6月28日 「喜びなさい」 伝道師 金井恭子
- 5 日前
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エレミヤ書9:22-23 フィリピの信徒への手紙3:1−11
「喜びなさい」
フィリピの信徒への手紙で、パウロは何度も繰り返します。しかし、どんな時にも喜ぶことは、簡単なことではありません。私たち地上に生きる者の現実は、悩みや悲しみ、苦しみの中に置かれることが多いからです。「神さま、なぜですか」と問い、嘆き悲しむ経験をしたことがある人も少なくないでしょう。では、これはキリスト者にとっても現実的ではない、遠い次元の言葉なのでしょうか。
そうではない、私たちの喜びというものについて、これまでの礼拝で共に御言葉から聞くことができました。私たちは、良いことばかりが起こること・自分の思うような結果が得られることだけを喜びとするのではないことを知らされています。私たちの人生は、神の御手の中にあります。そして神は、ご自分のご計画の中で、私たちを完成へと導いてくださいます。その確信に生きることが、私たちの喜びなのです。現実を見ないで無理に明るく振る舞うことを求められているのではありません。暗い現実の中にあってもなお、「神が働いておられる」という事実に立つことができる喜びを言っているのです。
キリストが「私のために」十字架の死からよみがえり、世の終わりまで「私と共に」いてくださるという福音がもたらされている。そのところにおいて「すべて神さまにお任せしよう」という安心と喜びへと導かれるのです。地上での歩みの中で絶望する時、何もかも失ってしまったと感じる時、それでも「いつも私と共にいてくださる」お方を私たちは知っています。それが私たちの喜びであります。そしてその喜びは常に真っ直ぐに神さまへと向かう「祈り」に結びつかざるを得ない。だからパウロは「いつも喜び絶えず祈りなさい」と言うのです。
はじめに「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と言って、パウロは警戒することを促します。2節で「あの犬どもに注意しなさい」「よこしまな働き手たちに気をつけなさい」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」と言います。実はこの「注意する」「気をつける」「警戒する」の三つの言葉は、原文では同じ動詞なのです。それを敢えて三つの訳し方をし、その警戒の対象「犬」と「よこしまな働き手」「切り傷」を示していますが、「あの犬ども」とは一体何を指して言っているのでしょうか。
パウロがキリストの宣教ゆえに捕えられ獄中にあることから、キリストの教会を迫害する外部のユダヤ人たちのことを言っているのか?と思いますが、実はキリストを信じた内部のユダヤ人たちのことを指しているのです。彼らは、旧約聖書に書かれている神に選ばれたイスラエルの民であることを誇りとしていました。そして、神の律法に従って割礼を受けた者であるという自負がありました。そのため、割礼を受けていない異邦人キリスト者や神に逆らう人々に対して、当時の言葉で侮蔑的な「犬」呼ばわりしていたのです。そのことを逆手にとって、パウロは、そういうお前たちこそ犬である、と返したのです。そして異邦人キリスト者にも割礼を要求する「よこしまな働き手」である彼らのことを「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言いました。男性の体の一部を傷つける割礼を「切り傷」と言うとは、実に痛烈な表現ですが、原語では割礼を「ペリトメー」切り傷を「カタトメー」と言うことから、語呂合わせ的に表現したのだろうと言われています。
神がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが優れた民族であったからでしょうか。そして彼らだけを救おうとなさったからでしょうか。そうではありません。神の御子が世に与えられ、そのお方の十字架によってすべての人々に赦しと救いが及ぶことは、旧約聖書にも預言されており、ユダヤの民が用いられ、その歴史の中での出来事を通して、私たちへの救いの実現が示されたということなのです。
しかし、ユダヤ人キリスト者は、神に選ばれ救いにあずかった神の民である徴(しるし)として受けた割礼を、救いの根拠としました。そのように、キリストではなく、自分の行いや生まれ、努力や熱心さを頼りにすることを「肉に頼る」とパウロは言います。そして3節で「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と述べます。彼は人間的な要素を救いの根拠としません。しかし4節で「とはいえ、肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」と言います。実はパウロ自身を肉において価値を測るなら、彼らユダヤ人キリスト者に引けを取らない身の上だったのです。5〜6節にあるように、パウロはイスラエルの民に属する名門とされるベニヤミン族の出身で、生まれて8日目に割礼を受けており、生粋のヘブライ人であり、律法を厳格に守るファリサイ派の一員でした。その熱心さにおいて、かつてはキリストの新しい教えが律法遵守の体制をおびやかすと敵視し、教会とキリスト者を激しく迫害していたほどでした。ですから、割礼を救いの根拠としているユダヤ人キリスト者に引けを取らない、当時のユダヤ人から見れば、申し分のない模範的な人物でした。
パウロは今、自分の血筋や割礼、律法を厳格に守ることに救いの根拠があるとは考えていません。そして7〜8節で「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と述べます。パウロの持っていたもの・熱心さは、今やゴミのようなものだと言うのです。
けれども、ここで誤解してはならないことがあります。パウロは自分のこれまでの人生そのものを否定しているのではありません。ユダヤ人として生まれてきたことも、律法を厳格に守ってきたことも、熱心に神への信仰に生きたことも、それ自体が悪かったと言っているのではないのです。問題は、それらを神の前に立つ資格・救いの根拠としていたことでした。自分の正しさ、自分の努力、自分の熱心さによって神に受け入れていただこうとしていた。その考えが、キリストとの出会いによって根底から覆されたのです。
私たちは割礼を受けるかどうかで悩むことはありません。けれども、自分の中に「これだけは神さまに認めてもらえる」と思っているものはないでしょうか。
長い信仰生活でしょうか。
熱心な教会への奉仕でしょうか。
人から褒めてもらえるような生き方でしょうか。
もちろん、それらは神さまから与えられた恵みです。しかし、それらが神の前に立つ資格・救いの根拠ではありません。私たちを救うのは、私たち自身ではありません。キリストなのです。
パウロは9節で「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」について語ります。「義」とは、自分が立派な人間になることではありません。神の前で「あなたはわたしのものだ」と受け入れていただくことです。私たちは、自分がもっと正しくなれば、もっと熱心になれば、もっと信仰深くなれば、神さまに受け入れていただけると思いがちです。しかし福音は、その逆を語ります。キリストが私たちのために十字架に架かり、よみがえってくださったからこそ、神さまは私たちを受け入れてくださるのです。私たちは神に受け入れていただくために善い行いをするのではありません。既に受け入れていただいた者として、感謝して歩むのです。
パウロは牢獄の中にいました。人間的に見れば失ったものの多い、そして伝道の面から見れば停滞を意味する状況でした。しかし、彼はそこに福音の前進を見て、フィリピの教会のことも喜び、感謝するのです。それは「わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさ」があったからです。私たちもこのお方を知っています。私たちのために十字架にかかり、復活してくださり、今も共にいてくださる主です。私たちは自分の正しさを誇る必要はありません。私たちはキリストだけを誇ればいいのです。私たちが喜ぶことができるのは、キリストが私たちを最後まで愛し、共に歩んでくださるからです。だからどのような時にも「主において喜びなさい」という御言葉は、現代を生きる私たちにも語られています。
この主イエス・キリストを見上げながら、この一週間も歩んでまいりましょう。
愛する天のお父さま。
今日も、あなたの御言葉に聞くことができましたことを、感謝いたします。
私たちは知らず知らずのうちに自分の正しさや努力、熱心さを頼りにし、自分の努力であなたの前に立とうとしてしまいます。しかし今、私たちを救うのは私たち自身ではなく、十字架の復活と主イエス・キリストであることを、改めて教えていただきました。
どうか、自分を誇るのではなく、キリストだけを誇る者としてください。どのような歩みの中にも主が共にいてくださることを信じ、「主において喜びなさい」との御言葉に励まされながら、この一週間も歩ませてください。
私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
