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10月11日 「いやしと悪霊追放」 伝道師 金井恭子

10月21日
読了時間: 8分

イザヤ書53:4-5

マルコによる福音書1:29-34

  

ガリラヤ湖で四人の漁師を弟子とされた主イエスは、カファルナウムに着いて、安息日の会堂で教え始められました。前回のところで私たちは、主イエスが今までにない権威をもって悪霊を追放されたことを知りました。本日はその続きの29節からですが、冒頭に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」とあります。主イエスと弟子たちは、礼拝を終えて会堂を出ると「すぐに」、最初に弟子となったシモンとアンデレの家に行ったのです。シモンは、のちに主イエスから「ペトロ」と呼ばれるようになった一番弟子です。

ガリラヤ湖で漁をしていたところを、「人間をとる漁師にしよう」と主イエスに言われ、すぐに従った弟子たちは、仕事道具である網をその場に置き、それまでの生活から離れて、主イエスに従い始めました。ところが、彼ら自身はまだ具体的に何の働きもしていないうちに、その家族のいる家へ主イエスと共に行くことになったようです。そのいきさつについては何も語られていませんが、おそらく主イエスの方から、「これからあなた方の家に行こう」と切り出されたのではないかと思います。ペトロは相当戸惑ったのではないでしょうか。家に帰れば、妻や母から「仕事を捨てて、あなたは一体何をしているのか。私たち家族の明日からの生活費は、どうすればいいのか」と問い詰められるでしょうから。

 

最初の弟子となったシモンとアンデレの家には、シモンのしゅうとめがいました。つまり、シモンには妻がいたのです。しゅうとめはこの時、熱を出して寝ていました。人々が彼女のことを話すと、主イエスはそばに行って彼女の手を取って起こされました。すると「熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。他の聖書箇所では、もっと重い病気や、悪霊に関する主イエスの奇跡が書かれています。それなのに、ここでは「熱が去った」という、短い出来事が記されています。なぜマルコは、この出来事をわざわざ記したのでしょうか。そして、全てを捨てて従い始めたばかりの弟子の家に、主イエスが入って行かれたことには、どのような意味があるのでしょうか。

 

31節の「熱は去り、彼女は一同をもてなした」の「もてなす」という元の言葉には、食卓で給仕をしたり、客の世話をしたりするという意味のほかに、「仕える」「奉仕する」という意味があります。そして文法的には、未完了過去の形です。ですから、単に「その時、一度だけもてなした」という、点として見るより、「仕えるようになった」つまり、彼女はその後も主イエスに「仕え続けた」と見ることができます。そして彼女は、奉仕したから癒されたのではありません。まず主イエスが彼女のところへ来られ、そばに行き、手を取って起こされた。その恵みによって熱が去り、起こされた彼女が、今度は人に仕える者となったのです。

「起こす」という元の言葉は、後に「死人を起こす」「復活させる」という意味にも用いられる言葉です。もちろん、この箇所で直接「復活」を意味しているとまで言う必要はありません。しかし、主イエスによって起こされ、再び立ち上がるというこの出来事の中に、主によって新しく立たされた者の姿を見ることはできるでしょう。

彼女は癒されて、ただ元の生活に戻ったのではありません。主イエスに起こされた者として、その場で仕える者となったのです。何をどのようにして仕えたのか、聖書には詳しく記されていませんが、ペトロのしゅうとめの実の娘、つまりペトロの妻については、後にコリントの信徒への手紙一で、ペトロが「信者である妻」を連れて歩いていたことが記されています。そのことから、この家族がこの出来事の後にも主イエスにお仕えし続けたと想像することはできるでしょう。

マルコがここで描いているのは、決して大きな働きではありません。しかし、名前さえ記されていない一人の女性が、癒されて病床から起こされ、その家の中で主イエスに仕える者となった。その小さな姿が、福音書の最初の方に記されていることには、特別な意味があると考えられます。

 

32節で、「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」とあります。ユダヤの暦では、日没によって新しい一日が始まります。つまり、「夕方になって日が沈むと」というのは、安息日が終わり、新しい日が始まったということを表しています。安息日には、どのような働きもしてはならないとされていました。その安息日が終わるのを待って、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を連れて、シモンの家の戸口に集まってきたのです。そして主イエスは、そこに集まった大勢の人々を癒されました。おそらく、それは長い時間に及んだことでしょう。

しかし、その大勢の人々を癒されるより先に、主イエスは戸口の内側に入っておられました。シモンのしゅうとめの癒しです。ここに、この箇所の大切な順序を見ることができると思います。安息日の会堂で教え、新しい権威を示された主イエスは、会堂を出ると弟子の家へ入られました。そして弟子の家で一人の病んでいる女性の手を取って起こされました。その後、その家の戸口に大勢の人々が集まってきて、主イエスの癒しはさらに多くの人々へと広がっていきました。

 

会堂から弟子の家へ。弟子の家から、その戸口へ。そして、その戸口から町の人々へ。

主イエスの働きは、このように広がっていきます。私たちは、主に従うことや福音を伝えることを考えると、どうしても「家の外」に目を向けてしまいがちではないでしょうか。まだ主イエスを知らない人々にどう伝えるか。教会の外へどのようにして福音を広げていくか。それはもちろん大切なことです。しかし、その前に主イエスが入って行かれた場所は、弟子の家でした。教会の会堂のような公の場所や、人々が集まる場所だけではありません。家族がいて、病気になった人がいて、困りごとを抱えている。そのような弟子の生活のただ中へ、主イエスは入って来られたのです。

 

10章で、神の国に入ることの難しさについて主イエスが語られた場面で、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言った時、主イエスは、「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。

主イエスに従うとは、これまでの生活を切り捨てて、まったく別の世界へ行くことではありません。もちろん、主に従うことによって生活が変えられることはあります。しかし主イエスは、私たちが生きてきた場所を捨て去るようにと言われるのではなく、そこにも来てくださるのです。

家庭であれ、仕事であれ、日々の人間関係であれ、私たちが生きている具体的な場所に、主イエスは入って来られます。そして、私たちがそこで抱えている苦しみや痛みに目を留めてくださいます。だからこそ、ここで先ほどご一緒に読みましたイザヤ書の御言葉を思い起こしたいと思います。

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。主イエスの癒しは、単に奇跡の力を示すためのものではありません。そして主イエスは、人間の苦しみの外側に立って、それを眺めておられるお方ではありません。苦しみを抱えている人のところへ近づき、その人に手を伸ばし、その苦しみのただ中に入って来られるお方です。

そしてイザヤは続けて語ります。「彼が傷つけられたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」。マルコによる福音書1章で始まった主イエスの癒しの御業は、やがて主イエスの十字架へと向かっていきます。主イエスが来られたのは、病を癒し、悪霊を追放するためだけではありません。人間を神から引き離している罪と死の力から救うためです。ですから、シモンのしゅうとめの癒しは、小さな出来事のように見えて、実は主イエスの救いの御業全体につながっているのです。

 

主イエスは、私たちの苦しみを担い、私たちのところへ来てくださる。そして、私たちを起こし、もう一度、与えられた生活の中へと立たせてくださる。主イエスによって与えられた新しい命は、日常から離れていく命ではありません。むしろ、もう一度日常へ戻っていく命です。そこで人に仕え、与えられた務めを果たしていく命です。

私たちも同じです。私たちは、日常から離れた特別な場所でだけ信仰を生きるのではありません。家庭であれ、仕事であれ、教会であれ、それぞれに与えられた場所で、主からいただいた恵みを携えて生きていきます。そして、そのような一人ひとりの小さな歩みを通して、主の働きは広がっていくのでしょう。

 

シモンのしゅうとめの小さな物語は、そのような主イエスの恵みを私たちに示していると言えるでしょう。私たちもまた、主によって起こされた者として、それぞれの場所へ戻っていきたいと思います。そしてそこで、主からいただいた恵みを覚えながら、家族のために、教会のために、隣人のために、静かに主に仕えてまいりたいと思います。 

                          

 

恵み深い父なる神さま。

今日、御言葉を通して、私たちのところへ来てくださるあなたを覚えました。私たちの痛みや苦しみに目を留め、私たちの手を取って起こしてくださる主よ、ありがとうございます。どうか私たちも、主によって起こされた者として、それぞれに与えられた日々の生活の中で、家庭や仕事、教会において、静かにあなたに仕えて歩むことができますように。

大きなことを求めるのではなく、今日いただいた恵みを覚えながら生活する、私たちの小さな歩みを通して、あなたの御業が広がっていきますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。                             アーメン。

 
 
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