6月14日「共に福音に仕える」 伝道師 金井恭子
- 6月26日
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サムエル記上22:12〜15
フィリピの信徒への手紙2:19〜24
フィリピの信徒への手紙の冒頭に、パウロと共にテモテの名前が記されていたことを覚えておられるでしょうか。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督と奉仕者たちへ」とありました。先程お読みました2章19節においてテモテの名前が再び出るまで、すっかり忘れていたかもしれません。
前回までのところで、キリストの福音を宣べ伝えたことによって捕えられ獄中にあるパウロの教えについて読んでまいりました。彼は自分自身が捕えられていても、そしていつ処刑されるかわからない命の危機にありながらも、フィリピの教会の信仰と「福音の前進」を喜び、自分自身を貶めるような勢力さえ、それがキリストを宣べ伝えるものであるなら喜ぶ、と言いました。キリストに救われた者同士として相応しく生きるにはどうすればいいかを語り、キリストに倣って従順でへりくだった生き方をするようにと勧め、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益である」とまで言うパウロの生き方は、常にキリストを中心としていました。
そのパウロの熱意と喜びに満ちた文面から、今日の箇所では自分の用件を伝える手紙らしい内容になっています。19節で「間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」と言っていますが、この「主イエスによって」というその意味について考えたいと思います。
さて、パウロと並べて手紙の冒頭に名前が記されたテモテとは、どのような人物なのでしょうか。聖書にはテモテへの手紙第一と第二がありますし、使徒言行録16章にもその出自に関することが書かれています。テモテへの手紙の冒頭でパウロは、「信仰によるまことの子テモテへ」と書いています。使徒言行録16:1-2では「信者のユダヤの婦人の子で、ギリシア人を父に持つ、テモテという人物がいた。彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」とあります。そして3節には「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである」とあります。パウロ自身もかつて割礼を受けていましたが、大切なのは新しく創造されることであり、割礼の有無が問題ではない、とガラテヤ信徒への手紙6:15でも言っており、ユダヤ人が割礼を受けることは悪くないが救いの条件としてはいけない、と主張しています。ではなぜ敢えてテモテに割礼を授けたのか。
割礼の起源は創世記17章にありますが、パウロの時代のユダヤ人にとって、割礼は単なる宗教儀式ではなく、先祖たちが命懸けで守った信仰のしるしとされていました。彼がテモテに割礼を授けたのは、「テモテの母はユダヤ人なのになぜ?」という疑念を避け、福音が民族の壁・文化の壁を越えるためだったと捉えることができます。ユダヤ人とギリシア人という二つの世界の間に立っていたテモテは、ユダヤ人にも異邦人にも仕えるパウロの働きを支える最適な協力者であったと言えます。
しかし、パウロがテモテを共に伝道するに相応しいとした最大の理由は、別のところにあります。
「死ぬことは利益である」と語るパウロは、死が単なる終わりではなく、この世を去ってキリストと共にいる方が「はるかに望ましい」と言い、完全にキリストと共にある状態へと移されることは利益だと考えています。しかし、フィリピの教会の人々の信仰の前進と喜びのために地上にとどまる意味も理解しています。だから19節で「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテををそちらに遣わすことを、主イエスによって希望します」と言うのです。フィリピの教会の様子を知ることは、キリストの御業を知ることだからです。パウロが獄中にありながらフィリピの人々の信仰を思い起こす度に感謝し、祈る度に喜びに満たされているのは、キリストの日が来るまで善き御業を成し遂げてくださるという確信があるからです。テモテを遣わし、キリストに結ばれて生きる人々の様子を知ることによってパウロは力づけられるのです。
ここで注目したいのは、テモテの派遣がキリストの思いに適うという確信についてです。「わたしと同じ思いを抱いている」ということと、2:22では「テモテが確かな人物」であると述べています。パウロとテモテの関係は、父と息子のような関係でした。けれどもその信頼関係は、テモテがパウロの言いなりになるということでも二人の主義主張が一致しているということでもありません。この二人を結びつけていたのは、息子が父に仕えるように「共に福音に仕える」という関係でした。
22節の「確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり」という言葉を元のギリシャ語で直訳すると「あなたがたは彼の真価を知っている」となります。新改訳聖書では「練られた人物」と訳されています。テモテが実際に福音のために働き、キリストに仕える忠実さや誠実さがすでに証明されているということでしょう。「確かな人物」という訳には、なるほどと頷けます。
他の人は自分のことを追い求めているがテモテほど親身になってフィリピの教会のことを心にかけている者は他にいない、とパウロは言います。実際、フィリピの教会には利己心や虚栄心から宣教する者が存在したのです。彼らは自分の価値を念頭に置き、自己満足感を満たすために信仰生活を送っていたのです。しかしテモテはパウロと同様に、ただキリストだけを追い求めていました。そしてキリストの真の従順とへりくだりに倣いながら福音に生きていたからこそ、パウロは彼を同労者として信頼していたのです。
テモテが確かな人物であったというのは、彼が欠点のない完璧な人間だったということではありません。後に書かれたテモテへの手紙を見ますと、彼はむしろ気が弱く、若さゆえに軽んじられることもあったようです。体も丈夫ではなく、しばしば病気に悩まされていたこともうかがえます。それでもパウロが彼を信頼したのは、彼が並外れて優秀だったからでも、特別に強い人物だったからでもありません。ただキリストを第一とする心を持って生きていたからです。
そのテモテが遣わされ、フィリピの教会の人々がしっかりと信仰に生きていることが知らされるならば、パウロは大きな慰めと励ましを受けることでしょう。獄中にあり自由に動くことのできない身でしたが、テモテが遣わされ、またフィリピの教会からの知らせがパウロのもとへ届けられる。その交わりの中で福音は生きて働いていたのです。
ここには、教会がどのような群れであるかということも示されています。教会とは、優れた人が集まる場所ではありません。互いに欠けや弱さを抱えながらも、キリストによって結ばれた者たちの群れです。そして、その交わりの中心には常にキリストがおられます。
パウロは「自分のことではなく、イエス・キリストのことを追い求めている者」としてテモテを紹介しました。反対に言えば、人は放っておけば自分のことを第一に考えてしまうということでしょう。自分の都合、自分の評価、自分の利益を求めてしまう。しかし福音は、そのような私たちの目を自分自身からキリストへと向けさせます。
私たちはどうでしょうか。信仰生活の中で、自分の弱さや至らなさを覚えることがあります。教会に仕える中でも、自分には十分な力がないと思うことがあります。しかし主が求めておられるのは、私たちの能力や実績ではありません。まずキリストを第一とし、その福音に生きようとする心です。 私たちはそれぞれに異なる賜物を与えられています。年齢も経験も、歩んできた道も違います。しかし私たちは、同じ主イエス・キリストによって結ばれています。そして互いを顧み、互いのために祈り、共に福音に仕えるよう招かれています。パウロとテモテ、そしてフィリピの教会の人々を結びつけていたものは、キリストの福音でした。二千年の時を超えて、私たちもまた、その同じ福音によって結ばれています。一人で信仰生活を送るのではなく、互いのことを心にかけながら、共に福音に仕える群れとして生きています。
私がこの教会に遣わされて約2ヶ月半しか経っていませんが、それでも互いに気遣う姿や、教会を守り整える働きや、お互いの意見に食い違いがあっても、主の御用のために一つとなるよう努める姿を幾つも見てまいりました。そして説教をよく聞いてくださっていることが会話の端々に現れることが、大きな励ましとなっています。私はまだ覚束ない歩みの中にありますが、そのような群れの中に加えられ、御言葉に養われていることを感謝しています。パウロがフィリピの教会を思うたびに喜びと励ましを受けたように、私もまた、キリストに結ばれて生きるこの教会の皆さまの姿を通して励ましを受けています。それは皆さまの姿の中に働いておられる、主の恵みを見せていただいているからです。
テモテがそうであったように、私たちもまた、特別に優れた者だから主に用いられるのではありません。ただキリストを第一とし、その福音に生かされる者として招かれています。主がこの教会をこれからも導いてくださり、私たち一人一人が互いに心をかけ合いながら、共に福音に仕える群れとして歩むことができますように。
天の父なる神さま。
あなたはパウロとテモテ、そしてフィリピの教会の人々を福音によって結び合わせてくださいました。そして今、私たちも同じ福音によって一つの群れとしてくださっていることを感謝いたします。私たちは決して清い者でも、強い者でも、完全な者でもありません。しかしキリストを第一として歩む者として招かれていることを覚えます。
どうか私たちが互いに心をかけ合い、支え合いながら、共に福音に仕える群れとして歩むことができますように。そしてこの教会の歩みの中に主ご自身が生きて働いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
