top of page

御名を讃える告白

2022年12月4日 主日礼拝説教(降誕前第3主日)  
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:7
新約聖書 使徒言行録4:5~12

                   

街の中を何気なく歩いている時、もしも突然自分の名前を呼ばれたら、私たちは驚いて立ち止まり、呼びかけているのは誰なのかと、辺りを見回すでしょう。名前を呼ばれると、私たちはその呼び声に心が向き始めます。そのようにして相手との出会いが始まります。けれども、その相手の名前が分からないと、たとえ姿は目に見えても、正体不明の不安に駆られます。せっかくの出会いも、心が交わらなくなってしまいます。

聖書を開きますと、神は私たち人間の名前を呼んで、一人一人を捜し出してくださる神であることを告げます。そしてご自分の名をそこで知らせながら、私たちもまたその神の名を呼び返す時、神は喜んでその呼び声を聴いてくださいます。そのようにして、私たちと親しくなってくださる。それが、聖書の告げ知らせる神です。


**

ところが聖書はまた、こうも教えます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。

12月の最初の主の日を迎えまして、本日この礼拝で皆さんとご一緒に十戒を学びながら、これを私たちに与えられた神の言葉として聴き取って参りたいと願います。今朝は第三の戒め。出エジプト記第20章7節であります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。

かつて、この戒めを命じられた旧約の民、イスラエルの人々は、これを文字通りに守り、否、むしろ恐れて、神の名を口にすることをタブーとする慣わしがありました。「主の名をみだりに唱えてはならない」。もしみだりに唱えてしまったら罰せられる。少し言い方を崩せば、「バチが当たる」。こんな恐ろしいことはない。本気でそう信じたのです。

はたして「みだりに唱えるな」と言われて、どこからが「みだりに」になるのか良く分からない。うっかり、自分ではそのつもりがなくても、毎日の生活や祈りの中で神サマの名を呼んでいる内に、その呼び方が「みだり」だと神に判定されてしまっては、たまったもんじゃない。ならば、もう最初から神の名を口にするのはよそう。「触らぬ神は祟りなし」。そのようにして、実際にユダヤ人たちの間では、長らく「主の名を唱えない」時代が続いたのです。

しかし、冷静になってみればすぐお分かりのように、この第三の戒めは、あくまでも「みだりに唱える」ことを禁じたのであって、神の名を呼ぶこと自体を戒めるものではありません。否、むしろ、私たちが神の名を正しく呼ぶことができるようになるためにこそ、その道筋を造り出し、その歩みへと私たちを生かすことを目指します。罰や祟りを恐れて神を呼べなくさせる戒めではなく、私たちが心から神の名を讃え、神の名を呼ぶこと自体が私たちの力となり、慰めとなり、喜びとなることを、神ご自身が願っておられるのです。私たちが神を呼ぶことがなかったら、否、神を呼べなくなってしまったら、本当には生きてゆかれなくなるからです。

先週、私は日本基督教学会という所属学会のある会議に参加しました。「基督教」という看板を掲げている通り、会員の多くはクリスチャンの学校教師や教会の牧師たちです。けれども、学術的な学会ですから、キリスト教を、信仰の対象として信じるというよりも、あくまでも学問の対象として研究することに関心を持っておられる、ノンクリスチャンの方も中にはいらっしゃいます。

先週行われたその会議の中に、まさに自分は「非キリスト教徒だ」と公言する一人の若手研究者も参加していました。その方のお陰で、会議は実に新鮮かつ真剣なものになったのですが、その方から単刀直入に、こんな質問がありました。「よく学会から色々なお知らせや案内の文書が届くのだが、その冒頭にはいつも決まって、『主の御名を讃美します』という文言がある。定型の挨拶文なのだろうが、どうも自分には馴染まない。あれはどういう意図で言われているのか?」。


***

なかなか周りをドキッとさせる、しかしかなり的を得た、素朴な質問でした。皆さんは今、どちらの立場に身を置いてお聞きになったでしょうか。しかし私には、この質問の背後に、大切な深い問いかけがあるように聞こえてなりませんでした。いったい、神の御名を真実に唱えるとはどういうことだろうか。

そこでやはり鍵となるのは、今日の教えにある「みだりに」とは具体的にどういう意味かということです。この問いはまた、神の名を「真実に」はではなく、「みだりに」唱えてしまう私たちの姿とは、いったいどんな姿なのか、という問いでもあります。

試しに手元の国語辞典を引いてみますと、「みだりに」には次のような意味があります。「これと言った理由もなく」「勝手気ままに」「むやみやたらに」。つまり、今日の場合で言いますと、神の真実を見失って、口先だけで「神よ、神よ」と連呼する姿です。それはまるで、コップの水がもういっぱいに溜まっているのに、さらに水をそこに注ぎ続けるが如く、実に無駄に、空しく神の名を連呼しているような状態を想像できます。

今私は「神の真実を見失う」と表現しました。みだらな状態とは、端的に言えば、神の真実を見失っている状態のことです。けれども、さらに言えば、そこで本当に見失われているのは、その真実なる神と自分との関係です。神と人間との間にある秩序と言っても良いでしょう。ある神学者が、今日の戒めについてこう説明していました。主の名をみだりに唱えてはならない、それは「秩序を乱すような仕方で、主の名を呼んではいけない」という意味であると。

そもそも「みだり」という日本語は、「みだる」という言葉から来ているとも言われます。あの「乱れる」です。ですから、神の名をみだりに唱えるとは、神と人との間にある秩序を乱す、ということに外なりません。この秩序こそ、真実なる神と、罪人である私たち人間との間にある関係、ということです。

これは良く分かるのではないかと思います。人間関係においても、実に様々な秩序があります。その秩序を無視して、例えば私が、教会で皆さんのことを呼び捨てで「おい山田、ちょっとこっちへ来い」等と言おうものなら、たちまち緊急の教会総会が開かれるでしょう。私はもう、ここにいられなくなる。そのようにして、神に対しても然るべき秩序があり、その秩序に則った名前の呼び方があるのです。


一つ、興味深い話を聞いたことがあります。皆さんの中でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。昔々にあった一つの祈りに、自分が知っている限りの神サマの名前をひたすら並べ立てる祈りがあったそうです。日本にもある「神様・仏様・観音様」の類に似ているかもしれません。しかしもっとたくさん、何十、何百という神サマの名をとにかく呼び続ける。そしてその内さらに勢いづいて、もはや意味をなさない言葉すら口から出任せに次から次へと出る、そんな祈りがあったそうです。

なぜそんなことをしたかと言えば、どんなに熱心に祈っても祈りが聞かれないのは、神サマを呼ぶ時のその名前が、外れているからだと人々は思ったそうです。だから的を外さないように、とにかく知っている限りの神の名を呼び続ける。そうすれば、いつかうまい具合に本当の神サマに的中して、振り向いてもらえるかもしれない。ひいては、ただ出任せの滅茶苦茶な音まで発して、それは例えば、「ぱぴぷぺぽ」でも「あかさたな」でもいいのですが、その中に、たまたま「ぱぴ」という名前の神サマがいれば、見事にその名前を言い当てたということで、その神が自分の願いを聞き入れてくれる。そう信じながら祈る祈りがあった。誠に骨の折れる、何とも頼りない祈りであります。


****

しかし私たちは、このような祈りをする必要があるでしょうか。その答えは明らかです。もちろん、その必要はありません。なぜなら、神は既に私たちに、ご自身の名を惜しみなく明らかにしてくださったからです。しかし、神がご自分の名を明らかにされるとは、何を意味するのでしょうか。それは、単なる自己紹介に留まりません。この私たちと関係を持ってくださる、ということに他ならないからです。そしてまさにこの関係の中にあってこそ、私たちは初めて神の名を正しく呼ぶことができるのです。はたして、私たちはいつ、どのようにして神の名を教えてもらったでしょうか。

私たちは今日も、「主の祈り」を共に祈りました。「天にまします我らの父よ」。主イエスは、このように祈り始めることを教えてくださいました。この「父よ」と呼びかける祈りの言葉が、私たちの神の名であります。「お父さん」。そう呼んでも良いでしょう。

私たちは今日、十戒で「主の名をみだりに唱えてはならない」と教えられます。しかしこれを字義通りに受け取って、それではこの主の祈りでさえ、一日一回祈るのが限度だ、何度も「父よ、父よ」と呼びかけて祈ってはならない、ということになってしまうのでしょうか。そんな馬鹿なことはありません。主イエスが教えてくださった祈りなのですから、いくらでも祈ってもよいはずです。私の名をいつでも呼ぶが良い、好きなだけ呼び続けるがよい。むしろ神は、そのようにして私たちの祈りを待っていてくださる。あなたの真の父として祈りを聴き、その祈りに私の御心において応えよう。神はそう御心に留めてくださるのです。

これは実にありがたいことです。そしてここに、私たちの祈りの道が開かれます。礼拝の道が開かれます。神に結ばれる恵みが溢れ出すからです。しかしだからこそ、この神によって備えられた秩序、与えられた関係を、私たちは乱してはならないのです。神を「父よ」と呼ばせて頂ける、この恵みの秩序を壊してはならないのです。父なる神に対する、神の子としての自らの姿を、見失ってはならないのです。


先ほどの、「ぱぴぷぺぽ」でも「あかさたな」でも何でもいい、と言ったその祈りの問題は、どこにあったのでしょうか。そういう祈りにおいては、実は神を、自分の身勝手な都合のために利用し、自らに従わせているだけではないでしょうか。どうにかして自分の言いなりになってくれる、召使いのような神を手に収めたい。そう願いながら、いつしか自分を神の位置に置くのです。ある人はこの姿を揶揄して、「神を真の”神(GOD)”とせず、まるで”犬(DOG)”のように扱っている」と表現しました。

しかし明らかに、これは本当の意味での、父なる神に対する真実な態度とは言えません。たとえ「父よ」とか「主よ」とか、言葉の上では正しく神を呼んでいても、そこにあるのは、神との関係、神との秩序が乱れた、誠に「みだらな」姿と言わざるを得ないのです。


時折この説教でもご紹介しております八木重吉という人の詩に、次のようなものがあります。


  さて あかんぼは

  なぜに あん あん あん あん なくんだろうか

  ほんとに うるせいよ

  あん あん あん あん あん あん あん あん


  うるさか ないよ うるさか ないよ

  よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ

  みんなもよびな あんなにしつっこくよびな


この「あかんぼ」のように、私たちは時として、言葉が整わず、「神よ、父よ、主よ」という言葉でしか祈れないことがあります。周囲にはうるさくしか聞こえないような仕方で、ただその言葉だけを頼りに、神を何度も呼び求めざるを得ない苦境に立たされることがあります。

けれども、このたった一言を口にすることのできる恵みに、私たちはあらためて立ち返りたいと願うのです。神を呼び求める一言。この一言に全てを委ねる。決してみだりにではなく、ただひたすら、父なる神の御許に、神の子として跪く。私たちは、その位置に自分の身を置くことでしか、神の真実を生きることはできないのです。そしてそこでこそ、新たに切り開かれる道がある。そこで初めて、溢れるほどの神からの力を受けて、私たちは勇気を持ち直すことができる。愛に立ち、赦しの恵みに生きることができるのです。

私たちはこのように、神の名を呼ぶ一言に全身全霊を込めながら、この恵みを生涯にわたって噛みしめたいと願います。単純でもよい、しつこくてもよい、ただこの一言に喜んで耳を傾けていてくださるお方との交わりに、何度でも生き直したいのです。そして、神の名を呼び求めるのは、何かを願う時だけではないでしょう。時に不条理なことが身に起きた時には訴えても良い。嘆いても良いのです。「神よ、なぜですか!」。そのようにして必死に神に食らいつく。


*****

しかしその時に、最後に一つ、大切なことがあります。今日の第三の戒めの中心聖句である「主の名をみだりに唱えてはならない」には、その頭に、次の言葉が重ねられていました。「あなたの神、主の名を…」。

あなたの神である主の名を…と言われる。つまり、私たちが主の名をみだりに唱えてはならないのは、実にその主が、「あなたの神」だからです。誰かの神ではありません。世界を治める全知全能の神とも言われない。他でもない「あなたの」神。全てのものにとっての神であるはずのそのお方が、しかし今、たった一人の「あなたの神」であることを、宣言してくださるのです。

私たちは自分から、このお方のことを「私の神」とは呼べません。既にそこに、私たちのみだらな姿があります。神を自分の所有物にすることなど決してできないのです。神はそれほどに超越される。しかしまさにそのような神が、私たち一人一人を「あなた」と呼んで、ご自分に対するかけがえのない相手として、近づいて来られる。神と誰かではなく、私とあなたという、一人称と二人称の関係として見つめてくださる。まさに我と汝の関係に、私たちを招き入れてくださっているのです。

これは文法の話ではありません。哲学の話でもありません。世界の神が、あなたの神となってくださる愛の約束です。愛の奇跡です。否、愛の現実です。だから神は、そのあなたを探し出す旅に出かけるために、天からこの地上に降りて来てくださいました。それが、クリスマスの出来事です。主イエス・キリストの誕生の秘密です。神があなたと出会い、私たちも神と出会うための愛の物語、救いの物語が、キリストによって新しく始まったのです。

天の父よ。天のお父様。これはもう、祈りの枕詞ではありません。私たちはもはや、神の名をみだりに唱えることなどできなくなる程に聖められ、神の名を心から讃美し、告白する喜びに生きるのです。神の真実は、私たちの唇に上る言葉を、神を呼び求めるこの声を、今ここから新しくしてくださいます。


<祈り>

天の父よ。主の尊い御名が私たちに与えられました。その御名を呼び求める恵みが今、私たちを捕えています。心から感謝いたします。私たちがどんなに貧しく、愚かであっても、あなたの御名をみだりに唱える過ちを犯すことがないように、どうか御言葉と御霊の恵みをもってお支えくださいますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


Comments


bottom of page