の15分程度、それも駆け足だったのです。

つまり講演のほとんどは、講演者自身の半生を振り返る、そんな内容でした。先達森明の歩みを見つめるはずの時間が、講演者自身の歩みを見つめる時間となった。その直後に応答発題をする私の立場としましては、全くの想定外でした。事前に森明について幾らか調べて備えていたことがほとんど通用しない、ということがその場で明らかとなったのです。ぶっつけ本番で何をどう応答すればよいのか、途中で頭が真っ白になりました。

しかし私は、そこでふと、こんな風に思いました。森明と講演者の話は決して別ものではないはずだ。置かれるべき比重が逆転しているとさえ思えたこの事態は、しかし事の真相に照らしてみれば、むしろこれ以上ないくらい、森明について雄弁に語っていたのではないだろうか。否、極端に言ってしまえば、仮に森明の「も」の字が出て来なくとも、今この講演者自身がここで剥き出しの姿で示す、ご自分を見つめ直す愚直さ、誠実さ、深さそれ自体が、実は森明と真実に向かい合ったことの何よりの証しではないだろうか。そう思った時、私は講演者をそのような姿に導いた森明という人物の存在を、本を読むよりも確かに、身近に感じた次第です。

いったい、人が人に真実に出会うとは、どういうことでしょうか。それは、相手のことをただ良く知るようになる、という域に留まりません。その相手を通じて、否が応でも映し出されてくる自分自身の姿を新たに受けとめながら、その自分を、そこで真摯に生き直してゆこうとすることではないでしょうか。


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パウロも、そのような真実な出会いに生きた人でした。彼の生涯は、他でもないキリストとの出会いによって、真実なるものとなりました。キリストに捕えられ、そこに映し出された新しい我が人生に確信を抱いて歩むことができた人です。そして、キリストの福音に根差した確かな自由がまた与えられて、生きる者となりました。

今朝、私たちに与えられましたコリントの信徒への手紙一第7章。この7章の後半部分にあたる25節以下を、一気に最後までお読みしました。この第7章は、既に何度か申しましたように、全体としては、結婚や、それに関連する性の事柄について、ずっとパウロが述べて来ているところです。今日はその最後の部分。したがって、これまでの教えを踏まえながら、いよいよ理解が深まることを願うものです。しかし、やはり何だかどう受けとめたらよいのか戸惑う、そんな思いを抱くところであったかもしれません。

ところで、この第7章においては、パウロのいつもの語り口とは異なる特徴があることに気づかされます。いつもならば断定的に、はっきり語ることの多いパウロが、ここではそうではないからです。例えば7節で、彼はこのように語りました。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。また、今日お読みした25節では、こう述べました。「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」。

つまりパウロは、ここで自分が語るのは、主イエスの教えとは区別して、あくまでも「この私の意見」であると断っているのです。断りながら、自由に語っている。しかしそれは、彼の教えの価値が劣るということではありません。むしろパウロは、手紙の読み手に対しても、実は信仰における自由の余地を、丁寧に確保しているように見えるのです。そうしながら、各々が信仰者として与えられたその自由において、人生の様々な節目や局面を自分自身で熟考し、決断することへと招いてゆくのです。

そもそも私たちキリスト者の生活は、キリスト以外のいかなる人間的指導者からも、束縛を受けて生きるということはないはずです。キリストの外、自由独立。これが、キリスト者における自由です。ですから、誰か特定の指導者によって自分の道が決められるものでは決してありません。その指導者の指示通りに歩んでいれば安心だけれども、その指示から外れたら、不安の中を歩まなければならなくなる、ということでもありません。

これは裏を返すならば、私たちはどこまでも主イエス・キリストにだけ捕えられた僕として、また奴隷として、自分の人生を自由に生きることが求められているということです。パウロが最後の40節で「わたしも神の霊を受けている」と語るように、主の霊がこの私を捕え、その御心の内に映し出される我が身を、私たちはどれだけ真摯に、また新しい思いで生き始めることができるでしょうか。


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さて、パウロは26節以下で様々な意見を述べてゆきます。これら一つ一つを細かく見てゆきますと、いったい何を言おうとしているのか、私たちは少し手詰まり感を覚えるかもしれません。しかし全体としての筋道を辿るならば、コリントの教会の人々から受けた質問に対するパウロのここでの意見は、およそ次のように掴むことができるでしょう。

未婚の人たちが結婚するのが良いのかどうか。それとも結婚しないで独身生活を送り続けるのが良いのかどうか。これはパウロにとっても、決してどちらかが絶対に良いとは言い切れない問題でした。けれども、パウロはここで明らかに、「結婚か、独身か」どちらかと言えば、やはり独身の方に思いが傾いていると言わざるを得ません。ただ、そうであっても、パウロは決して結婚を頭ごなしに否定するつもりはなかったし、既婚者は直ちに婚姻関係を解消すべきだ、と強調したかったわけでもないことは、言うまでもありません。

抑えなければならないパウロの思いは、27節で言い表されているように、「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない」ということです。つまり、これは、特に先週申し上げたことですけれども、この第7章全体で繰り返されているのは、「召された時の姿のままでいなさい」ということです。この教えに、全体が集約されます。今日の文脈で申せば、結婚している者は、結婚の中に留まり続けなさい。独身の者は、独身のままで居続けなさい、ということなのです。


その意味で申せば、結局今日の箇所も、これまでと同じような主旨が繰り返し強調されているだけのようにも映ります。けれども、一つ、これまでにパウロが語っていなかったこと、否、パウロ自身の心の内には弁えられていたことだけれども、それを今ようやく明るみに出して語り始めていることがある、ということに気づかされます。それは26節の「今危機が迫っている状態」という言葉です。あるいは29節の「定められた時は迫っています」という言葉です。

ここでパウロが見つめているのは、終わりの日の到来です。再びキリストがこの地上にやって来られる、その約束の日です。ここには随分厳しい切迫感があります。世の終わりが目の前に迫っている。少々乱暴な言い方をすれば、結婚どころではないだろうとパウロは言うのです。結婚するか、しないか、等という問題から今や離れてしまわざるを得ない程に、真剣な問題が迫っているではないか。

このパウロの眼差しは、しかし今の私たちとはかけ離れていると言いたくなるかもしれません。今日があって、明日もまた来るはず。将来の計画は山ほどある。その中で、結婚問題が軽んじられるのは、やはり乱暴に過ぎるのではないか。そんな反発さえ、抱いてしまうところでしょう。けれども、パウロはさらに畳みかけます。「この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい」(31~32節)。


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一方では、この世の終わりを前にすれば、全ては大した問題ではなくなる、というようなことが言われる。他方では、この世の全ては所詮、過ぎ去るものだ。この世で永遠に続くもの、残るものなど一つもないのだから思い煩うな、ということが言われる。パウロはこのように、この世の無常さやものの哀れに捕らわれたところで、悲観的で虚無的な思いをここで吐露しているのでしょうか。

しかし私には、むしろ彼が積極的に、このことの切実さを訴えているようにも聞こえます。つまりパウロにとって、現在のありとあらゆる秩序、その中の結婚という一つの形は、確かに永続するものではないし、終わりの日の到来という究極的な出来事を前にすれば、決して究極的なものではない。しかし逆に言えば、そうした用心深さを十分に自覚すればこそ、実はなお、私たちはその結婚のあり様をより良く全うできるのではないか。また独身である者は、その姿、あり様でもって自らの歩みを御前で全うすることができるはずだし、そう期待されている。そんなパウロの励ましをここで聴くのです。

同様のメッセージは、29節以下の言葉からも聴き取れましょう。「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(29~31節)。

世の終わりは近づいている。だから今から、キリストに結ばれて生きる者は、いたずらに地上生活に執着してはならない。なぜなら、結婚も、商売も、あらゆる社会生活も、またそれに伴う悲しみや喜びも、これら全てのものは過ぎ去るものだから。しかしだからこそ、神がその終わりの日に、全ての人の涙を拭い、喜びを完全なものとしてくださる日が近づいていることこそを、地上で味わう悲しみや喜びの真っただ中で、見失ってはならないのだ。

実にパウロがここで言いたかったことは、この世のあらゆる現実の中にあって、この、主が再び来たり給う永遠の約束に備えること、そしてその約束に集中して今を生きることの大切さに他なりません。したがって、パウロが心配していたことも明らかです。この集中を失って生きることであり、過ぎ去るこの世のことに埋没して、思い煩い、やがて心が二つに分かれてしまう私たちの姿であります。


そうであればこそ、パウロが35節で次のように語った真意も、分かって参ります。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」。

私たちはこの言葉を通して、自らの生活を、神の救いの歴史から、しかもその終わりから見つめ直すことが問われます。終わりを見つめることが、今この時を生きる私たちの地上での姿や生活のあり様を、見つめ直すことを促すからです。

その眼差しのもとに全てを置くならば、結婚生活も、独身生活も、仕事や社会生活も、この世の私たちのあらゆる業は、どこまでも未完成であって、断片的なものでしかありません。「この世の有様は過ぎ去るからです」(31節)。つまりこれらは、究極的なものを前にした時、究極的なものとはなり得ないものです。その意味では、究極以前のものである。しかしまた、こられらは究極的なものに仕えるものでもある。そう思わされるのです。

そしてこのように思う時、私たちの地上の営みは、神の救い、主イエス・キリストの到来と全く無関係であるものは何一つないことにも気づかされてゆきます。しかしその眼差しを欠いてしまう時、私たちの仕事も、社会生活も、結婚も、また独身も、本当の意味での幸いを与えるものとはならず、私たちをいたずらに思い煩わせてしまうものになってしまうのです。


詩人ミルトンのこんな話を思い起こします。ある人が、石を切り出している二人の建築家に尋ねました。「今、何をしているのですか」。一人がこう答えます。「私は石を切っている」。しかし他の一人は、こう答えました。「私たちは礼拝堂を建てている」。

いったいこの違いは、何を物語るでしょうか。私は思うのです。実は結婚も、独身も、またこれに関わる様々な選択も、いずれも表面から見れば、石を切り出す生活であることには変わりないのではないか。ただコツコツと、目の前の石を刻み続けているような姿。しかしその営みの意味について問われた時、文字通り、「石を切り出している」だけの姿と捉えるか、それとも「礼拝堂を建てている」、つまり「やがて来たり給う主なる神をお迎えするための家を建てる」ことに仕える我が身を思うのか。その一つ一つの営みに、永遠を、究極的なものを見るかどうか。ここには決定的な違いがあると思うのです。

実はパウロが今日、「危機が迫っている」といった時の「危機」という言葉は、まさに「分岐点」や「分かれ道」を元々は意味する言葉でありました。終わりの日を見つめて、ひたすらに生きるとは、日々私たちがこの分岐点に立たされて、どのように生きるかという問題でもあるのです。そしてこの決定的な違いや分かれ道をもたらすものこそ、主イエスの到来の約束なのです。

私たちは何のために結婚するのでしょうか。それは、神の栄光のため。やがて来たり給う主の到来に相応しく、その家を建てるためです。同様に、私たちはなぜ、また独身という道を選択して歩むのでしょうか。これも、神の栄光のために他なりません。そのようなあり様でもって、主の家を建て上げるためです。結婚している者も、独り身である者も、またこれに関わる様々な選択と決断に立って今を生きている者も、ひたすら主に仕えて生きる。その時、私たちは「品位のある生活」を営むことになるのです。私たちの品位は、ただ主に仕える所で形作られるのです。


*****

最後に、本日併せて読まれました旧約聖書・イザヤ書第40章の御言葉。ここには、人間の虚しさやうつろいやすさが告白されています。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(6~7節)。

野の草や花が、やがて枯れてはしぼんでゆくように、私たち人間とその営みもまた、いつかは滅んでゆく無常観がうたわれています。けれども、この預言者が見つめているのはその儚さではありません。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)。そうした空虚な現実を直視する中で、しかし「とこしえに立つ」ものが確かにある。それは主なる神の言葉だ。この御言葉こそが、あらゆるものが過ぎ去ってゆくこの世を生きる私たちを足元から支え、草や花のように弱くうつろいやすい私たちを救ってくれるものに他ならない。そう確信するのです。

この神の言葉が人となってこの世に来たり給うたのが、主イエス・キリストです。私たちは、このお方に結ばれ、またこのお方が世の完成の時に必ずいらっしゃる日を見つめることによってこそ、今なおうつろいやすいこの世にあって、まっすぐに、ひたすらに、とこしえに立つ御言葉を道として、歩み続けることができるのです。

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