top of page

「もう、泣かなくてもよい」

2022年10月9日 逝去者記念礼拝説教(聖霊降臨節第19日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編126:5~6
新約聖書 ルカによる福音書7:11~17

            

新型コロナウイルスの脅威が世界中を巻き込むようになって、早3年近くが経とうとしています。あれほど恐怖に怯えていた日々が、しかし今では“withコロナ”と言われるように、コロナはある意味で、現代人にとってはもう、日常化しているのかもしれません。

しかし一つ、私たちがこの危機からはっきり教えられたことは、この世は常に変わりゆく、ということではないでしょうか。当たり前のことではありますけれども、世界は絶えず刻々と変わり続ける。何一つ同じであり続けるものはない。何一つ永続するものもない。昨日も今日も、明日も、私たちの日常は変わらないと思っている私たちの方が間違っていたことに気づかされるのです。

こうしたコロナ危機を通して、私はあらためて思わされることがあります。それは、死を超える希望をもつことの大切さです。この世には何一つ同じであり続けるものはないし、永続するものもない。それは私たちの命も同じです。誰も、死を乗り越えて生きることはできません。死に勝つことはできないのです。コロナ対策を入念に施し、ワクチンを何度も接種して最大限の予防をする。これはもちろん、与えられた命を懸命に守ろうとする、とても尊い営みです。けれども、そのようにして何とかコロナで死なないようにはできても、やはり人は、いつかは死んでゆきます。

私たちは、このコロナ禍の数年の間にも、愛する人との地上の別れを経験してきました。その中に、辛くない別れは一つとしてなかったはずです。しかしだからこそ強く思うのです。死を超える希望。私たちには、死なないように力を尽くすことより、もっと大切なことがあると。たとえ、死という厳然たる闇が私たちをのみ込んで来ようとも、希望を捨てない。絶望しない。朽ちない希望を持ち続ける、ということです。

これは死に対するあらゆる恐れや悲しみ、苦しみや空しさ、また時には怒りや恨み、あるいは後悔や自責の念といった切実な心模様を排除することではありません、むしろそれらを、人生の内側にしっかりと受け容れながら生き抜いてゆくことに他なりません。否、たとえ、自分ではそれができなくても、その自分を丸ごと大きな眼差しで見つめ、共に歩んでくださるお方に出会って頂けるならば、そこに今まで見えていなかった光が見え始めて来るに違いありません。私たちは、死という、紛れもない断絶の出来事のただ中にあっても、幸いなる人生が約束されているからです。


**

本日の逝去者記念礼拝において、私たちに与えられました聖書の御言葉は、ルカによる福音書からであります。ここに、ある一人の若者が死んでしまうという出来事が語られます。ある母親のたった一人の息子でした。しかもこの母親は「やもめ」であったと言います。夫と死に別れ、頼りにしていた一人息子にも先立たれてしまった。共に無名の親子です。しかし聖書は、ここに光を当てます。

当時の慣習で、死んだその日の内に埋葬するのが慣わしでした。そして場面は、もう、若者の遺体を納めた棺が担ぎ出されるところ。この全く思いがけない悲劇に、心の整理など到底つかないままそこに臨んでいたであろう母親の姿が、容易に想像されます。どんなに悲しかったことでしょうか。胸が張り裂けそうな痛み、息苦しさ、あるいはこの不条理に対する憤りもあったでしょう。

もしかしたらこの時、母親はもう、自分で歩けなくなる程だったのでしょうか、「町の人が大勢そばに付き添っていた」(12節)ようです。それくらいに、多くの人々が、この母親の深い悲しみに心を寄せていました。そして棺を運び出す行列は、ナインという町の門を出て、お墓に向かってゆきます。

墓は町の外にあった。この何でもないような事実を逆から考えてみますと、町の中、門の内側では、人々の日常の生活が大切に営まれていたということでもあります。もっと言えば、死という恐ろしい現実は、生活の中に入り込ませるものなどではなく、外に運び出すものだ。そのような暗黙の了解が当然のように共有されていた。そんな風に考えることもできると思います。

ですから今はしばし喪に服して、棺を町の外の墓場へと運び出す。しかし結局は、一人の若者を死者の世界に運んだら、そこに置いて、葬って、帰って来ることになるのです。そして町に戻って、この母親に付き添っていた大勢の人々は、もし彼女がなお涙を流しながら生活する姿を見れば、懸命に励まそうとしたでありましょう。日常を取り戻すためにです。そしてあれこれ言葉を尽くしながら、元気づけようとする。けれども本当は、何を言えばよいのか分からないでいる。死の力を前にして、これに打ち勝つ言葉を持ち合わせていないからです。そしてそれが、自分たちの姿だと痛感させられる。これは私たちにも通じる姿ではないでしょうか。


***

しかしまさにこの現実に、主イエスが踏み込んで来られた。それが、今日のルカ福音書が私たちに伝えるメッセージに他なりません。

一人の若者が、この町からもういなくなってしまった。そしてこの一人息子を突然失ってしまった母親の、言いようもない悲しみ。このなす術もない現実に、周囲の者は同情を募らせながらも、静かにこれをやり過ごす他ないというような状況の中で、ただ主イエスだけが、堂々と立ち現れてくださったのです。そして、この母親の姿をじっと見つめられました。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)。

「もう泣かなくともよい」。今、目の前で泣いている者に向かって、私たちは確信をもってこんな言葉を言えるでしょうか。むしろ今は泣きたいだけ思いっきり泣いていいんだと、そう慰める所ではないでしょうか。けれども主はそうは仰らなかった。「もう泣かなくともよい」。ただ泣くな、ではありません。泣いてよい。しかし、「もう」泣く必要はない。その必要がなくなる根拠を、あなたは今、目の当たりにしているのだから。


主イエスはこの時、母親が悲しみに悲しみを重ねて泣き続けた、その涙の跡までをもじっとその目に留めながら、確信をもってこの言葉を放たれたに違いありません。私たちが決して気軽に口にすることのできない言葉です。しかし、主イエスだからこそ言えた言葉。主イエスにしか言えなかった言葉。真に力ある、権威の言葉です。

この権威はどこから来るものでしょうか。天から降って来る上からの権威でしょうか。そうではありません。実に具体的で、身近に見えます。情緒的ですらあります。なぜならこの権威は、主イエスの「憐れみ」の心に由来するものだからです。13節をよく見ますと、「もう泣かなくともよい」と言われた時、主は、「この母親を見て、憐れに思」わずにはいられなかったのです。

既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、この「憐れむ」という言葉は、聖書の中で特に大切な言葉です。なぜならこの言葉は、神の愛、あるいはキリストの愛を語る時だけに用いられる、特別な言葉だからです。人の情けを表す言葉ではないのです。ここで使われている「憐れむ」という動詞の、元のギリシア語でいう所の名詞は、「内臓」という意味の言葉です。心臓や肝臓、あるいは肺や腸など、私たち人間の命を司っているもの。そこが今ちぎれるほど痛む。これが、「憐れむ」の本来の感覚です。そこまで深く相手の悲しみや苦しみを感じ取っている。それが今、この母親を目の前にした、主イエスのお姿に他なりません。


****

主は「この母親を見て、憐れに思」われました。つまりこの母親ゆえに、主は今、はらわた痛む思いになっておられる。彼女に出会ったことで、ご自身の存在の深みにまで相手の痛みが感じ取られている。我を忘れるほどに、彼女の痛みが自分の痛みになってしまっている。そういう所に立ってこそ生まれる、主の憐れみです。

しかしよく考えてみますと、神はそもそも感情を持つお方なのでしょうか。私たち人間と同じように、神までもが感情を持つとするならば、いちいちその感情に振り回されてしまうということになりやしないだろうか。そして場合によっては、人間の感情にごり押しされたり、引っ張られたりすることにならないだろうか。もしそういうことになるなら、それは神が神らしくなくなってしまう。やはり神は、人間に支配されてはいけないお方でなければ…。

このような考えが、一方では成り立ってくるのです。そして実際、特に古代のギリシアの人々は、神は感情など持たない、はらわたが痛むなどあり得ない、という考えをもっていました。そしてこれを突き詰めると、究極的には、「神に祈っても無駄だ」とさえ思うようになったのです。「神さま、苦しいから助けてください」と、どんなに祈っても、神は所詮、そんな人間の情には左右されないのだから、祈っても無駄だ、という理屈です。

けれども私は、これは単なる理屈ではないようにも思うのです。このように考える人たちを、何と冷徹で信仰の薄い者たちかと無下に退けることはできないと思えてならないのです。むしろ、彼らのように考えざるを得ない厳しい体験を、私たち自身もしているのではないか。神にいくら頼んで、祈りに祈りを重ねてみても、それが聞き入れられない無力感。自分が祈っている神に、本当に心などあろうか、ましてや心が動かされることなどあろうかと、疑いを持ってしまう私たちの正直な姿を、ここで認めざるを得ないのです。


しかし私たちは、あらためて、今日のルカが書き記すこの福音書に描かれた、主イエスの真の姿をしっかり捉えたいと願うのです。主イエスはじっとこの母親の姿を見つめておられました。それはまるで、主イエスの存在全体が「目」になっていた。そう言ってよいと思うのです。そして主イエスはまた、母親の泣き叫ぶ声、言葉にしきれない深い胸の内にある思いをも、じっくり聞いておられた。その意味では、今度は全存在が耳となっていた。そう言ってもよい。それほど聴くことに集中し、全てを漏らさずに聴き取っておられたのです。

だからこの時、存在自体が目であり、耳であるような主イエスに対しては、もはやこの母親は、もう祈る必要が無くなる程であったのです。これは、彼女がどんなに祈っても神は聞いてくれない、というような諦めからではなく、もう本当に祈る必要がないほどに、今ここに現れてくださった神の御子イエス・キリストが、彼女の存在と一つとなってくださった、その真実に支えられているのです。神が、自ら痛む存在となってくださったのです。


そこで祈る必要がない程に、もう主があなたの傍にいてくださる。悲しみをご自身のものとしてくださる。それは彼女にとって、もう泣く必要もなくなる、という歩みのスタートともなりました。では、その歩みはどこを目指すものとなったのでしょうか。

この一連の場面の最後に注目しますと、今日お読みした16節に、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」と記されています。つまり、主イエスと母親との間に起こった今日の出来事が、それを取り囲んでいた町の人々全体の出来事ともなったことで、それに対する心からの畏れと驚き、そして讃美が歌われるのです。

では、その彼らを驚かせた、決定的な出来事とは何だったのでしょうか。それが、この若者の蘇りです。このナインの町の人々は、門の中では日々懸命に働き、また誠実に神を拝んでもいたことでしょう。けれども、その内の一人の仲間が死んでしまった時、彼らはその遺体を門の外へ、町の外の墓場へ、つまり死の世界へと、もう自分たちの手の届かない闇の彼方にそれを置いて来ようとするものでした。棺を担ぎ出す行列は、そのためのものでしかなかったでありましょうし、その心は、母親も含めて、皆絶望の闇に閉ざされていたはずです。

しかし、そこに今日、主が自らの足を踏み入れてくださったのです。誰よりも深い憐れみ、はらわた痛む思いをもって、この行列を待つ受けてくださっていました。彼らが向かうべき本当のゴールを、死の闇の墓場ではなく、ご自身の憐れみの中へと導き、招き入れてくださるためにです。そして主は自ら近づいて、その棺に手を触れ、仰いました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。

これも、主イエスにしか言えない言葉です。そしてこの言葉には、憐れみだけでなく、実は主イエスの激しい憤りも込められていたのではないかと思えてなりません。いつまでも泣いている母親や大衆に対してではありません。彼らをそのように泣かせ続けている、死そのものに対する憤りです。あなたたちは「もう泣かなくともよい」。そして「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。この言葉は、その言葉が指し示す通りに実現しました。主の真の権威あるお言葉は、私たちに命の出来事を起こすのです。


*****

これは、死んだ人が単に奇蹟的に生き返った、という話ではありません。あるいは、主イエスは死んだ人をいつでもこの地上で甦らせてくださるお方だ、ということをもって私たちに希望を与えるものでもありません。この若者も、いずれはまた死んでいったのです。この奇蹟は、私たちに地上で永らえる命を約束するものではありません。むしろ奇蹟と言うならば、私たちが、日々衰え、今日も死に向かって朽ち果ててゆくこの体と命を抱えながら生きてゆく時に、誰に会うことができたか。その奇跡であります。驚きであります。

そして私たちは、いったい誰と共に生きるのか。このことが最後に問われます。「もう泣かなくともよい」と仰って、死を超える、朽ちない希望を私たちの手に握らせてくださるお方。そのお方の真に憐れみ深い、それ故に権威ある真のお言葉に聞き従いたいのです。この権威は、どこまでも、主ご自身の憐れみと一つとなって現れてくる権威です。私たちの自由を奪い、抑えつけ、すべてを押し潰すような威圧ではありません。そうではなく、むしろこの世で私たちを縛り、苦しませている闇の力、罪と死の力そのものをこそ打ち滅ぼし、私たちを自由へと解き放つ祝福の権威に他なりません。

そしてこの権威は、十字架にまで貫かれるものでした。主イエスは、私たち人間が抱く死の恐怖や苦しみを一切知らないところで、今日の言葉を仰っていたのでしょうか。ご自分は神の子なのだから、故に死ぬこともない。それ故の高みに立って、私たちに憐れみを注がれたのでしょうか。そうではありませんでした。まさにその神の子であるお方が、肉となって、人となって、私たちと共に死ぬ者となってくださったのです。

母親の悲痛な苦しみ、そして人々の絶望、これに対する存在全体をもってしての憐れみを抱かれた故に、やがて主イエスご自身も、死んでゆかれるのです。そのように死ぬ者として、しかしまたその死こそを滅ぼすために、主は、十字架に向かわれました。ご自身の蘇りの命に、愛するすべての者を招き入れるために。そして私たちが死を前にして諦めても、主ご自身が諦めることのない情熱をもって、今日も語りかけてくださいます。「もう泣かなくともよい」。


<祈り>

 真の蘇りの主イエス・キリストの父なる神様。あなたの永遠の命を分け与えて頂いて生きる幸いを感謝いたします。私たちはやがて、死ぬ者です。いつ、その死が訪れるか分からない中を歩んでいます。そして既に、多くの愛する者を、家族を、この地上から失い、死の闇の力にのみ込まれてしまったかのような恐れを抱くこともあります。しかし主が、この死の力に憤ってくださいました。そして私たちを憐れんでくださいました。どうか、真の権威のもとで死が滅ぼされた真実に、私たちを贖い取ってくださったあなたの永遠の愛を望み、この愛に何度も立ち帰りながら、生涯を全うすることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


Comments


bottom of page