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「罪のゆるしの道を歩む」

2022年5月1日 主日礼拝説教(復活節第3主日)
牧師 朴大信   
旧約聖書 詩編130:3~6
新約聖書 マタイによる福音書18:21~35

ある牧師たちが数日間、研修合宿をしていた時に、こんなエピソードがあったそうです。食卓を囲むたびに牧師たちが交代で祈りを献げていた時のこと。参加していた一人の最年長牧師が食前の祈りに耳を傾けた後、おもむろにこう口を開いたというのです。「君たちは食事の時、罪の赦しを願わないの?」。そう言いながら、ドイツの家庭でよく祈られるという食卓の祈りを紹介しました。

主よ、私どもにどうしてもなくてならないものが二つあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを。アーメン」。

朝昼晩、三度の食事のたび、罪の赦しを祈る。それを聞いた牧師たちはまるで初めて聞いたように驚いたと言います。私も全く知りませんでした。

けれども、それはまさに主イエスご自身が、私たちに求めておられる祈りに他なりませんでした。主が教えてくださった「主の祈り」では、「日毎のパン」と「罪の赦し」が、隣り合っているからです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。

この主の祈りを通して、主イエスは私たちにとても大切なことを教えてくださっています。祈る時に、いったい何を求めて祈らなければならないかを教えてくださいます。それを祈らなければ、私たちは本当には生きてゆけない存在であるということ、否、むしろ私たちは、深い所で、それを祈らずにはいられない存在であることに気づかせてくださる祈り、それが主の祈りの力であります。恵みであります。

私たちの体は、日毎のパンが無ければ生きてゆけません。それと同じように、私たちの心と魂もまた、罪の赦しが無ければ生きてゆけない程に切実なものです。


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「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。

私たちは普段、主の祈りをこのように祈ります。けれども、本来主イエスが教えてくださった祈りは、言葉の順序が逆です。本日は読みませんでしたけれども、今朝与えられました同じマタイによる福音書の第6章を開きますと、その12節にこう記されています。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」。

ここで「負い目」と訳されている言葉は、「罪」とほぼ同じ意味で理解してよいでありましょう。神と人に対して罪を犯す。それ故に、相手に大きな借りができる。返さねばならない借金を自ら負ってしまった。それが負い目であります。しかし今注目したいのは、祈りの言葉の順序です。主イエスが教えてくださったのは、まず「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りでした。これが最初であり、いわゆる主文です。新共同訳聖書は、ここを正しく訳しました。そしてこれに続いて、次の副文が添えられます。「わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」。

これらは短い言葉です。けれどもこれを真剣に祈ろうとする時、それもこの順序で祈る時、誤解を恐れずに申し上げるなら、決してすんなりと祈れる祈りではないと思います。ある種の戸惑いや混乱が生じて、どうもすっきり祈れない、という思いを積み重ねて来られた方も多くいらっしゃるだろうと想像します。

どうして主イエスは、この順番で祈られたのだろうか。日毎の糧について祈った直後、急に、自分たちの罪の赦しを請う祈りが続く。でも、「わたしたちの負い目を赦してください」と言ってみた所で、はたして私たちは、その自分の罪について、日々どれだけ深く自覚できているだろうか、という問いが突き付けられます。神に赦しを請わなければならない程の深刻な罪に、はたして気づけているだろうか。否、もしも何か思い当たる罪があったとして、私たちはそれを、自己反省というレベルであれば多少なりとも正そうとする理性や良心くらいは持ち合わせているかもしれません。けれども、その罪を神の御前に差し出しながら、真剣に赦しを求める祈りや信仰に、本当に生きているのだろうか。


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この祈りが、私たちにとって困難な祈りに終わるのか。それとも恵み深い祈りとなるのか。その鍵は、私たちがどういう所に立ってこの祈りを献げるかにかかっていると言えるでしょう。この祈りの心は、いったいどこにあるのか。これを明らかにしてくれるのが、まさに副文の言葉です。「わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」。

ここに鍵があります。けれども、再び混乱を招く最たる言葉かもしれません。なぜなら、事柄の順序としては、明らかにこの副文の方が、主文よりも先行しているように読めるからです。私たちの罪を神に赦して頂く祈りに先立って、まず私たちが人の罪を赦している。これが前提となって、だからこの私たちと同じように、神様、どうかあなたも私たちの罪をお赦しください、と祈っているように聞こえてしまうのです。

少し細かい話ですが、この関連で一つ、同じ主の祈りを記しているルカ福音書の方では、この副文は「わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから」(11:4)と訳されています。つまり「赦す」の部分が、「赦しました」という完了形か、「赦します」という意志・未来形かという違いですが、実はこの点は、私たちが通常祈る主の祈りでは、曖昧にしているのかもしれません。「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。


いずれにしましても、やはり注目させられるのは、私たち人間の側に赦しという行いの確実性が強調されて、それを根拠にしながら、だから神様も私たちの罪を赦してください、と祈っていることです。いったい、どちらが先か? けれども、これ以上の理論追究はしません。私たちは、主文と副文との正しい対応関係や因果関係を厳密に追おうとするあまり、そこで見失われてしまいがちな、この祈りの心というものを、どうか見失わずにいたいのです。

そのために必要なことは、やはりどこまでもこの祈りは主イエスご自身が祈られ、教えてくださったという事実です。救い主であられる主イエスが、私たちを本当に罪から救い出し、苦しみから解き放ち、溢れる赦しの恵みをもって私たちを癒し、奮い立たせながら、主の御心に適う人として建て上げるために、この祈りをプレゼントしてくださったという事実です。私たちはここに立ちたい。


ではなぜ主は、この祈りの中で、神の赦しよりも先に、私たちの赦しを先行させるような言い方をされたのでしょうか。言うまでもなく、神は私たちの赦しの出来具合をご覧になって、それを基準にご自身の赦しを与えるかどうかを決められるような、そんなお方ではありません。私たち人間に左右されることなく、ただご自身が愛のお方である故に、無条件にその愛を注がれるお方です。

しかしまさに、そうであられるからこそ、神は私たちに対して、真剣に変化を求められます。古い自分を脱ぎ捨てるように迫ります。神に赦しを頂きながら、今なお人を赦さずにいるこの自分。自らは赦しの人として生きることを真剣に求めず、ただいつも相手の非ばかりを突き続けているこの古い自分。その自分から、新しい人へと生まれ変わることを、誰よりも願っておられるのが神であります。赦しに生きることを諦め、赦すことは馬鹿馬鹿しいこととさえ思ってしまっている私たちに、赦しに生きる決意と喜びを得させてくださる。それが神の御心であり、主イエスの祈りの心でありました。

私たちは、赦すことのできる人に生まれ変わらなければならない。主の真剣さに、私たちも真剣に応えなければならない。だからこそ、実は主イエスは、弟子たちにこの祈りを教えられた後に、わざわざこんな厳しいことまで付け加えて仰っていたのです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14~15)。


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もう10年以上も前のことですが、この箇所を巡る聖書研究会に参加した時、私はどうしても、この言葉は厳しいという印象が拭えませんでした。それで会が終わった後、講師の先生にぶつけてみました。講師は数年前に急逝された、今は亡き東京神学大学の前学長の大住雄一先生でした。「先生、私はどうしても引っかかります。私が人を赦すかどうかで、神が私を赦すかどうかが決まるのですか。私としては、神が赦してくださる限りにおいて、私も人を赦せると思うのですが…」。

私は、的を得た質問をしたつもりでした。しかし返って来た答えは意外でした。「それはね、甘ったれた信仰だね。神の赦しが何であるかがよく分かっていないから、そんな問いが生まれる。外側からの質問だね。もっと内側に入ってご覧。真剣に人を赦すという決意に立って生きてご覧。祈ってご覧。その時、この主の祈りを真剣に祈れるようになるはずだから」。以来、この言葉はグサッと私の心に突き刺さったままです。しかしそれは少しずつ、痛みを呼び起こす裁きの剣から、喜びが溢れ出るための恵みの剣となっていきました。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。はたしてこれは、いたずらに私たちを裁きの天秤にかけるだけの、主の戒めの言葉なのでしょうか。実は、これとよく似た言葉が、今日与えられました同じマタイ福音書の第18章35節にも出て参りました。主イエスの言葉です。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」。


罪というのは、頭の中の理屈ではありません。実に生々しいものです。そして関係の中で起こる問題です。私の罪によって人が傷つき、同じように人の罪によって、この私もまた傷つきます。痛みが重くのしかかり、心をかき乱され、時には胃が痛んだり、眠れない夜が続いたりすることだってあるかもしれません。しかもたいてい、相手はそんな私の苦しみに気づいていません。

もしも自分をそこまで苦しめる人がいた時、私たちは罪を犯したその人のことを赦そうとしても、そう簡単には赦せない自分に必ず出会うに違いありません。相手を裁く自分がそこにいます。怒りに燃え、裁かずにはいられない自分がいます。こんな人をどうして赦せるか、自分は間違っていないと自らに言い聞かせながら、正義を貫こうとする自分がいます。そして自らの正義を盾にして、相手が非を認めて謝るまで自分は赦さない、先に赦すなんて馬鹿馬鹿しいと決めつける自分がいます。

もちろん正義は正しく貫かれるべきです。謝るべき人が先に謝り、悪は裁かれ、退けられるべきでしょう。しかしサタンの力は、単に罪を犯す側にだけ働くのではありません。正しいと思っているこの自分にも魔の手は伸びる。正義感に溢れて赦せないでいる、まさにその人の心にも忍び込んで復讐心を焚きつけ、「赦せない」という心をさらに締め付けて苦しめ続けます。祈れなくさせます。主の祈りの今日の言葉、「我らに罪を犯すものを 我らがゆるす」ことなど馬鹿馬鹿しいと思い込ませるのです。そのように、神との関係を断ち切り、赦せない自分にどんどん仕立て上げてゆくのです。私たちが本当に苦しいのは、罪を犯す相手がもちろん原因ではありますが、しかし究極的には、赦せないこの自分自身から抜け出せない泥沼に、自ら足を掬(すく)われているからではないでしょうか。

しかしまさにそこに、今日の主の祈りの言葉が投げ込まれます。そして問うのです。お前は本当にそれでいいのか? 赦さない生き方を貫き通すのでいいのか? そして決断を迫るのです。その人を赦しなさい。それも、一度や二度ではない。何度でも赦しなさい。ではいったい何回赦せばいいのでしょうか。ペトロは問いました。「七回までですか」(18:21)。

しかし主イエスはこう答えられました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。実に490回までも! もはや、いちいち数え上げてはいられない数です。否、もう数えるのはやめよう、ということでしょう。数え上げて、これだけ自分は赦したのに…という打算や復讐心から解き放って、どこまでも赦しに生きなさい、と教えられるのです。


そして続けて、主は「仲間を赦さない家来」の譬えを語り聞かせてくださいました。長い話ですけれども、ストーリーは単純です。ある一人の家来を巡る話。この家来は、一方では自分の仕える王に対して一万タラントンの借金をしていた。しかしどうにも返済できなかったので、この王は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」(27節)やりました。ところがこの家来はこのすぐ後、今度は自分に対して百デナリオンの借金をしていた仲間に出会うと、怒りが湧いて来た。そこで彼を捕えて首を絞め、「借金を返せ」と迫り、赦しを請うても承知せず、そのまま借金を返すまで牢に入れた、という理不尽なお話です。

しかし理不尽なこの家来の姿は、私たちの姿を映し出しています。私たちは人と生きる時、人との関わりの中で生きる以上、どうしても傷を受けます。そして赦せない状況にいつでも陥ります。愛したい、赦したいと願って差し出す手が、幾度も傷つけられることもあるでしょう。しかしその傷が、一瞬で済む程度なら我慢できるでしょう。あるいは一晩寝れば忘れてしまうような傷ならば、乗り越えられるでしょう。

でも、もしその傷が、この家来のように「百デナリオン」にまで達したらどうでしょうか。一デナリオンは、一日分の賃金。つまり百日の間傷を負わされたら…? 家来の怒りが身近に感じ始められます。否、主はそのような私たちの傷つきやすさを知っていてくださるのです。私たちは、主のこの眼差しを忘れずにいたい。

しかし同時に、もう一つの事も忘れてはなりません。この家来は、主君である王から「一万タラントン」の借金を帳消しにしてもらったばかりだったのです。一タラントンは、六千デナリオン。すると、一万タラントンは、六千万デナリオン。つまり六千万日分の借金が赦された。負い目が赦されていた。これは、人が一生涯働いても、到底返済しきれるはずもない莫大な額です。


*****

私たちは、意を決して人を赦そうとする時、しかし挫折します。傷が深いからです。思っている以上に深く傷ついているからです。自分が大切なのです。でもその自己愛が、さらなる闘争や悲劇を生むことで苦しみが増すのが私たちの現実です。私たちの罪がもたらす現実です。

まさにこの現実に、しかし主イエスは、来てくださったのです。暗い罪のただ中に、入り込んで来てくださいました。私たちが愛に生きようと求める、その姿の極みに現れる罪の中で、十字架に架かって死んでくださいました。一生かかっても返しきれない私たちの重く負い目を、主自らが背負い、帳消しにしてくださったのです。私たちを赦すために。そして私たちも人を赦すことができるために。

何と罪深い私たちであることでしょう。しかし、何と深い赦しの恵みに包まれている私たちであることでしょう。「あぁ、どうか私たちの罪をお赦しください!」。この言葉が、神に向かう祈りとして、真っ先に私たちの口を突いて出てくるほかないのです。その時私たちは、自らの内に湧き起こることのなかった静かな勇気が与えられるでしょう。「私たちも、人を赦しますから!」。そしてこの勇気に生き続ける時、こうも祈れるようになるはずです。「神さま、私たちも人を赦しましたから!」。

どこまでも、神の赦しの光の中で立ち上がらされ、歩む私たちでありたいと願います。私たちは日々のパンと同じように、この赦しの恵みを受けなければ生きてゆけないのです。

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