2月15日「この世の罪」
- 2月26日
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『詩編』69:5
『ヨハネ福音書』15:18~27
祈ります。
天の父、この世が主を憎んだという御言葉の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
今読まれた御言葉は26節で段落が変わっていることからも分かるように、二つの内容が告げられています。18節から25節までには、この世における弟子達の宿命が伝えられています。弟子とは、この世でどの様に見られるのか。どの様に理解されるのか。どの様に評価されたり、理解されるのか。主の弟子達はこの世でどういう見方で見られるのか。主イエスが居なくなった後、弟子達がこの世でどの様に生きていくかという事が問題となっているのです。
後半の26節から27節までには、この世で弟子達が果たす大切な働きとそれを約束する聖霊なる神が与えられることが告げられています。
世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい(18)。この世はこの後で、弟子達を憎むことになるけれども、世は先ず私を憎みました、それをよく覚えておきなさいと命じられています。憎まれても、気落ちしなくていい、救いから離れなくていいという主のご配慮を感じます。私も憎まれたのですから、と言うのです。
弟子達に与えられた新しい掟は互いに愛し合うことでした。あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい、そう教えられたばかりです(13:34)。愛し合う弟子の群れになる、それが内側で、互いに作りあげていく群れになることが掟と言われる程に重要な要素なのです。主の弟子達とは何ですか。互いに愛し合う群れのことです。互いに愛し合うことが、強い弟子達の群れを作りあげていくのです。
これはそのまま弟子達の信仰を受け継ぐ主の教会の説明にもなることは誰でも分かることです。教会とは何ですか。互いに愛し合う群れのことです。唯愛し合えばいいのではない、それだと正しくない愛し方、それて外れてしまう愛し方に成りかねない。主が教えて下さる愛し方で愛し合うのです。互いに愛し合うことが、強い教会を作りあげていくのです。
愛し合う弟子達が、いざこの世に向かう時、世があなた方を憎むという事が起こると言われるのです。
弟子達が向かい、相対する世とは何か。世界旅行の世界ではない。主イエスを憎んだ世、やがて弟子達をも憎むことになる世とはどんな世か。ラザロの復活を知らされたファリサイ派の人々が、この日から、彼らはイエスを殺そうと企んだとあります(ヨハネ11:53)。別のところでは、イエスを捕らえようとした、とあります。イエスを石で殺そうとした、とも書かれています(ヨハネ10:31)。憎むことの行きつく先は殺意です、この殺そうとするまで主イエスを憎んだという事です。逮捕しようとしたり、殺そうとしたり、石で殺そうとしたりしたとは、主イエスに敵対した人達がいました。そういう人は、福音書では色々現れてきます。群衆、ユダヤ人達、役人達、ファリサイ派、祭司長達、大祭司、律法学者達です。そういう色々現れる敵対者の総称、全体を世と言うのです。
敵対者の総称、全体と言いましたが、もう少し奥まったものまで表すことはないでしょうか。敵対する人達の背後に働くもっと大きな力を指すことと言えます。荒れ野の誘惑の時、マタイでは悪魔と言われ、マルコではサタンと言われた者です。創世記ではアダムとエバを誘惑した蛇。正しい人ヨブを苦しめたサタン。ヨハネの手紙に書かれている主御父と御子を認めない反キリスト。代表して悪魔と言っておきます。その悪魔が世を表していて、まさしく世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたと主は言われるのです。
それにしても聖書に憎しみという言葉を見つけると聖書に似合わないとつい感じてしまいます。憎む、という言葉には、強い憎しみではなく、「選ばない、退ける、軽く見る」という使い方もあります。主の説教の中にこういうものがあります。「父、母、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない(ルカ14:26)」家族や自分の命を憎む、とはそれを第一とは選ばない、それを第一の重さをもってみない、ということです。
しかしここではその憎しみよりはもっと強い憎しみとなりうるものです。神の御言葉を守らせないようにした蛇の思いのような憎しみ。誘惑をして救い主の生涯を始めさせないようにした悪魔の思いのような憎しみ。
それは私達教会には世の罪として立ちはだかります。一方で教会の歴史は、福音の拡大という祝福の歴史です。しかし、世が教会を憎むと言っていい迫害の歴史でもあります。
憎しみの顕れである迫害や敵対、に対してその前に私を憎んでいたことを覚えなさいと言われています。主が、先ず世の憎しみを受けていたことを覚えよというのです。主キリストはこの世に対してどう立ち向かわれたのか。世の憎しみを受けて、それでどうなさったのか。世が憎んだのだから、主もまた憎しみ返したのか。世の憎しみよりもっと強い憎しみを与えて、鬱憤を晴らし、留飲を下げてすっきりされたのか。
違う、それは罪人がすること。
罪人は、愛を裏切られた時、憎しみに変えてしまいます。愛と憎しみの出来事、愛憎劇が繰り返される理由です。憎しみに変わってしまうような初めの愛は、そもそも愛だったのか。答えてみて下さい。注いだ愛が届かない、受け入れられない、愛情で返してもらえない、愛を裏切られた時、愛は憎しみに変わってしまうのか。このことに関しては私達はもう決定的な御言葉を聴いています。愛は決して滅びない(Ⅰコリント13:8)。愛は何があっても愛であり続ける、この主キリストの愛に結びついて、互いに愛し合う生き方を命じられたばかりです。
世の憎しみを受けて、それでどうなさったのか。主は世の為に祈りを捧げられたのです。憎まれて、そして、祝福を祈られたのです。憎しみを受けて、祈りを返されたのです。17章21節(203頁)全ての人を一つにして下さい。彼等も私達の内にいるようにいるようにして下さい。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります。世が信仰を持つことが出来ます様にと祈られるのです。世から憎しみを受けて、世に信仰を返されるのです。
世が信仰を持つことが出来ます様にと祈るのです。世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさいとの教えの意味なのです。憎しみを受けて、祈りを返された主のことを、16章33節では「私は既に世に勝っている。」と言われています。世の憎しみに勝利しているということです。私達が信仰に生きるように祈りを捧げて下さることによって、勝利されているのです。
そして、その世に対する主キリストの勝利に加えられて生きる私達教会が「世の光」として立つのです。
天の父、この世に対して私達教会はどの様に向き合い、相対したらいいのでしょうか。憎しみを受けて祈りと愛をお返しになられた主を信じ、そういう主に従い倣う者とさせて下さい。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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