9月20日 「魚をとる漁師にしよう」 伝道師 金井恭子
申命記18:15-19
マルコによる福音書1:16-20
主イエスは、ガリラヤで宣教を始められました。先週、私たちは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、主イエスの宣教の第一声を聞きました。本日の聖書箇所は、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。
当時、ガリラヤ湖の周囲には港や船着き場があり、漁業が盛んに営まれていました。考古学的にも、網のおもりや錨、網を繕うための道具などが発見されています。ガリラヤ湖は、単に静かな湖ではなく、漁業を営む人々の生活の場だったのです。
16節で「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。人々が働き、舟が行き交い、魚が水揚げされ、網が繕われていた、その生活のただ中に主イエスがおいでになったのです。そして主イエスは、シモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と言われました。
ここで、この「人間をとる漁師」という言葉について、少し立ち止まってみたいと思います。原文には「とる」という動詞はありません。直訳すれば、「人々の漁師」です。日本語では、魚を捕る漁師というイメージから、「人間をとる漁師」と訳されています。
けれども、ここで大切なのは、主イエスが単に「人を捕まえる者になりなさい」と言われているのではない、ということです。原文に沿って見ると、主イエスは「わたしがあなたがたを、人々の漁師となるようにする」と言われています。
ここでの主語は、「あなたがた」ではありません。「わたし」です。「わたしが、あなたがたを、人々の漁師となるようにする」。これは、私たちの召命について考えるとき、とても大切なことだと思います。主イエスは、「あなたがたには十分な能力がある。だから、その力を用いて人々を導きなさい」と言われたのではありません。まず、「わたしについて来なさい」と言われます。そして、ここで大切なのは、「あなたがたが自分でそういう者になる」ということではなく、「わたしが、あなたがたをそういう者にする」と、主イエスご自身が言われていることです。
「わたしについて来なさい」という主イエスの呼びかけに、「二人はすぐに網を捨てて従った」(18節)とあります。「すぐに」という言葉が印象的です。主イエスの呼びかけを聞いたシモンとアンデレは、網を捨てて主イエスに従いました。彼らは、主イエスに従うことを先延ばしにしませんでした。ここには、主イエスの呼びかけに対する彼らの具体的な応答があります。生活の糧を得るための大切な道具を捨て、即座に従ったのです。
19~20節では、ヤコブとヨハネが登場します。彼らは舟の中で網を繕っていました。そして彼らも、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して主イエスに従ったのです。ここに登場する人々は、何も持っていない人々だったというわけではありません。彼らには仕事があり、家族があり、生活がありました。彼らは、ガリラヤ湖のほとりで、ごく普通に働いていた人たちだったのです。これは、私たちにとって、とても大切なことではないでしょうか。主イエスは、特別な場所で、特別な人を探しておられたのではありません。人々が働いている、その生活のただ中に来られたのです。そして、「わたしについて来なさい」と呼びかけられました。ここには、彼らが特別な理由によって選ばれたとは書かれていません。マルコが私たちに示しているのは、まず何よりも、主イエスが彼らをご覧になり、主イエスが彼らをお呼びになったということです。ここに、私たちがキリスト者として生きることの出発点があります。
私たちが、このように教会で主の御言葉を聞く者となったのは、なぜでしょうか。何か特別に優れていたから主イエスに呼ばれたのでしょうか。信仰が人一倍強かったからでしょうか。聖書をよく知っていたからでしょうか。人格的に立派だったからでしょうか。そうではありません。キリスト者になるということの出発点は、「私が主イエスを見つけた」ということよりも、「主イエスが私を呼んでくださった」というところにあります。もちろん、私たちは主イエスの呼びかけに応えて、主について行きます。けれども、その前に主イエスの呼びかけがあります。「わたしについて来なさい」と、先に主イエスがお呼びになる。そして、その呼びかけを聞いた者が、主について行くのです。
主イエスは、漁師であった彼らに「わたしが、あなたがたを、人々の漁師となるようにする」と言われました。もちろんこれは、私たちが何もしなくてもよい、という意味ではありません。主の召しには、従うという具体的な応答が伴います。しかし、それでもなお、弟子としての歩みの根本にあるのは、彼ら自身の力ではありません。
主が呼んでくださった。 私たちは主について行った。 そして、今も主が私たちを造り続けてくださっている。
この順序を、私たちは忘れてはならないのです。 聖書を読み進めていきますと、この四人が最初から立派な弟子であったわけではないことが分かってきます。彼らは、主イエスの言葉を完全に理解していたわけではありません。主イエスが何をなさろうとしているのか、いつも分かっていたわけでもありません。時には、誰が一番偉いのかと議論します。そして主イエスの十字架を前にすれば、恐れて逃げてしまいます。つまり、マルコによる福音書が描いている弟子たちは、「最初から出来上がっていた信仰者」ではないのです。それなのに、主イエスは彼らをお呼びになりました。そして、そのような彼らを、主イエスはご自分の弟子として歩ませていかれました。ここに、召命の恵みがあります。
主イエスは、完成した人を弟子として呼ばれるのではありません。呼ばれた人を、弟子として歩ませてくださるのです。これは、私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。 私たちは、自分の信仰を見ると、「まだまだだ」と思うことがあります。もっと聖書を知らなければならない。もっと祈らなければならない。もっと信仰深くならなければならない。もっと愛のある人にならなければならない、と考えてしまいます。もちろん、そのように成長していくことは大切です。けれども、私たちが主イエスに従って歩んでいく根拠は、「私は十分に立派なキリスト者になった」というところにはありません。そうではなく、主が私を呼んでくださったというところにあるのです。そして、主について行く私を、主ご自身が弟子として造ってくださるのです。私たちがキリスト者になったのは、自分が人より優れていたからではありません。私たちが主の弟子として歩んでいるのも、自分の力だけによるのではありません。
主は、今も私たちを造り続けてくださっている。この恵みの中に、私たちの信仰があります。「人間をとる漁師」とは、単に漁師だった人が伝道者になるということではありません。彼らは、それまでの自分の生活や経験を全部捨てて、まったく別の人間になった、ということでもありません。主イエスは、彼らが漁師として生きていた、その生活のただ中で彼らを呼ばれました。そして、その彼らを、ご自分について来る者として召されたのです。彼らが自分で自分の人生を完成させるのではなく、主イエスに従いながら、主イエスによって新しくされていく。そこに、この召命の出来事があります。そしてそれは、今ここにいる私たちにもつながっています。
私たちも、それぞれの生活の中で、今日まで歩んできました。仕事を続けてきた人もいるでしょう。家族のために日々を過ごしてきた人もいるでしょう。長い年月の中で、喜びもあれば、思い通りにならないこともあったでしょう。病気や老い、家族との関わりの中で、思い悩んできた人もいるかもしれません。そのような私たちの生活のただ中にも、主イエスは来てくださいます。「わたしについて来なさい」と呼んでくださいます。そして私たちは、十分に立派だから主について行くことができるのではありません。特別な資格があるからでもありません。主が呼んでくださるからです。そして、主について行く私たちを、主ご自身が造ってくださるからです。
私たちの信仰の歩みは、「私はこれだけのことができる」というところから始まるのではありません。「主が私を呼んでくださった」というところから始まります。そして、「主が私を造ってくださる」という信頼の中で歩んでいくのです。 ですから、私たちは、自分自身を見て「私はまだ足りない」と嘆くときにも、主の呼びかけを思い出すことができます。
「わたしについて来なさい。」
主は、完成した私たちを呼ばれるのではありません。主は、呼ばれた私たちと共に歩んでくださり、私たちを主の弟子として造ってくださいます。その主の恵みに信頼して、今日も私たちは、主の後について行くのです。
恵み深い父なる神様。
今日、私たちに、「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださった御言葉を、心に受けとめます。私たちは、まだ十分ではありません。信仰においても、愛においても、足りないところがあります。けれども、完成した者だけを呼ばれるのではなく、呼ばれた者と共に歩み、その者を造ってくださる主であることを覚えます。どうか私たち一人ひとりが、「主が私を呼んでくださった」という恵みに信頼し、今日も主の後について行くことができますように。私たちの日々の生活のただ中で、主の御声に耳を傾け、主に従う者として歩ませてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。 アーメン。
