2024年5月26日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第2主日)
伊藤節雄 教師
旧約聖書 創世記2:7
新約聖書 ヨハネによる福音書6:60~65
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子達がこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなた方はこのことに躓くのか。それでは、人の子がもと居たところに上るのを見るならば…。60~62)
信仰に躓く人達がいました。主イエスに躓く人達がいました。この時の躓きの様子は、こんなひどい話は聞いていられないと呟くことでした。こんなひどい話とはどんな話だったのでしょうか。53節の「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければあなた達の内に命はない。」という話です。この話が、とても聞いていられない実にひどい話だと呟いたのです。ひどい話というのは、不快な話、不愉快な話という意味です。そしてもう一つ、難しくて理解出来ない話という意味でもあります。主の肉、主の血という言葉の指し示す意味が理解できなかったのです。だから肉や血という言葉にだけとらわれて、実にひどい話だと呟いたのです。それを躓きと主はいわれます。
主イエスは、それに気づいて言われた。「あなた方はこのことに躓くのか。」さあここで立ち止まって、この主の言葉を受け止めてみましょう。これは主の質問でしょうか。「はいそうです。」「いいえ違います。」と答えるような主の問いでしょうか。話の形としては確かに「躓くのか」と問い掛けになっています。しかしそこに主イエスの何か強い願いのようなものがあることに気付くのです。単なる問いではない。主は強く求めておられます。「躓くのか」という問い掛けの後ろに主の力強いお勧めがあるのです。躓かないように生きなさい、躓きを乗り越えなさい、という主の願い・勧めを聴き取りましょう。
何十年も信仰を求めても、信じることの出来ない方もいらっしゃる。また、信じた積りでいたのに、ふと疑いを抱いてしまう人もいる。右にも左にも逸れず雄々しく進もうと思っても、迷ってしまうことが起こる。中々信ずることが出来ない私達、ふと疑いを抱いてしまう私達、どうしても迷ってしまう私達に、「躓くのか」と問い掛けて下さる。この問い掛けの中に、躓かないように生きなさいという主の願いを今日聴くのです。躓きを乗り越えなさいという主の勧めを聴き取るのです。
だから、信仰の躓きを、もう変えられないものと考えない。一度躓いたら、もう諦めるしかないのか。信仰生活を投げ出してしまうしかないのか。もし躓いたら、もう主にお従いする生き方をやめて降参するしかないのか。いいえ、違います。「躓くのか」と問い掛けられて、そこに主の願いを聴き取るのです。躓かないように生きなさいという主の願いを聴き取るのです。躓きを乗り越えなさいという主の勧めを聴き取るのです。
躓いたら、もう諦めるしかないのか、と申しました。12弟子にぺトロがいました。大切にしていた主イエスから「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言う。」Mk.14:30)と告げられました。ペトロは、力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」Mk14:31) しかし、ペトロは躓くのでした。裁判の時、中庭にいたペトロは「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」Mk.15:67)と見とがめられた三回目に答えました。ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなた方の言っているそんな人は知らない」と誓い始めました。Mk.14:71)これは躓きの中の躓き、最大の躓き、と言えましょう。
これは果たして乗り越えられるのでしょうか。躓いたら、もう諦めるしかないのか。信仰生活を投げ出してしまうしかないのか。もし躓いたら、もう主にお従いする生き方をやめて降参するしかないのか。ペトロは諦めなくてよかった。投げ出さなくてもよい恵みが用意されてました。改めて主にお従いする信仰の道が与えられていました。ペトロはどの様に、この大きな躓きを乗り越えられたのでしょう。これは聖書を開いて読んでおきたい。マルコ福音書15:72「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。この主イエスの言葉によって躓きを乗り越えたのです。用意されていた恵みとは主イエスの言葉なのです。改めて主にお従いする信仰の道とは、主イエスの言葉を思い出すことなのです。
「躓くのか」との問い掛けの中に、躓かないように、また躓きを乗り越えなさいという主の願いを聴き取る、と申しました。どうして聴き取れるのか。そういう、主の願いを私達はよく知っているからです。迷った小羊を見つかるまで捜し、見つけて連れ帰り大喜びする羊飼いイエスを私達は知っています。なくなった銀貨を、灯りをつけ点け、家を掃き、念入りに捜し、見つけたら皆を呼び集めて喜ぶ女の人の譬えを私達は知っています。
躓かない道、躓きを乗り越えることを主イエスは教えて下さいます。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなた方の内には信じない者達もいる。」イエスは最初から、信じない者達が誰であるか、又、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。そして言われた。「こういう訳で、私はあなた方に『父からお許しがなければ、誰も私の許に来ることは出来ない』と言ったのだ。」63~65)
主イエスの言葉は命を与える“霊”であるとあります。命とは、神がお与え下さる恵みの全部を表します。山上の説教で告げられた幸いに生かされることも命。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する生き方、隣人を自分の様に愛する生き方、これも命。重荷を負って、疲れた時主キリストの許にきて休ませて頂く生き方、これも命。聖書はこの様に命に充ち溢れています。
躓かない生き方、躓きを乗り越える生き方も、神がお与え下さる恵みです。だからこの命に含まれます。
ここでは、命を与える“霊”と言われています。皆さん、63節で何か変わったことに気付かれませんか。コーテーションマーク=引用符が付いています。とても珍しいです。新共同訳聖書の特徴です。強調を表します。重要ですから、大切に読みましょうという思いが込められた言葉だということです。霊こそ命を与えて下さる。
よく似た言葉を聞いたのではないでしょうか。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る。」54)この二つの言い方は角度を変えて同じことを伝えようとしています。主の肉を食べる、主の血を飲むというのは主のお苦しみと十字架を信ずる、ということでした。並べてみましょう。霊によって命が与えられる:主キリストを信ずることによって命を与えられる。霊による命:主キリストによる命。“霊”とは私達を主キリストと合わせる神の力です。主キリストと一つにさせる主の力です。主キリストのお苦しみと十字架による救いに入れる神の働きです。その神の力を受ける時主キリストを信ずる信仰が生まれるのです。聖霊によらなければ、誰も、「イエスは主である」とは言えない、ⅠCor.12:3)と聖書は教えています。
イエスこそ我らの主と信仰の告白をするように“霊”に、今も、導かれる者となりましょう。ではこの“霊”はどの様に私達を導いて下さるのでしょうか。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。63)私の言葉即ち主キリストの言葉によって導いて下さるのです。
主キリストの、言葉によって命を与えられた例を私達はつい先ほど聴きました。マルコ福音書15:72「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。ペトロは、この主イエスの言葉によって命を与えられました。ペトロは幸いでした。
ところで、63節の「言葉」と今のペトロを生かした「言葉」は、ヨハネ福音書の1章で言う初めに言があった1:1)という言とは異なる単語です。木の葉の葉という字をつけて言葉と訳してその違いを表しています。ペトロを生かした主イエスの言葉はメッセージのことだと言えます。主イエスが伝えようとした教えとも言えます。主イエスが私達に話す命の霊とは、礼拝において語られる主キリストの言葉です。主キリストの言葉を解き明かす説教のことです。今私達はその説教を聴きました。
この主キリストの言葉によって命を与えられる一週間を過ごします。
天の父、疑いと迷いに陥った時、「躓くのか」と問われる主の問い掛けの中に、主の熱い思いの御声が鳴り響いていることに気付かせて下さい。私達の悔い改めを大喜びされる主なのですから。
主キリストの言葉によって永遠の命に生きる者とさせて下さい。主キリストの言葉を解き明かすみ言葉によって、生きる者とさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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