7月5日 「誰も退けない福音」 牧師 伊藤節雄
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『申命記』25:1
『ヨハネ福音書』18:12~14,19~24
祈ります。
天の父、公然と福音を語ったと言われ、何故私を打つのかと抗議されたことの意味をお教え下さい。
主の御名によって祈ります、アーメン。
主イエスを捕らえた一行は、先ず、アンナスのところへ連れて行ったのです(13節)。この時ユダヤの大祭司はカイアファでした。その大祭司の所へ連れて行くのが自然だと思われますが、一行はカイアファの舅の前に連れてきたのです。義理の父親アンナスのところでした。
目の前に連れて来られた主イエスに、このアンナスが尋問します。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねたのです(19節)。大祭司とありますが、正確には元大祭司です。しかし辞めてもなお大きな権力を持っていました。それで、今の大祭司を抑えるようにして先に主イエスを尋問し、裁判の時としているのです。尋問は、弟子は誰で何人いるのか、教えはどんな教えなのか、ということでした。大祭司は尋ねたとありますが、これは単なる質問ではありません。「尋問した」との訳もありますが、それも不十分です。これは、神に背く人を裁く時の問い掛けです。主イエスが、神に背き、神の教えに逆らっていることを断定し、有罪とするための尋問です。
何故、弟子のことを尋問するのでしょう。弟子達の人数や名前を聞き出してどうするのでしょう。お前の弟子達もただでは済まないのだ、と示しているのです。弟子達も又、名前が特定されて、神に背き、神の教えに逆らっていると断定されて有罪とされるのだと言っているのです。主イエスを痛みつけるやりかたです。
この元大祭司アンナスのねらいは何だろうか。主イエスが、神に背き、神の教えに逆らっていることを断定し、有罪とするのがねらいです。弟子達も同じように有罪とするぞ、という脅しがねらいです。ではなぜ、本来の大祭司カイアファに任せず、元大祭司アンナスが尋問し、脅すことまでするのでしょう。訳がありそうです。
アンナスは、息子の内4人と娘婿のカイアファが大祭司の職に就いたのです。そのころローマから大祭司は任命されました。その任命される裏では、大きな金額の賄賂が渡されました。賄賂を渡す代わりに大祭司の職を手にしたのです。賄賂と権力の交換という罪深い歴史がここでも記されていたのです。
莫大な賄賂をアンナスはどのように用意出来たのでしょうか。これは聖書にも出ています。本来大祭司は、エルサレムの神殿で皆の罪の償いの為に犠牲の動物をささげ、祈りをささげる尊い務めに就いていました。
主イエス・キリストの救い主としてのお働きを説明するのに、キリストの三職と言います。救い主のお働きを三つの職務として説明するのです。ハイデルベルク信仰問答ではそれを、「最高の預言者」「唯一の大祭司」「永遠の王」と教えています(問31)。
大祭司というのは、本来は大切な尊い務めなのです。しかしアンナスの時代には、まるで世襲制度の様になり、務めの尊さが失われました。親の財力、権力がそのまま身内に引き継がれてこの務めに就いていったのです。アンナスをこう評価した方がいます、「幸運で成功した人物だが、反面彼ほど広く憎まれた人間もいなかった」(アルフレッド・イーダーシャイム)。莫大な賄賂をアンナスはどのように用意したのか。引き継いだ次の大祭司、またその次の大祭司は同じく莫大な賄賂をどのように用意したのか。そのからくりともいえる仕組みは聖書の書かれていると申しましが、ではそれはどんなからくりだと思いますか。ピンと来た方もいらっしゃるでしょう。
神殿で、罪の償いの為に犠牲の動物が捧げられました。それは多くは鳩だったのです。犠牲の動物は、傷や汚れがあっては認められません。外から持ち込む動物は、検閲する人に失格だと追い返されるのが常でした。だから、神殿の中で、大祭司公認の鳩売りから買うしかなかったのです。
問題は、その価格です。外での鳩の値段と、大祭司公認の鳩売りの鳩の値段が大きく違うのです。現在の日本円に換算できませんでしたが、値段の差は調べられました。それは1:20、20倍の値段になっていたのです。
アンナスを初め、代々の大祭司が莫大な賄賂を用意出来たのはこの鳩売りの鳩の高い値段による利益だったのです。では、その大きな利益を出す鳩売りの腰掛をひっくり返して、売り買いが出来なくされたのはどなたでしたか。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された(マルコ11:15)。その直後に祭司長達が主イエスに激しい敵意を抱き、殺意さえ持つようになったのです。その敵意、殺意を持つ祭司長達の代表として、いま、元大祭司アンナスがイエスに弟子のことや教えについて尋ねたのです。
尋問に対してイエスは答えられた。「私は、世に向かって公然と話した。私はいつも、ユダヤ人が集まる会堂や神殿の境内で教えた。密かに話したことは何もない。」(20節)。世に向かって公然と話されました。山上の説教と呼ばれる主イエスの教えは、群衆に向かってお教えになった(マタイ5:1)。群衆、つまり誰もが何の制限も条件もなく主イエスの教えを聴けたのです。主イエスがイザヤ書61章を朗読されたあと、集まっていた礼拝者達に「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した」と説教されました。聞いていた、皆が主イエスを誉め、その口から出る恵み深い言葉に驚いたのです。(ルカ4:21,22)どの町の会堂でしたか。-お育ちになったナザレの町、でした―。また、主が神殿で説教され、救いの御業をなさったことを多く伝えるのがヨハネ福音書です。例えば、7章では、祭りも既に半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた、とあります(ヨハネ7:14)。仮庵祭に、つまりユダヤの最大の礼拝に集まってきていた大勢が主イエスの教えを聞いたのです。公然と話された、集まった皆に話された、密かに話したことは何もないのです。主イエスの福音の教えは、開かれているのです。世に向かって開かれ届けられているのです。秘密の教えではない、あなたに丈密かに伝えるというものではない。誰も差別しない、誰も退けない福音です。えこひいきもしない福音です。
さて、誰も差別しない、誰も退けない福音と聞いて私達は心温まる思いがします。しかしここにはある注意が要ります。ここに注意できれば、心温められていいと思えます。それは何か。誰も退けない福音と言う時、その「誰も」の中に私達各自が入っていることを確かにすることです。開かれている福音が、この自分にも開かれ届いていることを確かにすることです。信仰とは、その様に、自分に届く救いを確かに受け止めることなのです。誰にも届けられる、そしてこの自分にも届くことを受け入れることです。
福音は、この世を救う救い主を伝えます。群衆が、主イエスの教えを聞いて喜んだのです。しかし大事なのは、福音がこの自分を救うことを聴き取ることです。主イエスの教えを、この自分が聴き取り、受け入れることが大事なのです。
ヨハネ福音書の終わりには復活の主イエスが、ペトロに向かって「あなたは私を愛しているか」と続けて三度も尋ねたことが伝えられています(ヨハネ21:15~17)。繰り返されて悲しくなる程でしたが、ペトロはしっかり答えます。「私はあなたを愛しています。」信仰とは、その様に、自分に届く救いを確かに受け止めることなのです。福音を聴くとは、主イエスの教えを、この自分が聴き取り、受け入れることです。
アンナスの尋問に素直に答えていないということで平手で打たれてしまいました。イエスは答えられた。「何か悪いことを私が言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、何故私を打つのか。」(22~23節)
主は十字架に掛けられる直前に暴力をお受けになりました。ある者は唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけたのです(マルコ14:65)。その時主はされるがままにただ黙っておいででした。その後も、訴えに対して何もお答えになりませんでした。ピラトが不思議に思ったほどに、お答えになりませんでした(マルコ14:5)。イザヤ書が預言したように、人々の罪の贖いの為沈黙する苦難の僕として、何もお答えになりませんでした。
それと比べてみると、ヨハネ福音書の伝える主イエスは、救い主としてのもう一つの救いの御業をなさいます。「私の悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、何故私を打つのか。」(22~23節)暴力にひるまない主イエスが示されています。勿論平手で打ち返すようなことはなさいません。殴り返すこともありません。しかし、力に負けず、正しいことを正しいと言えるということです。必要な時には、力に反論し、抗議し、抵抗し、正すことが大事だと教えて下さっています。
力、権力に対して、恐れから沈黙してしまう者とならないように。諦めから、黙ってしまう生き方をしないように。
あなたを、平手打ちの平手、殴りつける拳のまえで崩れない者とする、と、この主の抗議の御言葉が教えてくれています。この御言葉に支えられて、この一週間を送ります。
天の父、誰にも開かれた福音が、自分にも開かれ、届いていることに気付かせて下さい。暴力に代表される力に負けず、正しいことを正しいと言える者として下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
