2022年11月13日 主日礼拝説教(降誕前第6主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記32:1~6
新約聖書 コリントの信徒への手紙一10:1~13
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毎月皆さんにお配りしている「松本東教会の祈り」というものがあります。その冒頭に、いつも<今月の聖句>が掲げられています。そしてこの11月は、ちょうど先ほどご一緒にお読みしたコリントの信徒への手紙一第10章の13節が選ばれて掲載されています。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
聖書の中でも、比較的よく知られ言葉だと思います。もし今日、初めて耳にする方であっても、「あぁ、いい言葉だな、励まされるな」といったご感想を持たれるのではないかと思います。私たちの人生には様々な試練、苦しいことや悲しいことがあります。しかしその時に、その試練は決して「耐えられない」ものではないと聖書が語ってくれる。神がそのように約束して、しかも、その試練において必ず「逃れる道をも備えて」いてくださる。そう語りかける聖書の言葉がここにあるのです。
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今日はこの最後の13節を先に取り上げました。なぜでしょうか。それはまさに、この箇所だけを取り出して胸にしまい込むことが無いようにするためです。いったいどういう流れでこれが言われていたのか。そこが大切です。特にこの箇所は良く親しまれているだけに、ともすれば誤解をしたままこれを心に留めてしまうことがないように、この御言葉が本来持つ真実の中にしっかり立って、あらためて聴き取りたいのです。
実は先取りしますと、この13節でおそらく最も大切な言葉は何だと思われるでしょうか。パウロはどこに強調点を置いてこの手紙を書いたことでしょう。私は次の一文に注目させられます。「神は真実な方です」。耐えられないような試練はないとか、逃れの道が備えられるとか、そうした慰め以上に際立って来るのが、「神は真実な方」という言葉だと思えるのです。
つまり私たちに知らされている神とは、人間の信頼に十分応えることができる真実なるお方だということです。大切なのはここです。耐えられないような試練はない、と言われる時、そこでなお知らなければならないのは、私たちがその試練に耐えることができるのは、いったいなぜかということです。大きかった試練が小さくなるからでしょうか。私たちが突然強くなるからでしょうか。否、試練は依然として大きく、強く私たちの前に立ちはだかります。けれども、もしそれに耐えられるとすれば、ただ一つ、神が真実なるお方として私たちに働いてくださるからに他なりません。
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そこで、パウロがなぜ、この13節の言葉を言わなければならなかったかを知るために、あらためて今日の最初の言葉に戻ります。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい」(1節)。
この言葉は、少し前の第9章24節と響き合っているように聞こえます。「あなたがたは知らないのですか」と始まる言葉です。あなたがたは知らないのですか。否、知らないならぜひ知っておいてほしい。私たちの信仰の歩みは競技場のレースのようだ。競技では賞を受けられるのがただ一人と知りながら、それでも、皆一生懸命に節制しながら走る。私たちもそのように走り抜けよう。
けれども、そこでなお「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい」と続けるのが、今日の第10章です。コリントの兄弟たち、油断してはならない。次のことはぜひ思い起こして、心に刻み直してもらいたい。そう願いながら「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け…」とパウロは語り始めるのです。これは、あの旧約聖書の出エジプト物語です。イスラエルの民が、奴隷の身となっていたエジプトから神に救い出され、指導者モーセに率いられながら荒野の40年の旅をしたことを思い起こさせているのです。
ところが、ここに描かれるイスラエルの民の旅物語は、明らかに暗いイメージです。5節を見ますと、「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」とあります。6節には「彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」と続き、少し間を置いて9節にも、「彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう」との戒めがなされます。
要するに、ここは明らかに、イスラエルの民がいわゆる反面教師として扱われているのです。先ほどの第9章の最後で、パウロ自身が使っていた言葉で言えば、まさに信仰の「失格者」(27節)です。信仰の旅路において、彼らは失敗してしまった。失格者になってしまった。だからそうならないようにしよう。「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」(6節)とある通りです。
いったい、彼らはどうしてそんなことになってしまったのでしょうか。2節以下にこう記されます。「皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」。
パウロがここで述べていますことは、私たちの信仰の先祖であるイスラエルの民たちもまた、洗礼を受け、そして聖餐に与っていたということです。今の私たちと同じく、霊的な食物を食べ、霊的な飲み物を飲んだ。この食物とは、エジプトを脱出して荒野を旅する途中で食物が尽きてしまった時に、神によって与えられた天からのパン、すなわちマナのことです。飲み物とは、水がなくなってしまった時に、今度は神が岩から水を出すという奇跡によって飲ませてくださった水のことです。
こうして、彼らに与えられた天からのパン、また岩からの水が、今私たちが教会において頂いている聖餐のパンと杯とに重ね合わされています。そしてそのようにして、あのイスラエルの民たちも、キリストご自身の肉と血による恵みをあそこで受けとっていた。キリストの恵みがそのように生きて働いていたというのです。
その恵みをさらに、パウロはこう説き明かしました。「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。
これは、旧約聖書の民数記に記されていることが背景にあります。特に第20章で、モーセが岩に鞭を当てたら、神の約束通りに水がほとばしり出た。そしてそれから何日も旅をし続けた後に、今度は泉から水を得る話が第21章に出てくるのですが、その時、これはあの第20章に記された岩の水と同じ泉だということを民数記そのものが語っているのです。つまり、岩が一緒について来たと思えるほどに、泉がイスラエルの民の旅路をいつも潤わせていた。そしてそこに、パウロはキリストの岩のような確かさと麗しい恵みを見出すのです。
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「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」(5~7節)。
主の恵みはいつも傍にあった。しかし、その恵みを与えておられた神の御心に適わないことをして、荒野での滅びを招いてしまった。否、実はエジプトを脱出した人々の中で、カナンの地に到達した者はいなかった。なぜそんなことになったのか。7節に、偶像礼拝をしたからだと、その重要な理由の一つが書かれています。
この偶像礼拝の様子が、本日併せてお読みした旧約聖書の出エジプト記第32章の事柄です。モーセがシナイ山で主なる神から十戒を授かっている間、麓で待っていた民は、モーセの帰りが遅いので、とうとう待ちきれなくなった。そこで、自分たちを導いてくれる確かな神を造ってほしいとアロンに詰め寄り、アロンは金の小牛の像を造ってしまうのです。そして民はその偶像を神として喜んで拝み、その前で「座って飲み食いし、立って踊り狂った」のでありました。
これは要するに、お祭り騒ぎをしたということです。自分たちをエジプトの奴隷の苦しみから解放し、自由を与えてくださった真の神を忘れて、自分勝手な神を造り、その神を祀り上げた。偶像とは、そのように人が自らの思いで神を造り出し、自分のために用いようとする所に生まれます。
あるいはちょうど先週、私たちは十戒の第二の戒めを学びました。「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言われる時、そこで神が、私たちに望んでおられることは何だったでしょうか。それは、「私たちが、神が御言葉においてお命じになられた以外の仕方で、神を礼拝する」ことがないようにすることです。つまり、偶像礼拝とは、あえて神を見える形にして造ったり、ましてや他の神を信じたりするということをしないまでも、むしろ私たちが神を讃えて拝もうとする時、まさにその所で、神を真の神としきれずに、反れてしまう。的外れになってしまう。そのようにしてまた、「神が真実なお方である」ことを疑う自分の心に捕れてしまう姿のことなのです。
第9章の終わりの部分で、「節制する」という言葉が繰り返し使われていました。これは、まさにここでは、神の真実から離れないようにするための戦い、ということになるでしょう。そしてこの戦いこそが、今日の13節に記された「試練」の意味であったことに気づかされるのです。ここで言う「試練」とは、何より信仰の試練です。神の真実を疑い、なおそこで信仰によって立つか倒れるかの戦いを強いられる。そうした試練に他なりません。
もちろん、私たちの身の回りに起きている困難や窮状そのものを指して、それが試練だということも言えるでしょう。しかし私たちがそこでなお本当の試練として問われ、突き付けられていることは、いかなる状況にあっても、なおそれでも神を真実なお方として讃えることができるか。信じ抜くことができるか。そのことなのです。
この信仰の戦いにおいて、しかし私たちにはこれに耐え抜く程の力はありません。だからまた、時に淫らな行いをして不品行を犯す。そのようにしてまた出てくるのが、神を試みるということです。試みを受けているのは自分であるはずなのに、私たちが神を試みる。自分たちは今こんなひどい目に遭っているのに、神様は少しも神様らしく助けてくださらない。もし助けてくれるなら信じてやってもいいだろう、と言った具合に神の真実を疑い、捻じ曲げるのです。
神を試みることは、キリストをも試みることです。だからこそ、「キリストを試みないようにしよう」(9節)という戒めに続けて、続く10節で「不平を言ってはいけない」と言われるのです。ぶつぶつ文句を言ってはならない。神をそのように疑い、拒んだ時には、あの信仰の先祖たちと同じように、滅びを招かずにはおられなくなるではないか。
これはとても厳しい言葉です。しかしこの厳しさは、私たちが今、「時の終わり」(11節)に直面していることに本当に気づくならば、真剣さをもって身に染みてくるはずだとパウロは訴えます。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(11節)。
「時の終わり」とは、私たちの生涯の終わりだけではありません。この世界の終わり。神が祝福をもって始められたこの世界の、いよいよ終わりの時。その救いの御業の完成の時です。私たちの人生も、そこに向かっています。否、終わりの時の方が私たちに迫っている。それは救いか、滅びか、という究極の問題です。この究極の真実に耐えるだけ、私たちは今しっかり立っているだろうか。否、だからこそ告げられるのです。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(12節)。
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いったい、私たちはどうすれば信仰の試練にあって、立ち続けることができるのでしょうか。神が真実なお方であることを、どうしたら信じ続けられるのでしょうか。
「神は真実な方です」。この13節の言葉の確かさを、私は先週来お伝えしています、I.Kさんのお姿を通して、確信させられています。今日の祈りの中で、また昨日メールをお持ちの方はそこでのお知らせを通して、既に皆さんご承知のように、昨晩、Iさんが天に召されました。しかしこのことは、もう先週の時点で覚悟されていたことでもありました。
ですから先週の礼拝後、お残りになれる方だけではありましたが、急きょ、Iさんの愛唱讃美歌2曲を共に歌いまして、その様子を録画に撮ったものを、病床にいらっしゃるご本人にお届けする試みを致しました。しかし様々な困難が伴って、実はすぐにお届けすることができないまま数日が過ぎておりました。ところがその間に、ご家族からお電話を頂きました。ご容体が急変し、もう、危ないと。
そこで、それまでコロナ禍で家族の面会さえ叶わなかった病院でしたが、いよいよ最後の時であるという状況から、面会が許され、牧師である私も特別に許して頂きました。急いで駆けつけました。許された面会時間は、たったの5分。多くのことはできません。しかも、Iさんはもうほとんど意識がありませんでした。口元には呼吸器が当てられ、顔全体も痙攣を引き起こしている有様でした。
何ができるか。しかし私は迷わず、動画を納めたスマートフォンをポケットから取り出しました。目はもう閉じていらしたので、お見せすることはできませんでしたが、それを耳元に近づけて讃美の部分だけをお聞かせしました。Iさんが最もお好きであった273B、「わがたましいを 愛するイェスよ」から始まる讃美歌であります。
静かな調べが、しばらく流れました。その場にいたご長女と私は、息をのむような思いで見守りました。すると不思議なことに、Iさんの苦しそうな呼吸が明らかに落ち着きを見せ始め、痙攣が続いていたはずの表情も、全く穏やかになっていかれました。それまで何もなす術がないまま、ベッドの上で起きている耐え難い現実を、ただただ見つめることしかできなかったその場所で、しかしIさんは、確かに讃美の音を聴き取っておられたに違いありません。
あの平安な姿を、今でも忘れることはできません。その平安の中で、2曲目の405番(神ともにいまして)も同じようにお聞かせすることができました。きっとあの時、Iさんはただ聞いておられただけではなかったと思います。声は出ずとも、起き上がることはできずとも、一緒に歌っておられたに違いない。苦しみに耐えながら、しかしそこで、神を讃美する者として立ち上がらされた。神の真実、その恵みのご支配にしっかり捕えられて、その恵みを存分に味わうことのできる幸いを、体全体で噛みしめておられた。そう信じてやみません。
Iさんに訪れた平安は、周囲の者にとっても平安となりました。この平安は、神がIさんをどんなに愛しておられたか。最後の最後まで、真実なる神として愛し抜かれたことを証しするものであり、また、遺される私たちのことも愛してくださっていることを十分に信じさせるものでした。神が働かれる時、どんな困難や試練があっても、それに耐える力が必ず与えられます。またそこから逃れさせて頂く安らかささえ与えられるのです。これに勝る幸いはありません。そしてこの幸いは、同じ神に愛されている私たちにも、確かに約束されていることなのです。
<祈り>
天の父よ。生きる時も死ぬ時も、私たちはあなたのものです。真実の神であるあなたが、私たちをご自身のものとしてくださいます。今、試練のただ中に置かれて倒れている者がいますならば、どうかその試練の最も確かな意味を悟らせ、それを乗りこえさせる力と、何よりあなたの、全き真実なる平安を注ぎ込んでくださいますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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