5月17日 「キリストのへりくだり」 伝道師 金井恭子
- 5月23日
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詩編53編1〜6節
フィリピの信徒への手紙2章1〜11節
「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という、既に受けている恵みに応答して生きるように、という勧めとともに、その土台となるのはキリストの十字架であることをパウロは示します。そして、彼は宣教のための一致を何度も呼びかけていますが、今日の聖書箇所でも再び、思いを一つにして一致するように呼びかけています。なぜ、このように繰り返し勧めるのか。それは、この時代にキリスト者になるということは、外部からの攻撃や迫害を受けることが多く、殉教の覚悟すら必要だったからでしょう。攻撃や迫害に屈することなく生きていくためには、教会内での一致が最も重要であったと考えられます。
パウロのフィリピの信徒たちへの手紙は、獄中で書いているにもかかわらず喜びと感謝に満ちた、深い親愛の情が溢れる内容です。フィリピの教会では、教会全体を揺るがすような大問題が起こっているという記事は見当たらず、むしろ、熱心さと奉仕において喜ばしい教会であったように見受けますが、どうやら微かな不協和音も存在したようです。パウロにとっては、小さな分裂の気配は、見過ごすことのできない重大な事柄でした。それは信徒の交わりを破壊する出来事に発展することさえあるからです。 「一致」というものが実に困難なことであることを、私たちも学校で、職場で、そして教会で、何度も経験しているのではないでしょうか。2節に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」とありますが、様々な年齢、価値観、背景を持つ者が集う教会で、それを実現するのは至難の業でありましょう。私たちがキリストに救われた者同士として相応しく生きるには、どうすればいいのか。そのことをパウロはこの手紙で伝えています。 私たちは「一致しなければならない」「一つにならなければならない」と聞くと、どこか息苦しさを覚えます。それは、「一致」というものが私たちの能力や忍耐に委ねられているかのように感じてしまうからでしょう。しかしパウロは、私たちがすでに恵みの中に置かれていることを前提に語ります。教会の一致や交わりは、この恵みの土台の上にのみ成り立つものなのです。
3-4節には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とあります。つまり、自分に都合の良いことばかりを考えたり、自分を良く見せようとしたりするのではなく、他の人のことを考えて気配りをしなさいということでしょう。「利己心」の元の言葉は「党派心」と訳すこともできるのですが、同じキリストを信仰しているにもかかわらず、思いを同じくするグループごとに分かれて半目し合うことも避けなければなりません。しかしここで気をつけたいのが、この2節の言葉が、一人一人の個性を抑えることを求め多様性を否定するものではない、ということです。
明らかに意見の相違があったとき、力の強い、あるいは声の大きい人と言い争うことや、自分の発言に責任を持つことに煩わしさを感じたり恐れを感じたりして、簡単に引き下がったことはないでしょうか。自分の意見を押し出さず事を円満におさめることを優先したことはないでしょうか。しかしながら、トラブルを回避するために自分の主張を押し殺し、嫌々周りに合わせて一つの結論に寄せていくことが「一致」なのではありません。画一性だけを求めるのではなく、「キリストにおいて方向づけられた一致を共に模索する」そのところにおいてこそ、主は共にいてくださるのです。
3節に「互いに相手を自分より優れた者と考え」とありますが、これは相手と自分を比較することを前提としていません。「私なんて全然ダメですから」と卑下する必要もないのです。なんだったら、あなた自身が誰から見ても優秀な人であっても、全く構わないのです。あなた自身が社会的に見て相手より立派そうに見えたとしても、あるいはその逆であったとしても、そんなことは主の前にあっては、そして教会においては、全く関係のないことです。そして、「へりくだる」とは、決して自分をダメなものとして扱うことではないのです。例えば自分が大きな挫折や失敗をしてしまって劣等感に陥っている時の惨めな心というのも、謙遜や「へりくだり」ではありません。自分がどうであれ、相手の良さ・優れたところをまっすぐ見つめ、それを尊重し大切にしなさい、と言っているのです。自己否定を求められているのではなく、「自己中心性」から解放された生き方を勧められているのです。自分を中心に置くのではなく、「キリストを中心に置く」
のです。4節の「他人のことにも注意を払い」というのも、他人を観察して粗探しをしろということではありません。「相手の優れた面を尊重し・喜ぶ」視点を大切にするということです。
相手の立場に立って考えてみましょう。そうすると、自分が熟慮して物事を判断するのと同じくらい、相手も心を尽くして物事を考えているのだと思い至ることができ、相手の考えも尊重することができるのではないでしょうか。それができたなら、思いを一つにして、よき交わりと働きができるのではないでしょうか。
ところで、私たちがへりくだりの心を持とうとするとき、人間的な偽物の謙遜をしてしまう可能性があります。つい、他と比べて劣等感で卑屈な心持ちで謙遜したり、あるいは優越感に浸って思い上がった言動をしてしまったりすることはないでしょうか。本当のへりくだりや謙遜は、私たちの努力によって得られるものではないようです。では、どうすればいいのか。それは、主イエスによる救いの恵みを、本当に心から受け止めることができた時に得られるものなのです。
本当の謙遜とへりくだりを忘れそうになった時、私たちはどうすればいいのでしょうか。「主イエスが命をかけて私たちを愛し抜いてくださったこと」を思い起こすのです。
私たちは自分が正しいと思うこと、自分が積み重ねてきた経験や役割に、しがみついてしまうことがあります。それ自体が悪いのではありません。しかし、それに固執することで、他者との交わりが壊れてしまう恐れがあるとき、私たちは立ち止まって考える必要があります。キリストは、ご自分の権利を守ることよりも、神の御心に従う道を選ばれました。キリストの、この「へりくだり」の全ては、神への「従順」からきているに他なりません。それも、私たち人間と同じ姿形でこの世に来てくださったお方の「従順」です。他に類をみない従順です。主イエスのへりくだり……それは私たちが真似できるようなものではありませんが、せめて私たちは、自己中心性を手放し、キリストを中心に置くことに務めた
いと思います。
5節で「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と述べられ、6節から11節まではパウロ自身の言葉ではなく、当時教会で歌われていたと考えられている「キリスト賛歌」が記されています。8節の「それも十字架に至るまで」という言葉だけはパウロが書き加えたものであろうと言われています。多くの学者が研究を重ねているこの賛歌はさまざまな解釈がされていますが、確かに言えることは、この賛歌は全ての舌が「イエス・キリストは主である」と言う告白の言葉である、ということです。イエス・キリストというお方は、6節にあるように、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕(しもべ)の身分になり、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架死に至るまで従順であったお方です。7節にある「自分を無にして」という言葉は、キリストが自己否定されたという意味ではありません。これは、父なる神にすべてを委ねるという姿勢を示しています。評価や栄誉、安心を、自分で確保しようとせず、神に委ねる生き方です。同じ7節で「僕(しもべ)の身分となって」とありますが、「僕(しもべ)」とは、つまり奴隷のことを指します。神の身分であるはずのお方が、ご自分の栄光など見向きもせずに、人となられてこの世に来てくださり、最も低き身分の者となるまでにへりくだられたことで、罪ある人間を救う道へと歩んでくださった。9-10節は、それに対して神がキリストを高く挙げられていることが述べられています。9節の「このため」とは、キリストが父なる神に従順に従われ、十字架の死に向かわれた結果として、と言う意味です。そして今や「イエス・キリストこそ主である」という信仰を言い表す、私たちのこの礼拝へと繋がっています。
私たちは、主イエスの従順を完全に真似ることはできません。十字架の道を自分の力で歩むことはできないのです。しかし、私たちにできることがあります。主に全てをお委ねして、自分を低き者として他者を尊重し、キリストを中心とした歩みを進めることです。「主よ、わたしにはあなたが必要です」と告白し続けることです。教会は、赦された者たちの群れですが、完全にへりくだれる者の集まりではありません。むしろ、へりくだれない自分を知りながら、それでもキリストを仰ぐ者たちの集まりです。へりくだることができない自分に気づいたなら、自分を中心にするのではなくキリストを中心に考えることから始めたいと思います。「キリストの十字架」を今一度思い起こすのです。キリストの十字架によって赦されていることに思いを致し、そこから改めて一歩を踏み出すのです。一致とは、意見が同じになることではなく、同じお方を見つめることです。「イエス・キリストは主である」この告白へと、すべてが導かれています。私たちは、自分の力で一つになるのではありません。十字架に向かわれ、復活され、今も生きておられる主によって、一つにされていくのです。その主を仰ぎつつ、互いを尊重し、愛をもって歩んでまいりましょう。
