6月21日「神の同労者」 伝道師 金井恭子
- 6月26日
- 読了時間: 8分
イザヤ書52章7節
フィリピの信徒への手紙2章25〜30節
前回の2:19〜24では、パウロがテモテをフィリピの教会に送ろうとしているところを共にお読みしました。彼がテモテを選んだ最大の理由は、テモテがパウロと共に、「息子が父に仕えるように福音に仕える」者であったことでした。テモテが欠点の無い完璧な人物であったからでも、特別に優秀で強い人間であったからでもなく、キリストを第一とする心をもって生きていたからでした。
19節でパウロは、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」という言葉と共にテモテの派遣を予告します。「力づける」の元の言葉は、「慰める」とも訳せます。彼は慰められたかったのです。パウロは福音によって教会を建て、励まし、慰めてきた人でした。そして、獄中にあっても喜び、キリストのために死ぬことは自分にとって利益であるとさえ思っている人でした。その人が、自分自身も教会の側から力づけられ慰められたいのだと素直に述べていることを、私たちは見過ごしてはならないでしょう。これは単にパウロが弱音を吐いているということではありません。しかし、自分の弱さを知っている者であったとも言えるでしょう。一人の信仰者が確かな信仰に生きるということは、自分自身が教会の交わりに結ばれていないと難しいということではないでしょうか。信仰生活とは、ただ一人で孤独に聖書を読み祈るということではなく、交わりにおいてこそ、本当に生かされるのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙1:11-12でこう言っています。
「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いにもっている信仰によって、励まし合いたいのです」
ローマの信徒に会いに行きたい、そこで福音の宣教をしたい。そして更に教会の人々と自分自身の信仰を交わし、励まし合いたい、ということを言っているのです。そしてフィリピの教会に宛てた手紙でも同様に、フィリピの信徒の様子を知り、自分自身も慰められ励まされたいという願いを届けているのです。
ここで、出エジプト記におけるモーセの姿を思い起こします。私たちはつい、「モーセは信仰の勇者だった」と思いがちですですが、神から召されて歴史的にもあれほど大きな働きをしたモーセでさえ、その重責に畏れを抱き、何度も不安やためらいを口にし、「主よ、どうか別の人をお遣わしください」と懇願しています。民数記では、荒れ野の旅で民衆を導くことに疲れ果てて、「わたしひとりでは、この民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます」と神に訴えます。しかし神は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3:12)と約束されます。神の働きは人間の強さや有能さによって始まるのではなく、神が共にいてくださることによって支えられていることがよくわかります。モーセは決して初めから自信に満ちた指導者であったのではなく、「自分にはできません、無理です」と言いながらも、神に押し出されていった人でした。神はモーセのように、自らの弱さを知る者を用いられました。そしてフィリピの信徒への手紙に目を向けるならば、パウロもまた、自分は人々からの励ましを必要としている者であることを隠してはいません。神の働きは、強い人々によってではなく、自分の弱さを知りつつ神に支えられた人々によって担われていくのです。
さて、パウロはテモテを遣わすことを予告してから、25節で「エパフロディトを帰さねばならないと考えています」と言います。そして「あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」と言いますから、彼はフィリピの教会から獄中のパウロを支えるために送り出された使者のようです。しかし、どうやら瀕死の重病にかかったようです。その病とは何だったのか、具体的にはわかりませんが、しきりにフィリピの人々に会いたがってはいるものの、自分の病気が彼らに知られたことを心苦しく思っていることから考えると、未だあまり役に立っていないうちに重病になった可能性が高そうです。エパフロディト本人の心苦しさは相当なものであったことでしょう。教会から遣わされ、パウロを支え福音のために精一杯働こうと思っていたのに、十分にその務めを果たせず教会の期待を裏切ってしまった、パウロに負担をかけてしまった。瀕死の重病にかかり、心細さを感じつつ、自分の不甲斐なさを嘆き悲しんだことでしょう。
命を取り留めたから、これから仕切り直して大いに役立ってもらおうというのではなく、パウロができるだけ急いでフィリピに帰らせようとしているのには、何か理由があったのでしょう。パウロにとって、彼の存在が重荷であったというよりも、エパフロディトが自らの病を心苦しく思い、またフィリピの教会の人々も彼を案じていることを、深く気遣っているようです。このような状況で彼を迎えるフィリピの教会のことを人間的な思いで想像しますと、重病で命を落とすことなく帰ってくるエパフロディトの身の上を喜び労う人々もいるでしょうけれども、その一方で、せっかく獄中にあるパウロを支えるために送ったのに、大して役に立たないまま帰ってくる彼のことを非難する人が出てくるのではないかと想像します。
しかしパウロは、エパフロディトのことを「兄弟、協力者、戦友」と称し、病気が治ったことを「神は彼を憐んでくださいました」と表現し、神は自分をも憐んで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださったと言うのです。彼は、この一人の奉仕者の病と快復の出来事に、神の憐れみを言い表しています。役に立たない使者、などという捉え方をせず、それどころか29節では「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして彼のような人々を敬いなさい」とまで言い、30節では「彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」と言います。
パウロはなぜ、エパフロディトのことをここまで念入りに手紙に書いたのでしょうか。それは、彼をフィリピの教会が正しく迎えるためであったと言えます。ただ「病気になって志しを果たせず帰ってきた人」ではなく、「キリストの業に命をかけた人」として迎えて欲しかったのです。
信仰の歩みにおいて、私たちはしばしば目に見える結果によって物事や人を評価してしまいがちです。目立つ働きをした人、結果を導いた人、迷惑をかけず役に立った人を評価し、自分もそうありたいと願ったりしてはいないでしょうか。
パウロの眼差しは違います。エパフロディトは病に倒れ、死ぬほどの目に遭い、教会から託された使命を十分に果たせぬままフィリピに帰ろうとしています。けれどもパウロは、その人を「失敗した奉仕者」とは見ませんでした。神の働きは、いつも成果を出せる人だけによって担われるのではありません。弱さを抱え、倒れることがあり、心細くなり、時には人の助けを必要とする者もまた、神の働きの中に置かれています。なぜなら、教会はキリストの体であり、私たちはそのキリストに結ばれて、互いに仕え合う者とされているからです。そして私たちは、キリストの体の中で隣人を受け入れ、祈り合い、苦しみや悲しみを担い合うのです。そのことによって初めて、福音は前進するのです。
神学校の授業の雑談の中でお聞きした話しを、今でも時々思い出します。ある一人暮らしの高齢の方が亡くなられ、先生がお部屋に入った時、大量のノートが残されており、そこには多くの方々のお名前と祈りの内容が記されていたそうです。その方は、自由の効かないご体調になってからも「自分には、まだできることが残されている!」とおっしゃり、兄弟姉妹のために毎日熱心に祈られていたそうです。私はその方とお会いしたこともお部屋を見たこともないのに、その記録ノートが大量に残された部屋の光景が鮮やかに脳裏に浮かび、胸を突かれる思いがしたことを覚えています。
神の同労者とは、自分の力で神の仕事を成し遂げる人ではありません。神が既に始めておられる救いの御業に招かれ、弱さを抱えたまま主に仕える人のことです。私たちは一人で立っているのではありません。主が共にいてくださり、また主にある兄弟姉妹が共にいてくれる……その交わりの中で私たちは慰められ励まされて歩むことができるのです。主がご自分の働きの中に招いてくださるがままに、私たちも神の同労者として歩んでまいりましょう。
恵み深い天の父なる神さま。
今日私たちは、エパフロディトの姿を通して、主の教会に仕えることの尊さを学びました。私たちはつい、目に見えることで価値をはかろうとしたり、自分の弱さを恥じたりします。けれどもあなたは、その御業のために弱き者を召してくださるお方です。
病の中にあってもなお憐れみを注いでくださる主よ、弱さを覚える者を顧み、心と体に必要な支えをお与えください。また互いを大切にし、祈り合い、喜び合い、感謝を持って歩むことのできる教会へと成長させてください。
私たちのまことの助け主である主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
