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「自由において仕える」

2022年9月11日 教会設立記念礼拝説教(聖霊降臨節第15日)   
牧師 朴大信
旧約聖書 レビ記19:17~18
新約聖書 コリントの信徒への手紙一9:1~2

              

「わたしは自由な者ではないか」。

今日お読みしたコリントの信徒への手紙一第9章の最初の言葉。実はここには、パウロの憤りとでも言えるような強い感情が込められています。文体も反語調です。ここを原文で読んでみますと、英語のnotに当たる否定の言葉からまず始まっているのが分かります。自分は自由な者なんだ、ということを結局は言ったかったのでしょうけれども、しかしそれをありきたりには表現しない。「この私に、自由というものが無いとでも言うのか」。そんな挑戦的な思いを込めて、パウロは何かとても大切な訴えを、コリントの教会の人々に投げかけているのです。

その訴えとは何でしょうか。あるいはパウロの訴える「自由な者」とは、どんな姿のことを言うのでしょうか。実はこの「自由な者」という言葉をストレートに受けとめているのが、少し先になりますけれども、19節です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。


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本日から、この手紙の第9章に入って参ります。幾分長い箇所ですので、何度かに分けて聴き続けることになります。しかし、次回あらためてお読みする3節以降の内容は、特に今着目した1節と19節の言葉を柱にしていきませんと、パウロの訴えを途中で見誤ることになりかねません。ですから今日は、まずこの大切な柱が私たちの心にしっかりと据えられるようにと、願ってやみません。

いったい、自由な者として生きるとはどういうことか。それは、「すべての人の奴隷」になること。そして「できるだけ多くの人を得る」ことだとパウロは言います。私たちの通常の感覚では、俄かには捉え難い姿かもしれません。しかし振り返ってみますと、手がかりがあります。一つ前の第8章11節に、このように記されていました。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。

この言葉を手紙に書き記しながら、きっとパウロの心には、次のような決心が強く芽生えてもいたに違いありません。「だから私たちは、このキリストの尊い死を決して無駄にするような生き方をしてはならない!」。

キリストの死を無駄にしない。それはキリストの死に支えられて、この自分に与えられた確かな命を生きてゆこうとする決心でもありましょう。けれどもその決心は、実は自分を越え出る広がりをもちます。なぜなら、キリストの死を無駄にすることなく生きるとは、つまり私たちたちが信仰の歩みにおいて、一人でも多くの人を得ながら生きる姿でもあるからです。これは決してその人を自分自身のものにするということではありません。自分のためではなく、キリストのために得るのです。その人をキリストに導き、主ご自身のものとなるように伝道する。その人が救われるためです。

キリストのために「できるだけ多くの人を得る」。つまりキリストに従って、私たちが「人間をとる漁師になる」ということ(マルコ1:17)。実はこれが、パウロが今日ここで訴えてやまない「自由な者」として生きるということと深く結びつく所に、私たちは神の大切なメッセージを聴き取りたいと願うのです。そしてこれに重ねて、私は今日ここに皆さんと共に迎える教会設立記念礼拝、即ち伝道開始98年の歳月を数えるこの節目に際して、あらためて、私たちの教会の創設者・手塚縫蔵の姿を思い起こさずにはおられません。


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今から98年前の1924年から、私たちの教会は正式な教会として歩み始めました。つい最近リニューアルされたばかりの教会ホームページを開きますと、この時の様子が次のように紹介されています。「1924年9月13日、日本基督松本教会の建立式が行われる。司式者は植村正久・川添万寿得の両師。この日が教会の設立記念日となる。日本基督教会に属する一教会として,宣教の使命を付託され、正式に独立を認められた教会としての歩みが始まる。手塚縫蔵氏が長老会の中心となり教会形成がなされる。教会発足当初から,しばらく専任牧師が得られず、無牧が続く」。

既にご承知のように、手塚先生は牧師ではありませんでした。生涯、ここ信州の学校教師として生きた人です。教師でありながら、真実なる伝道者として生き抜いた人です。そうした人物を指導者として立てて出発した私たちの教会でありました。しかしもちろん、1924年になって突然教会が誕生した訳ではありません。その母体があった。そしてそこに篤い祈りも積み重ねられていました。

それが、かつて「松本聖書研究会」と呼ばれた集いです。同じく教会ホームページには次のように記されています。「1916年6月4日、松本聖書研究会が発足。小学校の校長であった手塚縫蔵が中心となり、小学校と幼稚園の関係者の参加がほとんどであった。聖書講義や祈祷会が活動の中心となった」。

この研究会は、毎月の第一と第三日曜日の10時から行われました。学校の先生たちが会の中心であったと言いますから、日曜日の午前中が集まりやすかったのでしょう。しかしその時間帯からして、教会の礼拝を意識するものでもあったでしょう。これは単なる偶然と言えばそれまでですが、しかしこの第一回目の研究会の参加者は、手塚先生を加えて13名。あたかもキリストと、十二弟子の数に符合する形で船出していたのでした。そしてこの会は、8年後の教会設立に至る頃には、正式な会員数が90名程という規模にまで、その実りを数えることになりました。


これはもう、昔話と言ってよいでしょうけれど、しかしかつて、「信州は、教会形成のできない所である」という議論がありました。そしてあの内村鑑三も、次のような皮肉と愛情をたっぷり込めて、こう言いました。「山のある所には必ず岩がある。岩のある所には、必ず岩のような硬い骨を有たる(持っている)人がいる。余(私)が信州を愛するのは、一つにはその岩のためである。二つには、その人のためである」。

当時この内村にも大きく傾倒していた手塚縫蔵は、まさに岩盤のように硬い信州の風土に深く根を張りながらその土地を耕し、そこに福音の種を蒔き続けることを自らの使命としました。そしてキリストを主と崇める信仰の証しの場を、実は教会にではなく、特に教育という仕事の中に見出しながら、そこで出会う子どもたち、また、共に働く教員たちの魂の奥底に向かって、福音の恵みを注ぎ込みました。キリストに支えられて生きる自らの実存の姿を堂々と示したのです。

否、むしろ手塚にとって、教育者としてその働きを本当に全うするためには、ますます信仰が不可欠であるとの確信に駆り立てられていったのではないか。私にはそう思えてなりません。

手塚先生は、その信仰において、まさしく今日のパウロが訴えた「自由」に生きた人だったと言えます。その端的な例として、彼は在職中、実に三度も休職あるいは停職を余儀なくされました。時代は戦前、軍国主義が徐々に台頭し、国や県の画一的な教育のあり方が支配的になってゆくことへの反発と抵抗が、その主な処分の理由でした。しかし彼は、そうした上からの圧力に対して、人は自由でなければならないと確信していたのです。

この、彼の自由に対する信念は、「自由主義教育」とも言われます。しかしこれが、お上からは単なる「気分教育」と揶揄されて、次第に政治問題ともなってゆきました。当時の大正デモクラシーの自由な機運を背景にした、西洋かぶれの一時の気分教育に過ぎないと、やり玉にあげられたのです。実は教会を設立した時とまさに同じ1924年9月、手塚が校長として勤めていた小学校には、当時の学務課長はじめ、県のお偉い面々が厳しい目を光らせて視察に乗り込んで来るという事件も起こりました(「川井訓導事件」)。


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しかし手塚先生は、これに屈することは決してありませんでした。教員仲間たちからの揺るぎない信頼と助けの手にも支えられながら、教育の現場を離れることなく、そこに戻っては教育と伝道の働きを、他でもない信仰による自由において果たし続けたのです。

実は二度目の停職処分を受けていた時、彼はよほど自らの進退に悩み果てていたのでしょう、東京に出向いて、牧師を養成する神学舎の聴講生となっていました。そこで植村正久牧師と出会い、教師など辞めて、牧師になるように強く勧められたと言います。しかし手塚はこの時、何と答えたか。「真の伝道は教育するにあり」。これにはさすがの植村も憤慨して、「愚なり浅薄なり(愚かで浅はかだ)」と机を叩いて叱られたと、手塚の日記には記されています。しかし彼はそこで固く心に決めるのです。「余(私)は愚をとらん、断じて愚をとるべし」。

はたして、手塚縫蔵が見つめていた「自由」への信念とは、ただの「気分」に過ぎなかったのでしょうか。彼が自由をもって上からの権力に抵抗し、あるいはまた、教会の専任の牧師職になるということからも自由であろうとしたその自由は、いったい何を守るための自由だったのでしょうか。そしてまた、何によって突き動かされ、どこに向かうための自由だったのでしょうか。


パウロは今日の手紙で、このように訴えました。「わたしは自由な者ではないか」に続いて「使徒ではないか」と言う。そしてまた、「わたしたちの主イエスを見たではないか」とも言う。実は、この三つ目の言葉の方から着目する方が、事の真相に照らしてより適切だと言えるかもしれません。パウロが、自分は「主イエスを見た」と述べていることが、どうして「自由な者」であることと繋がるのか、ということです。

「主イエスを見た」。これはどういうことでしょうか。聖書では、パウロが主イエスを見たとはっきり語るのは、ここだけです。しかし実のところ、彼が本当にその肉の目で主イエスのお姿を見たことがあるかどうかは、よく分かっていません。ただはっきりしているのは、彼がこの手紙の最後の方で語っているように、主が「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(15:8)という、その出来事です。

この、パウロにとっての確かな出来事に基づくならば、ここで主イエスを見たというのは、たまたまある時どこかでそのお姿を見た、というのではありません。主がご自分から、パウロに向かってそのお姿を現されたということに他なりません。しかもそれは、ご復活された主イエスの姿とみて間違いありません。この出会いこそが、パウロと主イエスの深い結びつきを確かに造り出したのです。

それならばあらためて、その復活の主を見た、とは何を意味するのでしょうか。単に、見た事実を述べているのでしょうか。しかし、ここにはパウロの揺るぎない確信があります。私は主イエスを見た。それは、主が自分にとってどなたであるかがはっきりと分かった、ということです。復活の主。それは、あの十字架の死から蘇られた真の主である。否、あの死は、他でもないこの自分の罪を代わりに背負い、赦してくださるための尊い死に他ならなかったことを、パウロははっきりと確信しているのです。


主イエスの死は、私たちの罪のため。ところで、私たちが罪人であるという時、それはどんな姿なのでしょうか。私たちに罪がある。しかしそれは、私たちが罪を持っているということではなく、実は、罪の方がこの私たちを持っている。捕えている。私たちを支配して、自分のものにしてしまっている、ということなのです。言ってみれば、私たちは罪の奴隷となっている。その罪から離れられなくなってしまっているのです。

これは、私たちには自由がない、ということに他ならないのではないでしょうか。しかし私たちは、まさにそこでパウロのように、主イエスを見るのです。否、キリストの眼差しがこの私を捕えて見つめてくれていたことに、遅まきながら気づかされてゆくのです。そして自分の心をキリストに向け直す時に、私たちは文字通り、罪から救い出される。キリストの恵みによって支配される時、罪の虜から解き放たれるのです。そこにこそ、本当の自由が生まれる。罪の奴隷であった者が、キリストの奴隷となることで、不思議にも、そこで初めて自由を生きる者となるのです。


キリストに捕えられ、その僕としてキリストにお仕えして生きる時、私たちはそこに恩寵として与えられる本当の自由を生きることができます。しかしこの自由は、実は私たちを、キリストに対してだけでなく、人に対してよく仕えさせる自由でもあるということを、知らなければなりません。それが今日パウロがもう一つ訴えていた、「使徒ではないか」という言葉の意味です。

使徒とは、つかわされた者のこと。しかし、つかわされるには、自分をつかわしてくれる存在と、つかわされてゆく相手が必ずいるはずです。パウロの場合で言えば、彼はキリストにつかわされて、かつてコリントの教会の人々のために仕えたのです。

それは一方では、パウロは確かに使徒として、彼らによく教え、教師として指導的な役目を果たしたことを意味するでありましょう。だからこそ教会も立った。しかし使徒の本当の務めは、人の上に立つことではなく、人の下で仕えることにあります。その仕える働きを通して、助けを必要としている人々を、キリストのためにできるだけ多く得てゆくことなのです。キリストと共に生きる喜びを知る友を、一人でも多く造り出すことにひたすら仕え続けるのです。

その実りを確信して述べたのが、使徒パウロのこの言葉でした。「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」(1~2節)。


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最後に、私たちの教会が立つ源をあらためて見つめる今日この日、私はパウロの使徒としての姿に、今一度、手塚縫蔵の姿が重なって見えます。手塚は最後まで、牧師にはなりませんでしたし、使徒とも呼ばれませんでした。それでも、その働きは間違いなく使徒的でありました。その姿が、教会を真のキリストの教会たらしめる御業のために用いられたことは、やはり言うまでもありません。

それは彼が「私たちの主イエスを見」続けていたからです。また、その恵みによって「自由な者」として生きることができたからです。そしてついに、「信州は、教会形成のできない所である」と言われた、そうしたこの世的な意味での硬い岩盤に、彼は主の恵みを注ぎ続け、ここに新しく、キリストの福音こそを真の岩とする、私たちの教会を建て上げてゆきました。

それはどこまでも、主と隣人とに仕える使徒的な姿がそこにありました。手塚という存在との真実なる出会いによって洗礼を受け、信者となった当時の教員は200人、校長は30人とまで言われます。もちろん数の問題ではありません。しかしその一人一人に彼がどのような姿・存在で出会ったかが大切です。彼は言いました。

「存在は、即ち教育なり」。

「存在は、即ち伝道なり」。

「存在は、即ち愛なり」。


98年の時を経て、今ここに集められている私たちも、この手塚のように、あのパウロのように、同じキリストの命懸けの愛に支えられ続けています。その愛に応えて、たった一人でも良い、その一人を、確かな確信と喜びをもってキリストのために得させて頂きたいと願います。その一人は、老いも若きも、今与えられている私たちのこの群れの中からも、既に示され始めているのです。


<祈り>

天の父よ。今日の御言葉を感謝します。98年の私たちの教会の歩み、またそれに先立つ、あなたの御恵みを蓄えるための準備の時にも、あなたが絶えずこの群れを呼び集め、導いてくださっていたことを思い起こします。キリストという真の愛の岩の上に、パウロが教会を建て、また手塚も教会を建て上げました。私たちも同じ土台に支えられています。伝道のために、キリストのために一人でも多くの者がこの群れに加わるために、私たちの信仰がまた今豊かに用いられるようとします。どうかそのために、私たちを自由な者にしてください。キリストの真の恵みこそが私たちを支配し、愛に駆り立て、たった一人の友でもよい、その友を得させてくださいますように。その喜びを刈り取る希望が、今ここに示されていることを心から感謝し、それに応えてゆく私たちとなりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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