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2月1日「主イエスはブドウの木」

  • 2月26日
  • 読了時間: 8分

『申命記』24:21~22  

『ヨハネ福音書』15:1~10 

 

祈ります。

天の父、主イエス・キリストにつながっているということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。

 

私は真のぶどうの木、私の父は農夫である。聖書のは色々な植物が出て来ます。木や花、あるい木の実、穀類。植物のお好きな方なら「聖書の植物」というテーマで聖書を楽しんで読めるでしょう。主イエスを待ってザアカイが登った木は、いちじく桑。(ルカ19:4)主がエルサレムに入城された時皆が打ち振って迎えた葉の木は、ナツメヤシ。(ヨハネ12:13)主がエルサレム入城の時に乗る子ろばを用意するようにお語りになった所のある山の名が、オリーブ畑。(ルカ19:29)可憐な花の咲くアーモンドの木も、現れます(コヘレト12:5)。名前からは想像もつかないアビヨナという木もあります(コヘレト12:5)。[あめんどう]

色々な木がありましたのに、主は、私はぶどうの木ですと仰いました。何故<ぶどう>なのでしょうか。答えてみませんか。何故<ぶどうの木>なのでしょうか。

晩餐の席にいるヨハネ、トマス達にはそれがよく分かりました。聖書の言葉に生かされていた弟子達には、ぶどうの木が意味することがとてもよく分かりました。ぶどうの木というものが弟子達にとっては、掛け替えのない、神の恵みを教えてくれる木でした。それは豊かな恵みです。ぶどう、と聞いただけで、神がどんなに多くの恵みを与えて下さったかを確かめることが出来たのです。ぶどうの木は、イスラエルを表すものです。大きな恵みを受けたイスラエルがぶどうの木なのでした。

奴隷の地エジプトから解放され約束の土地、良い土地に導かれました。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き地下水が溢れる土地、・・・ぶどうが実る土地でした(申命記8:7~8)。エジプトからの解放を下さり、そして約束の土地へと導き上ってくれた神の祝福を示すものであるのです。

同じことを詩編の方も賛美しています。あなたはぶどうの木をエジプトから移し、これを植えられました(詩編80:9)。主が導き上った土地に、イスラエルがそこで生きていけるように植えられたのです。根を張って生きていけるように植えられたのです。

終わりの日に、人はそれぞれ自分のぶどうの木に座り、脅かすものは何もないと万軍の主が語られた、とミカは預言しています(ミカ4:4)。ぶどうの木の下に座るとは、脅かすものが何もないということです。神に守られて、神の平和の内に生きる幸いを与えられるのです。何も恐れなくていい、主において常に喜んでいいのです。それをぶどうの木は示しているのです。

イスラエルがそのように神の恵みを表すぶどうの木だと知っている弟子達は、今、本当は主イエスこそ真のぶどうの木だと告げ示されたのです。

 

真のと言われています。偽りのぶどうの木があることを予測します。偽りではなく、真のと言われています。

 

神に植えて頂いたイスラエルは、植えて下さった神の御心に応えて行くべきでした。神の期待に適う生き方を創るべきでした。神の戒めと掟と法を守るという事で応えていくべきでした。この神の期待されることが何であるか、申命記10:12~13にはっきりと示されています。イスラエルよ。今、主があなたに求めておられることは何か。唯、あなたの神、主を畏れてその全ての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。 

 

イスラエルは何を期待されているのか。多くの言葉がありますが、基本的には二つです。神の道を守る・主の戒めと掟を守る、これは主の御言葉を守る生き方をすること。主を愛する・主に仕える、これは主を礼拝する生き方をすること。

 

しかしイスラエルは、この神の期待に応えませんでした。繰り返し、繰り返し、神の御言葉を破りました。偽りのぶどうの木になってしまいました。その罪を問われ、厳しい裁きを受けることになりました。預言者アモスはそれを告げます。イスラエルの人々よ、それゆえ、私はお前たちを全ての罪の故に罰する(アモス3:1~2)。

 

神の期待に応えられず、使命を果たせなかった偽りのぶどうの木に対して、救い主として来られた主イエスこそ真のぶどうの木だと言われたのです。

5節に、主イエスがぶどうの木で、あなた方はその枝である、と言われています。4節で、私につながっていなさいとお命じになっていますのに、既に主の枝であると言われる。主の御言葉を聴く私達は、既に主の枝であるのです。私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている、と言われている通りにです。

このつながっているという言葉は、精確に表すと、引き続きつながっている、となるのです。

 

私達は既に主の枝とされているのです。枝が木の幹から水分を受けて生き、伸び、葉を生み出し、花をさかせ、実を実らせるように、枝である私達は木の幹である主イエスから、命を受けて生かされ、支えられ、守られ、愛と恵みと赦しを受けているのです。そこから賛美の歌という美しい花を咲かせ、礼拝という美味しい実を実らせているのです。

 

枝である私達に、主イエスにつながっていなさいと言われます。既に枝であるのですから、それはつながり続けなさいということになります。

10節までに、つながっているという言葉が何度も言われます。日本語では「つながっている」「うちにある」「留まる」となっています。元の言葉は、基本的に同じと言えます。10節の中に、13回使われています。第4節には、多く4回も使われています。大事なんですね、主はその大切さを覚えさせるように、繰り返されたのです。

では、主イエスにつながっている、とはどういうことか。何をしたらいいのか。どうしたら、主イエスにつながっていると覚えることになるのか。

 

枝という言葉をパウロの手紙に見つけることは出来ませんか。教会は主キリストの体であると教えているところです。その、教会が主キリストの御体ならば、私達各自はその御体の肢(えだ)です、とも教えているのです。あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(Ⅰコリント12:27)。部分という言葉は、体に対する部分ですから、手足と訳すとよく対応します。教会が主の体、教会員各自はその手足、その方が分かり易い。手足のことを四肢、四つの肢(えだ)と言います。私につながっていなさいとは、体に手足がつながっている様に、教会につながっているという事です。皆さんは、いつ、教会につながっているという実感を分かり易く、確かに覚えますか。教会総会の時名前を呼ばれますね。人数の確認ですが、しかし、あの名前を呼ばれる事、返事をすることの意味は深い。主キリストの召命を受けることを覚悟する返事なのです。自分は、この主の体なる教会の肢(えだ)であると強く覚える時なのです。

もう一つ。牧師任職式の時です。式の中で教会員は立ちます。そして、「あなた方が招聘したこの敬愛する教師は、今あなた方の牧師として主から遣わされました。心から感謝して、この教師を受け入れる覚悟がありますか。」と問われますね。「私達は神と教会との前で謹んで約束致します」と皆、各自自分の声で約束します。あの約束をする時、自分は、この主の体なる教会の肢(えだ)であると強く覚えるのです。

分かり易い例を挙げた丈です。礼拝を初め、主の手足となってお仕えするのですから、いつでもどこでも私達は主の肢(えだ)なのです。

 

イザヤ書に、ブドウ畑の歌が歌われています。そこに、私の愛する者は、良いぶどうを植えた、という言葉があります(イザヤ5:2)。良いを正確に訳すと、赤いとなります。赤ぶどうの木を植えたのです。赤ぶどうですからその果汁は赤い。赤い果汁だから、流れる血を表すことがあるのです。赤いぶどう酒は、最後の晩餐での杯を意味します。「これは、多くの人の為に流される私の血、契約の血である。」(マルコ14:24)ぶどうは私達の罪を赦す主の、新しい契約の血を表すのです。そのぶどうの木につながっているとは、主の杯から飲むことです。聖餐に与ることなのです。

 

私はぶどうの木あなた方はその枝であるとの主の御言葉の言い換えがあります。主はぶどうの木、私達はその枝、ということは言い換えるとこうだとお示し下さっています。3節です。「私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている。」主の御言葉を聴くと、それによって、清くされていると言われています。

清くなっているとはどういうことか。主はどういうことを仰っているのか。思い込みをしては的外れになり得る。清くなっているという言葉は2節でも使われています。豊かに実を結ぶように清めると言ってもいいのです。枝を清めるのですから、剪定し、実を結ぶようにするということです。ぶどうの木につながっているとは、御言葉を聴いて手入れをされることです。信仰の実を結ぶようにされていることに気付くことです。

天の父、教会の肢(えだ)であること、聖餐に与ること、御言葉を聴くことによって信仰の実を結ぶようにされていることを心から受け止め、救い主キリストにつながっている者とならせて下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

 
 
 

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