7月13日 「迎えて下さる主イエス」
- 教会 松本東
- 7月15日
- 読了時間: 7分
『詩編』27:7~10 『ヨハネ福音書』9:35~41
天の父なる神様 探し出し、見つけ出して、迎えて下さる救い主に出会えます様に。主の御名によって祈ります。アーメン
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(35~36)
目を開けて頂いた方が証言します。主イエスと言う方が目を開けて下さった。神の御許から来られたのでなければ、そういうことは出来ないはずです、と。それを聞いてファリサイ派の人々は、この人を外に追い出したのです。外に追い出すというのは、非常に重い裁きです。22節で「会堂から追い出す」とあるように、これは破門を表す言葉です。それは、社会から追放される事でした。大変恐れられた判定です。7:13に群衆が、ユダヤ人達を恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった、とあります。恐れたのは、追い出される恐れです。9:22では、両親がこう言ったのは、ユダヤ人達を恐れていたからである。とあります。恐れていたのは、会堂から追放されることです。
人はこの社会からの追放にはとても弱いものです。仲間はずれにされ、爪弾きにされることは恐ろしいことです。どの社会に生きる時も、何時の時代にも、それは恐ろしく思うものです。今見た群衆の恐れ、親達の恐れはこれと同じです。
では、この目を開けて頂いた方はそれを恐れたでしょうか。恐れませんでした。群衆もご両親もあれほど恐れたのに、この方は恐れませんでした。ファリサイ派の質問に対する答えに、既にもう恐れていない様子がよく見えています。あなた方もあの方の弟子になりたいのですか、と逆に問い掛けるほどです。(27)あの方が神の許から来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです、とこの方の方が教えようとしています(33)。
そして恐れる必要がなくなる決定的なことが起こります。何が起こるのか。主イエスとの出会いです。ただ、普通の道で出会うというのとは違います。確かに最初の出会いはその普通の出会いに少し近い。イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた、とあります。もっともこれだって普通の出会いなどではないはずです。主イエスの御業がなされるからです。掛けられる言葉が違うので、初めの出会いとは内容の違う出会いとなった、と言う方がいい。
今回は恐れることなどない生き方を生み出す出会い、と言っておきましょう。それは何か。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。主イエスはこの方が追放されたことをお聞きになりました。それでこの方に出会われて、言葉をお掛けになったのです。
この主の出会い方は特別な出会い方です。そして彼に出会うと書かれています。これだとたまたま出会う、ともとれてしまいます。しかしこれは見かけたので、というのではない。会ったので、というのではない。
この出会いを表す言葉は、「見つけ出して会われた」という言葉です。「探し出して会う。」「尋ね当てて会う。」「求めて会う。」という意味です。黙示録3:20に戸を叩いて開かれるのを待たれる主キリストを伝えます。戸を叩かれて、開かれるのを待つ主キリスト、主の方からやってきて出会おうとされる、その心を伝えるのが、そして彼に出会うと、という言葉なのです。
この方は会堂から追い出されたのです。ユダヤの社会から追い出されました。その追い出された方を、主イエスはご自分の世界に迎え入れるのです。旧約の詩編27編10節を朗読しました。父母(ちちはは)が私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せて下さる。と歌っています。私を一番強く愛してくれる親が、もし見捨てるようなことがあっても、主なる神は迎えて下さる、と歌います。神が引き寄せ、迎えて下さる祝福の確かさを特に強く歌うのです。この讃美の言葉を、私達を探し求め、見つけ出して主御自身との出会いを与えて下さることを讃美する私達の讃美にしましょう。
目を開けて頂いたことが、新しい人の創造の象徴だと言いました。この方の救いのシンボルだと言いました。今から、象徴ではなく、本物が始まります。シンボルではなく実物が始まるのです。いつもの様に主イエスの問い掛けで始まります。「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。イエスは言われた。「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。(35~38)
主イエスはご自分を「人の子」と言われています。母親が未だ幼い子の親切な行いをほめる時「お母さんはとても嬉しい、いいことをしましたね。」と言ったりします。それと少し似ていて、ご自分の役割を明らかにしようとされる呼び方です。人の子という役割を果たしている者を信じますか、と問うのです。
4つの福音書のどれもが「人の子」イエスを告げています。ほとんどが、主がご自分のことを呼ばれる時に使われた名前です。特別な意味があることはすぐ分かります。
私達の日本の社会で「人の子」というのは、人間の弱さや過ちを犯した時に同情や理解を示すように、あの人も人の子だよ、などと言ったりします。
新約聖書の社会に生きる場合には、「人の子」はそういう意味で使われたことは少ししかありません。主イエスがご自分のことを「人の子」と呼ばれる時は、ご自分が救い主であることを表される時です。それを「人の子」と言われたのは、旧約聖書が救い主を「人の子」と言っているからです。その聖書に合わせて、人の子と言われたのです。聖書の約束している救い主だと言われるのです。
旧約のどこにそういう約束があるのでしょうか。ダニエル書7:13がこう告げています。見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、・・・権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。イスラエルは、この真(まこと)の救いという意味の支配をする救い主を「人の子」として覚え、その人の子が来られるのを待ち続けた神の民なのです。
十字架を前にして祈りを捧げられた事を思い出してみます。ゲツセマネの園での祈りです。イエスは苦しみ悶え…汗が血の滴るように地面に落ちた。(Lk.22:44)私達の罪の刑罰がどれ程耐え難いものであるかが、ここでこそ分かる。その私達の罪を全て主は彼に負わせられた、とイザヤが告げています。(Isa.53:6)他でもない私達の罪の刑罰をお受けになる、苦しみの汗を流されている主イエスを私達は見ている。
この苦しむご自分のことを、「人の子」と言われています。弟子達に、十字架のこと・復活のことをお教えになった時です。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、…殺され、三日の後に復活する…と弟子達に教え始められた。マルコ福音書がそう伝えています。(Mk.8:31)
真の救いという支配をされる「人の子」、苦しみを受け私達に救いを与えて下さる「人の子」です。この人の子は目の前にいる。あなたと話している。あなたは人の子を信じるかと問われる。その問に答えて、「主よ、信じます。」と言って跪いたのです。
見つけ出して会われたのはこのためです。目を開けて頂いた方が主イエスに迎え入れられたのは、このためです。信じて、真の救いという支配をされる主イエスに跪いて礼拝を捧げるためです。苦しみを受け私達に救いを与えて下さる、その様な主イエスに跪いて礼拝を捧げるためです。
この主イエスに跪く生き方が私達のこの一週間の過ごし方になります様に。
天の父、私達を探し求め、見つけ出して主御自身との出会いを与えて下さることを強く覚えることが出来ます様に。迎えて下さる主を褒めたたえることが出来ます様に。真の救いという支配をされる救い主、苦しみの汗を滴り流されて、救いを与えて下さる救い主に、跪いて礼拝を捧げる者とならせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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