7月26日 「人知を超える神の平和」 伝道師 金井恭子
- 7月29日
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イザヤ書26:3-4
フィリピの信徒への手紙4:2-9
パウロは二人の女性の名前を挙げてこう言います。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と。
この二人の間に、何らかの不一致があったようです。考え方の違いであったのか、働き方をめぐる意見の対立であったのか、詳しい原因は分かりません。しかし、パウロが二人の名前を知っており、遠く離れた獄中からこのことを書いているのですから、この二人の関係は、教会にとって見過ごすことのできないものとなっていたのでしょう。
当時、キリスト者として生き、福音を宣べ伝えることには、さまざまな困難が伴いました。パウロ自身が今、キリストの福音を宣教したことによって投獄されていることからも、そのことはわかります。ですから、彼が「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」と語るほど、エボディアとシンティケという二人の女性は、福音のために労苦を共にしてくれた、大切な同労者だったのです。そのような二人の間の不協和音を放置すれば、やがて教会の交わり全体を傷つけることにもなりかねないと、パウロは懸念していたのでしょう。
パウロは、どちらか一方だけが悪かったとは言っていません。二人に向かって等しく、「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています。人間が共に生きるところには、違いがあります。教会も例外ではありません。むしろ教会は、年齢も、生まれ育った環境も、性格も、信仰の歩みも異なる者たちが、神によって集められている所です。ですから、意見の対立や行き違いが起こること自体は、不思議なことではありません。私たちのこの教会でも、これまでも意見の対立はあったでしょうし、これから先もそのようなことは起こり得るでしょう。その時私たちは、互いの意見の違いをどのように乗り越えればいいのでしょう。
問題は、違いがあることではなく、その違いの中で私たちの心を何が支配するか、ということです。自分の正しさを守ろうとするあまり、共にキリストの恵みによって生かされていることを忘れてしまったなら、怒りや苛立ち、悲しみ、妬み、自分こそ正しいのだと相手を批判する思いが、いつの間にか私たちの心を占めてしまいます。パウロは、無理に合わせて「同じ意見になりなさい」と言っているのではありません。お互いが自分の思いを絶対のものとすることをやめ、共に主イエス・キリストの前に立つことを勧めているのです。
パウロは既に、5月にご一緒に読みましたこの手紙の2章でも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにする」ようにと勧めていました。そして、その直後に、キリストの歩みを語っていました。神の御子でありながら、ご自分を無にし、僕の姿となり、へりくだって、十字架の死に至るまで従順であられたキリストのことです。私たちが同じ思いになるための中心には、このキリストがおられます。相手よりも自分を低くすることも、自分だけが正しいという思いを手放すことも、私たちは自分の力だけではできません。しかし、私たちのために御自分を無にされたキリストの前に立つとき、そこから解放されるのではないでしょうか。だからパウロはエボディアとシンティケに、「主において」同じ思いを抱きなさい、と言うのです。
そしてパウロは、「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください」と語ります。二人の間に生じた不一致を当事者だけの問題として放置しないように、そしてどちらが正しいかを裁くのではなく、二人が再び共に主にあって進むことができるよう、周囲の者にも支えてほしいと願っているのでしょう。教会とは、一人で信仰を守る場所ではありません。共に苦しみ、支え合い、関係が破れそうになったときには兄弟姉妹が祈りながら間に立つ。そのようにして、共にキリストの体を形づくっていく群れなのです。
パウロはここでも再び言います。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。パウロは牢獄にいます。フィリピの教会には不一致があります。信仰者として生きることへの困難もあります。それでもパウロは、喜びなさいと言います。なぜ喜ぶことができるのでしょうか。
「主はすぐ近くにおられます。」この御言葉が、その根拠です。第一には、主が再び来られる日が近いということを指していると言えるでしょう。しかし、その主を待ち望む私たちにとって、主は遠く離れたお方ではありません。救いを完成してくださる主は必ず来られる、だから今目の前にある困難や悲しみが、永遠に続くのではないのだという確信と希望を持つことができます。
そして、主が今この時も、私たちのすぐ近くにおられるということです。
私たちは、苦しみの中にあるとき、神が遠くにおられるように感じることがあります。祈っても答えが見えないときがあります。自分だけが取り残され、見捨てられたように感じることもあります。しかし、私たちがそう感じるときにも、主は離れておられません。私たちの罪も、苦しみも、耐えられない重荷も引き受けるために、神の御子は御自分を無にして、私たちのところへ来てくださいました。すべてを神の御心のままにお受けになった後にも、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれるほどの苦しみと孤独を味わわれた主イエスが、私たちの最も深い苦しみの中にも、既に来てくださっています。ですから、私たちは一人ではありません。その主が近くにおられるからこそ、パウロは続けて言います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と。これは、悩んではならない、弱音を吐いてはならない、という命令ではありません。自分の力で不安を追い払え、ということでもありません。6節に「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とあるように、思い煩いを心の中に抱え込むのではなく、それを神に打ち明けなさい、と言うのです。
祈りとは、立派な言葉を並べることではありません。自分の心を神に注ぎ出すことです。言葉にならない悲しみも、誰にも言えない苦しみも、抑えきれない怒りも、神は既にご存じです。ですから、隠す必要はありません。整えてから差し出す必要もありません。
この教会でも、水曜日には「祈りの会」があります。御言葉に聞き、賛美し、病や怪我で療養中の人や困難の中にある兄弟姉妹のために、祈りを合わせています。「整った言葉で祈るよりも、何もかもお任せできる父に話しかけるような素朴な祈りでいいから、気負わずに祈ろう」というこの会では、人前で祈るのが苦手だと言っていた人も、素朴で素直な祈りを捧げられています。日頃から多くの兄弟姉妹の消息を気にかけておられる人は、隣人への癒しと慰めを願う祈りを捧げられます。教会のため、牧師や伝道師のため、隣人のため、世界の平和のために祈りを合わせることができる喜びと感謝を味わうひとときです。
パウロは、「感謝を込めて」と語ります。まだ何も解決していないときにも、この祈りを聞いてくださる方がおられることを感謝するのです。私のことを知り、私を見捨てず、必要なものを備えてくださる神がおられる。その信頼の中で、祈り求めるのです。そうすればすべての問題が直ちに消えるとは書かれていません。しかし、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束されています。「守る」という言葉には、兵士が町を守るように見張り、守備するという意味があります。それは、思い煩いが押し寄せ心が奪われそうになるとき、神の平和が私たちの弱った心を取り囲み、守ってくださるということを表しています。
そして、5節にある「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」というように、その平和に守られた者は、少しずつ、他者に対しても広い心を持つことができます。主が近くにおられ、私を赦し、私を支えてくださっている。だからこそ、私たちも他者に対して寛容になり、違いを抱えながらも共に歩むことができるのです。
私たちの心は、何を見つめ、何を繰り返し考えるかによって、大きく左右されます。人の欠点ばかりを見つめていれば、心は不満に満たされます。過去の傷だけを繰り返し思い返していれば、怒りや悲しみに支配されてしまいます。パウロは、無理に現実から目をそらしなさいと言うのではありません。この世界の中に神が与えてくださっている良いもの、美しいもの、愛すべきものを見つけ、それを心に留めなさいと言うのです。私たちの心を、怒りや不満だけに明け渡さないためです。
御言葉とは、聞いて終わるものではありません。日々の生活の中で生きるものです。赦すこと、祈ること、誰かの重荷を担うこと、柔和な言葉を交わすこと。小さな一歩であっても、御言葉に従って歩み始めましょう。その歩みの中にも、平和の神は私たちと共にいてくださいます。神は、遠くから平和を与えてくださるだけではありません。平和の神ご自身が、私たちと共にいてくださいます。
私たちには、意見の違いがあります。思い煩いがあります。祈ってもすぐには解決しない問題があります。それでも、そのただ中に主はおられます。主はすぐ近くにおられます。
私たちのために十字架にかかり、復活された主が、今日も私たちと共におられます。だから私たちは、自分の正しさに固執することをやめ、共に主の前に立ちましょう。思い煩いを抱え込まず、祈りの中で神に打ち明けましょう。私たちは、神の平和に守られながら、主において喜び、互いに支え合って歩んでいくことができるはずなのです。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」
この御言葉に支えられ、平和の神と共に、新しい一週間へと歩み出したいと願います。
恵み深い天のお父さま。
今日も御言葉を通して、私たちに語りかけてくださったことを感謝いたします。
私たちはそれぞれに違う思いを持ち、時には自分の正しさにとらわれ、互いを理解することができない者です。また、先の見えないことを思い煩い、自分の力で乗り越えようとして疲れてしまう愚かな者です。けれども主よ、そのような私たちの近くにあなたはいてくださいます。その恵みを、今一度深く信じる者としてください。 私たちが抱えている不安や悲しみや苦しみも、あなたの御前に差し出して祈ることができますように。どうか、人知を超えるあなたの平和によって私たちの心をお守りください。
互いの違いの中にあっても、共に主イエス・キリストの前に立つ者としてください。私たちの心を怒りや不満だけに明け渡すことなく、あなたが与えてくださっている良きもの、愛すべきものに目を向け、互いに支え合って歩む教会としてください。
この祈り、私たちのために十字架にかかり、復活してくださった主イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン。
