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髪の毛一本残らず数えられて

2024年5月19日 ペンテコステ礼拝説教(いっしょ礼拝・聖霊降臨節第1主日) 
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編139:16~18
新約聖書 マタイによる福音書10:26~31                

皆さんは、自分の髪の毛が何本くらいあるか、知っていますか?数えたことがありますか?試しにほんのひと掴みして数え始めたとしても、数え間違えたり途中から分からなくなったりして、すぐに飽きてしまうでしょう。私も、まだ赤ん坊である息子の髪の毛がちょうど今短く立つようにして生えているので挑戦してみましたが、気が遠くなるような作業で、早々と諦めてしまいました。調べてみましたら、その数、平均して10万本から15万本ほどだそうです。途方に暮れてしまいます。

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:30)。今日与えられた御言葉に、このように記されていました。私たちの髪の毛は、神さまに一本残らず数え上げられている。天から見れば、そもそも人の頭なんて砂粒よりも小さくて数えきれないはずなのに、そんな私たちの頭のさらに髪の毛までも、神さまは、ちゃんと数えて知っていてくださる。凄いと思いませんか? 私はここに、神さまの並々ならぬ集中力を感じます。一本も取りこぼすまいとする強い決意が伝わってきます。そしてそれだけ一人一人を大切に思い、私たちが気づかぬ内からまるで片思いのように一方的な愛情と熱情を上から注ぎ込んでくださる。それはまるで、神の炎のような熱い力とも言えます。


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今朝、私たちはペンテコステを覚えて、共に一つの礼拝を献げています。聖霊降臨日です。先に行われたこどもの教会の幼小科の分級では、「聖霊」を皆で工作しました。聖霊って、見えるのでしょうか。どんな形をしているのでしょうか。聖書では、聖霊について、「炎のような舌」(使徒2:3)と表現しています。そしてまた、別の箇所では「鳩のように目に見える姿」(ルカ3:22)とも言っています。そこで今日の工作では、まず紙皿を切り貼りして鳩を作りました。色鉛筆やマジックも使って色と模様を自由につけ、各々特徴ある鳩ができあがりました。そしてこれを壁に飾るために、吊るし糸をつけるのですが、これは全員赤色で揃えました。赤糸を吊り下げた時、その形がちょうど「舌」のように見立てることができるからです。聖霊の二つのイメージを一つの自然な形に合わせた素敵な作品です。

一方では、炎のように熱く燃える聖霊。それは私たち一人一人に向けられる神さまの計り知れない集中力と決心、情熱を表します。しかしまた聖霊は鳩のように素直で、逆らうことなく、自由に舞います。一箇所に留まることなく、御心を運んで世界中を吹き渡る。誰一人見失うことなく、世界の片隅やどん底に生きる人々にも御心を届け、その人々の命の中を息吹のように駆け巡るのです。



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そのように熱く、また軽やかな聖霊の本当の働きを受けるとき、私たちはどのように変えられ、新たにされるのでしょうか。どんな人生をそこで形造ることになってゆくのでしょうか。

私は今、ある一つの事をとても嬉しく思い、楽しみにしています。私たちの教会の話です。ただし、今からお話する内容は、数週間前の説教で少し触れたことがあるため、お話を聞きながら、あぁあの話か、と思い出される方もいらっしゃるかもしれません。実はそこに登場していた一人の人物とは、私たちの教会の仲間のことです。お名前も含めて、いずれきちんと詳細をお伝えできる日が来るはずですが、しかしそのことに先立って、神さまの計画はもう始まっていると私は確信しています。それを隠す訳にはいかないでしょう。伏せても明るみに出してしまうほどの確かな聖霊の息吹が、熱く、そして軽やかに吹き渡っているからです。

その方は長い間、自分のことがなかなか好きになれなかったと言います。将来何をしたいという夢も希望も特にない。生きる気力や意欲が自分にあるのかどうかも良く分からない。どちらかと言えば、生きるのが辛い。できることなら、このまま明日という日が来なければいいのに…。寝る前、そう願う日々が続いたそうです。明日が来たって、自分には生きる楽しみがないからです。

他方で、教会に行ったら行ったで、周りからは「そろそろ洗礼はどう?」と聞かれることがある。私のことを思って言ってくれていることが分かるから、ありがたいとは思う。でもそう聞かれるのが辛かった。自分の中に答えが見つからないからです。次第に、教会に足を運ぶことも怖くなり、億劫になっていったと言います。

このようにして、その方は自分の思いを正直に話してくれました。ところがつい最近、全く思いがけず、私にこう言って来たのです。「先生、私、洗礼を受けます」。

私はこれを聞いて、嬉しいというより、ただ驚くほかありませんでした。人って、こんなにも変わることができるのだなと。成長というのは、体や心が大きくなったり、何かがより良く分かったり、賢くなったり、できるようになったりする姿を思い浮かべますが、しかし成長過程において、その人自身が大きく、否、その根っこから変わるということほど難しく、また喜ばしいことはないのかもしれません。どんなに願い続け、力ずくで変えようと自他ともに努力したとしても、人はそうは簡単に変わることはできません。しかし、もし変わることが起こり得るとすれば、それは変わらぬ確かな力によってこそ変えられる、ということでしかないと思うのです。

その方は、洗礼の決意に至った理由を、このように話してくれました。「もう、逃げられなくなったから」。しかしまた、次の言葉を添えてくれました。「もう、逃げなくても良いことが分かったから」。

真実の言葉だと思いました。これまで、己の命の虚しさに苦しみ、得体の知れない力に怯えては、宛のない安住を求めて逃げ回るしかなかった人生。けれども、もう逃げられなくなってしまったその状況が、自分をいよいよ崖っぷちに追い詰めるどころか、むしろ、得難き真の平安を与えるものであったことに気づかされていったのです。ここにこそ、自分の居場所がある。神さまの祝福の中でこそ、自分の存在価値が計り直され、自分の本当の姿に出会える。自分で自分の命の価値を計ろうとしていた古い物差しや眼差しが、いかに御心から反れた罪の姿であったか、ということすら明らかにされる。そして今や、神さまによって見出された命こそ、自らが命を懸けて生きるべき命であり、これに勝る喜びは他にないということを、体の全身で確信したのでありました。


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今日与えられたマタイ福音書の言葉の中に、「恐れてはならない」、「恐れるな」という言葉が、最初(26節)と真ん中(28節)と最後(31節)に繰り返されていました。私たちも、同じように呼びかけられているのではないか。今も何かに恐れて生きているからです。私たちはいったい何を恐れて、逃げ回り続けているのでしょうか。確かな安住の地を求めては、いつまでさ迷い続けるのでしょうか。真に畏れるべき方を畏れることなく、日々誰の顔色やご機嫌を伺いながら、苦杯をなめ続けているでしょうか。

そんな私たちに、主イエスは力強く告げます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。……あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(28、30節)。

私たちの髪の毛一本さえ取り違えることなく、正確に数え上げることがおできになる姿に、父なる神の集中と決意と情熱を見ることができると最初に申しました。突き詰めれば、この神の力、霊の働きは、私たち一人一人を、必ず探し出して救い上げてくださる、神の命懸けの愛に他なりません。この愛が、私たちの目を開きます。この愛が、私たちの根深い罪を露わにし、裁き、打ち滅ぼします。神の愛から反れて孤立しさ迷っている時には、ただ眼前に虚しさと絶望しか見えなかったはずだったのが、今は全く違って見えて来る。光が見えないということは、必ずしも光がないこととは違うということが明らかにされるのです。なぜならば、私たちが畏れるべき方を真実に畏れ、そのご支配の中に身を置いて頂く時、もはや「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(26節)からです。


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今朝併せて与えられました詩編(139:16~18)の言葉が、今ここに至って、心に深く染み渡るように響いてきます。


胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

まだその一日も造られないうちから。

あなたの御計らいは

わたしにとっていかに貴いことか。

神よ、いかにそれは数多いことか。

数えようとしても、砂の粒より多く

その果てを極めたと思っても

わたしはなお、あなたの中にいる。


私たちは自分の髪の毛でさえ、まともに数え上げることはできません。ましてや、目に見えない神が、自分に対してしてくださった尊い御計らいは、どれだけ数えきれないものでありましょうか。「数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる」。

この詩は、私たちが、決して神の外側に越え出ることはできない存在だと告白します。神を突き放して、神の外側から「神とは、こうだ」と知り尽くすことなどできない、いと小さき者に過ぎません。神ご自身の中にすっぽりと包み込まれる他はないのです。けれどもその中でこそ、私たちは束縛どころか、真の自由を得させて頂き、自らの存在理由と共にこの命を喜び、そしてこの命を約束してくださった神こそを讃美しながら、歩み出すことができるのです。


<祈り>

天の父よ。私たちの髪の毛一本までも全て知り尽くし、そのようにして愛し抜いてくださる、あなたのただならぬ愛を、私たちは今日も与えて頂いています。目には見えませんけれども、霊の息吹が私たちの目を開き、霊の熱き働きが、私たちの命を燃え立たせます。このあなたのご決断と愛は、全てキリストを通して示されました。どうかあなたの霊の力によって、このキリストを仰がせ、キリストが指し示した父なるあなたの愛を受けさせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。

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