2022年1月16日 主日礼拝説教(誕降節第4主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書64:1~4
新約聖書 コリントの信徒への手紙一2:6~9
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私が毎週、この講壇に立って説教を致します時、あるいはまた、平日の集会において様々な聖書のお話をします時にも、しばしば、大変心細い思いに駆られることがあります。こう言ってしまうと、不安を抱かれる方もおられるかもしれませんが、しかし天地万物をお造りになった神様のことを語ろうとして、その準備の過程で様々な学びを深めようとしますと、自分が知らなければならないことがいかにたくさんあるか、ということを痛く思い知らされます。
まだ勉強が足りない。否、勉強をすればするほど、自分が無知であることがいよいよ明らかになる。一生かけて学んでも、知るべきことのほんの一部、読まなければならない本の山の僅かな断片しか吸収することができない。とりわけ、今なお厳しい状況の続くコロナ禍の現実を考えても、神様は今何をしておられるのだろう。何をお考えなのだろう。私たちに何を計画し、何を求めておられるのだろうか。そんな、すぐには答えの出ない問いばかりが膨らんでは、無力感のような思いが募ります。ですから、そのように大した知恵がある訳でもないのに、どうして平然と牧師として皆さんの前に立つことができるのだろうか。
私は、そのような不安と戸惑いのどん底に陥ることしばしばです。けれども実はそうした時こそ、人間の知恵では究め難いものの前に立たされている私もまた、今日の手紙を書いたパウロと同じように、「神の深みさえも究め」る“霊”の働きを受けることが許された人であることを思い起こし、信じることでここに立つことができます。それが、私がここに立ち続けることのできる、ただ一つの根拠です。そして皆さんにとっても、この真実こそが、生涯を生きぬくための真の希望となるに違いありません。
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いったい私たちは、神の御心、神の御計画をどのように知ることができるのでしょうか。それは私たち自身の力によってではありません。神の霊によって。つまり聖霊によって、と今日の聖書は教えます。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(10節)。
考えてみますと、神の霊が、神の深みを究めるというのは、ある意味で当たり前のことかもしれません。しかしパウロがここで強く語っているのは、この神の深みさえも究める霊が、私たちにも与えられている、ということです。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(12節)。
そしてその間に挟まれている11節は、その神の霊を与えられることなしに、私たちが神のことを知ることはできないのだ。神がお造りになった私たち自身の本当の姿も、知ることはできないのだ。そう語ります。神の霊を受けないままに、神のこと、自分のことを知っている等と言う人があっても、それは信頼することはできない。神の聖なる霊が注がれて初めて、神が分かる。自分が分かる。愛すべき隣人が誰であるかも分かってくるのであります。
さて、いきなり10節以降に飛びましたけれども、実はここまでのことと関連して、今日の最初の6節の言葉が語り始められていたことが分かります。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」。
「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では、知恵を語る」。これは先ほどの、「私たちが、霊を受けて神の深みを知る者となった」ということと、ほとんど同じことを言い換えている表現です。信仰に成熟するとは、自分自身がたくさん勉強して、修練をして、知識や徳をたくさん積むことではない。そうではなく、信仰の成熟とは、まさに神の霊を受けることだ。その霊を受け取った者こそが、そこで神の深みさえも究め、そうした不思議な導きの中で、本当の知恵を語ることもできるのだ、とパウロは言うのです。
実は、ここで「信仰に成熟した人」と訳されている箇所は、元々、「信仰」という言葉は入っていません。原文では単純に「成熟した人」とだけ書かれています。そしてその本来の意味は、「完全な人」と訳されるべき言葉です。成熟とは、完全であること。しかしそれは、どこまでも私たち自身の完全さではなく、神の霊によって満たされた、恵みの充満の姿を意味します。私たちの人間としての成熟は、神の霊をいっぱいに受けることによってこそ知ることのできる成熟です。その成熟を知らされる所で、私たちはまた、本当の知恵をも語ることができるのだと、パウロは言います。
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本当の知恵を語る。この知恵については、既にパウロがこれまで幾度となく問題にしてきたテーマです。その問題意識は色々な言葉で表現されますが、今日与えられた言葉で言いますと、6節後半にこう記されていました。「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」。
パウロが大切にする知恵。それは人間の知恵、この世の知恵ではありません。7節前半には「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵」とあるように、それは「神の知恵」です。私たちは人間の知恵、この世の知恵とは違う、神の知恵を受け取り、理解し、語り合うことができるようになる。それが成熟ということなのです。
こうしてみますと、パウロは決して知恵そのものをまるごと否定したかった訳ではないことが分かります。確かに、信仰の成熟は、人の知恵にはよらない。霊によるものだ。けれども信仰は、知恵を放棄することではないのです。信仰に即した知恵というものがある。信仰に即した本当の知恵を追い求めなければならない。否、むしろ信仰は、私たちに、本当に知恵ある生き方を求めさせ、そして実際に与えるものなのです。
私たちが人間として真に成熟するとは、神の御前で、人間の知恵と神の知恵との違いが分かるようになることだ、と言っても良いでしょう。パウロはこの手紙で、コリントの教会の人々に、本当の意味で成熟した人となることを求めています。人間の知恵と神の知恵の違いを見極めて、神の知恵をこそ求めていく、そういう信仰者、信仰の群れとなることを望んでいるのです。
けれども、神の知恵とは、「隠されていた神秘」(7節)、あるいは「神の秘められた計画」(1節)とも言われるように、これは私たちが自分の力で分かってしまうことのできない知恵であるようです。しかしだからこそ、まさにここに、人間の知恵と神の知恵の根本的な違いがあります。
人間の知恵は、私たちが知ることができ、理解し、自分のものにしてしまうことができるものです。つまり、人間の知恵は私たちが所有することができるもの。所有することができるから、お互いの持っている知恵を比較し合うこともできます。自分の持ち物と人の持ち物を比較するように、自分の知恵と人の知恵とを比べながら、誇ったり、劣等感を抱いたりすることが起こる。そういう優越感や劣等感を生むものは全て、人間の知恵によるものと言えます。
たとえそれが信仰という名で呼ばれていても、もし私たちが、自分のしていることと人のしていることとを比較して、優劣を考えているならば、それは全て人間の知恵による比較なのであって、神の知恵とは言えません。パウロがこの手紙を書いた時、コリントの教会で起こっていたのは、人々がいくつかの党派を結び、それぞれが自分たちの持っている知恵を誇り、互いの優劣を主張して対立していた、ということでした。そのようなことが起っているのは、あなたがたが人間の知恵しか知らず、神の知恵を知らないからだ、あなたがたは、人間の知恵と神の知恵との違いがまだ分かっていない、つまり、本当の意味で成熟していない、満たされていない。だから、人間の知恵と神の知恵の違いを見極めて、神の知恵をこそ求めていく者となってほしい、とパウロは願っているのです。
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私たちの教団の大先輩に竹森満佐一という牧師がいます。その竹森牧師が、かつて今日の箇所について説教された時、特に今問題にしている「隠された神秘としての神の知恵」ということについて、このように語られました。一つ前置きをしますと、竹森牧師はこの説教の中で、現代の我々の信仰には、どうも神秘らしいものがさほどないように見える、と指摘しながら次のように続けました。
「それはまた、われわれの信仰の態度かもしれません。信仰のことも、何でも知りたがって、しかも、知ったつもりになっているのではないでしょうか。どんなことでも知ることができると思っているところがあるのではないかと思います。それは、神に対しても、同じことであります。神についても、どんなことでも知ることができると考え、神に対して畏れを持つということがないのではないかと思います。そのために、神について、何でも知ることの貧しさを知らないのではないかと思います。知ることに満足しているのは、自分を頼みとすることであります。知るべきでないことがあることを知っていないのではないでしょうか。自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる、ということの安心さ、その喜びを知らなくなってしまうのであります。信仰は、自分が知ることではありません。神が、一切を、知っていて下さることであります。人間の知恵には限りがあります。しかし、神の知恵は、永遠であり、絶対であります」。
「神について、何でも知ることの貧しさ」。とても含蓄の深い言葉だと思います。これは、神について、何でも知ってしまうことの「貧しさ」。何でも知ろうとすることの「貧しさ」と言い換えても良いかもしれません。神様について、自分が何でも知ろうとすればする程、実は私たちは貧しくなってしまう、ということです。かえって恵みが分からなくなってしまう。自分の知識や知恵の範囲の中だけの、まことに貧しい神様しか見出すことができなくなってしまうのです。それに対して、「自分は十分に知ることができない。しかし、神がすべてを知っておられる」という信頼にこそ、実は本当の豊かさが、安心が、喜びがあるのではないか。そう教えられます。
神が全てを知っていてくださる。それを知ることが真の知恵であり、神の知恵だ。パウロが伝える「隠された神秘としての神の知恵」の奥義も、そこに通じるものがあります。けれども、それは私たちが今日から視界が閉ざされ、目が見えなくなることではありません。いわゆる「鰯の頭も信心から」のように、やみくもに信じてさえいれば、いつかは救われる、という生き方への勧めではないのです。
「隠された神秘としての神の知恵」。私たちが知ろうとしても知ることができず、決して私たちのものにはならない神の知恵が、しかし、私たちのものとなる出来事が起こったのであります。これを、私たちは忘れてはなりません。それは隠された神の知恵が、見えるものとして歴史上に現れたということ。私たち自身が獲得したり、所有したりできる知恵ではないけれども、私たちの所に、私たちのためにそれが訪れた。キリストが訪れたのであります。
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最後に、共に大切に受けとめたいこの一節に触れたいと思います。「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(8節)。
「この世の支配者」というのは、既に6節で言われた「この世の滅びゆく支配者」を指します。それが具体的に誰であるかは、実は諸説ありますが、今日はそこに立ち入ることは致しません。単純に、ひとまずはポンテオ・ピラトや当時のユダヤ人指導者たちのことを思い浮かべれば良いでしょう。「この世の支配者」であるその彼らが、「栄光の主を十字架につけ」てしまった。
ここで一つ心に留めたいのは、「栄光の主」です。彼らがキリストを十字架につけた時、既にキリストは神の栄光の中にありました。その神の栄光の中にあった主イエス・キリストを、しかし彼らは、十字架につけるなどという実に愚かなことをした。本当にとんでもないことをしてしまった。それがこの世の知恵を誇る支配者たちの姿であったのです。隠された神の知恵がそこで現わされていたのに、彼らの目には、愚かで邪魔なものにしか映らなかった。
しかし私たちは、この悲劇をただ舞台の観客席から眺めるわけにはいかないのです。なぜなら、私たちもまた、主イエスの十字架を素通りしたり、それどころか、主イエスを知らず知らずのうちに、十字架にもう一度、否、何度もつけてしまうような愚かな考え方に取りつかれるからです。そこに私たちの深い罪の闇が現われてくる。
けれども、この十字架につけられたキリストに深く見つめられる時、私たちはただ闇の中で自らの罪を思い知らされ、悔い改めさせられるだけではありません。その罪をキリストによって知らされる時、私たちはもう、そこでその罪から解き放たれているからです。キリストによって赦して頂いている。神の霊が私の中でいっぱいに満ち溢れている。隠された神の知恵が、今や見えるものとして、私の目をそこで新しく開いてくれる。そこに私たちは、自らの人としての成熟を見るのであります。
「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」(9節)。
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