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礼拝説教集
4月26日 「生きるとは」
フィリピの信徒への手紙:19-26 「生きるとはキリストである。」 この言葉は神秘的で美しく、キリスト者にとっては違和感なく受け止めることができる言葉でありましょう。しかし、21節にあるこの言葉に続く「死ぬことは利益」という言葉には戸惑いを覚えます。すぐには受け入れ難い強い響きを持っているからです。この「利益」の元の言葉は、何かと引き換えに得るものとして商売の場で用いられる「利得」や「儲け」のことを表しますが、パウロは敢えてこの世における現実的な言葉を「死ぬ」ことに当てています。 普通に考えれば、「死」は地上での全てを失うことを意味します。命を失うことによって人との関係性も、この世での働きも、やがて親しい人に残された自分自身に関する記憶さえも失うことを意味します。私たちにとって「死」とは、失うことの象徴であり、恐れの対象でもあります。ですから、死を「利益」と呼ぶパウロの言葉は、私たちの自然な感覚とは大きく異なっています。何かを得るどころか、すべてを失うように見えるところに、どうして利益があるのでしょうか。 その答えは、パウロが見つめている
4月29日
4月19日「福音のために喜ぶ」
フィリピの信徒への手紙1章12節〜18節 先週からフィリピの信徒への手紙をご一緒に読み始めました。パウロは「喜びの書簡」と呼ばれるこの手紙の冒頭から、神さまへの感謝とフィリピの教会のための祈りを記しており、手紙全体に喜びが貫かれています。 しかし実は、この喜びを語っているパウロは、伝道の途中で捕えられ、獄中にある身でした。それなのになぜ、これほどまでに喜びを語ることができるのか。何を喜んでいるのか。それは5〜6節にあるように、フィリピの教会の人々がキリストの信仰を与えられてから今日まで共に福音の中に生き、一人一人が伝道の働きを担ってきたことと、神さまがフィリピの教会で始められた良い業を完成してくださることへの確信からくる喜びです。神さまがすでに働いておられ、今も働いておられる。そして、キリストが再び来られる最後の日まで働いておられるという確信からくる喜びの中にパウロは生きているのです。どんなに苦しいことがあっても、教会が神の御業によって進んでおり、その交わりの中に自分はいるのだという喜びです。 そしてパウロは12節でこう言います。「
4月22日
4月12日 「愛がますます豊かになるように」
フィリピの信徒への手紙1:1-11 詩編138:4-8 本日から共に御言葉に聞きますのは、フィリピの信徒への手紙です。第一週目は、伊藤節雄先生に説教と聖餐式をしていただき、第二週目からは私が連続講解説教として、皆さまと共にパウロの教会理解・喜び・祈り・愛が凝縮されたこのテキストから神さまの御言葉を聞き取っていきたいと願います。 3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とパウロは喜びを語っています。この手紙には、たびたび「喜び」という言葉が出てきます。ですから「喜びの書簡」とも呼ばれています。なぜこんなに喜んでいるのでしょう。パウロにはいったい、どんな喜びの出来事が起こったのでしょうか。 実はパウロが書いたこの手紙は、キリスト教の伝道をしたことによって捕えられ、監禁されている時に書かれたものなのです。獄中での不自由さだけではなく、命の危険にさえ晒されている最中、彼は冒頭で驚くべきことに感謝と喜びの言葉を語っています。それはなぜでしょうか。パウ
4月15日
4月5日 「復活の主イエス」
『詩編』118:22~29 『コリント信徒への手紙』15:1~9 祈ります。 天の父、御子が復活を与えられたことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 パウロという伝道者は大変頭の良い人でした。若い時からとても熱心に学問に励みました。その頃ガマリエルという名の非常に優れたユダヤ教の学者がいました。ユダヤの議会の議員でもある律法学者です。そのガマリエルの下で聖書の勉学にいそしんだのです。パウロ自身がこう言っています、 この都で育ち、ガマリエルの下で先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じ様に熱心に神に仕えていました (使徒22:3)。そういう点からすればパウロは自分の優秀さを拠り所にし、学問教養を誇りにすれば幾らでも出来たのです。 そのパウロが、主キリストとの出会いが与えられて、その主キリストの救いを受けるということになった。パウロには予想もしなかった大きな人生の転換でした。しかもその上、主キリストを宣べ伝えて、伝道していく伝道者として召され立てられていくことになるのです。昔、エレミヤが預言者とされ
4月8日
3月29日「彼らを守って下さいと祈る主イエス」
『詩編』17:6~9 『ヨハネ福音書』17:6~19 祈ります。 天の父、彼等を守って下さいとの主の祈りの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスは十字架に向かおうとしています。私達が今日、受難週に向かうのと同じです。木曜日には洗足聖餐式、金曜日には受難日祈禱会をして主の受難に向かいます。時間の差、場所の違いこそあれ、今私達は、最後の晩餐を受けている弟子達ととてもよく似ています。 では、十字架に向かわれる主のお心を満たしているのはどんなことでしょうか。御自分のことで精一杯でしょうか。他の人のことを考えたり思い遣ったり出来ないことを自分のことで一杯一杯、等といいます。私達にはよくあることです。しかし、十字架に向かわれる時、主のお心は、ご自分のことで一杯一杯でいらしたでしょうか。 今日読みました聖書箇所で一番多く主がおっしゃったのはどんな言葉でしょうか。そこに主のお心があったことが分かります。14節の中で、何と24回も言われています。第11節には3回も言われています。 私は最早世にはいません。 彼らは...
4月8日
3月22日「永遠の命を与える主イエス」
『詩編』121:1~6 『ヨハネ福音書』17:1~5 祈ります。 天の父、あなたを知り、主イエス・キリストを知ることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光をお与え下さい。 天を仰がれる主がいます。 天を仰ぐという時、日本語では、「嘆く、絶望する」ことを表します。「絶好のチャンスを逸して天を仰ぐ」などと使います。しかし、この時天を仰がれる主のお気持ちは、「嘆く、絶望する」こととはまるで違います。 天は神がおられるところを表します。弟子達の求めに応じるように教えられた祈りの教えがあります。主が、祈りの模範として弟子達にお教えになったものです。主の祈りと言われて、礼拝毎に捧げています。祈りを捧げ、届ける方をどの様に呼び掛けると教えて下さいましたか。「 天に居られる私達の父よ 」と教えられたのです(マタイ6:9)。 天という所に神が住んでおられるという意味ではありません。天も大空も神が創造されたものです。天地万物をお造
3月28日
3月15日 「勝利の主イエス」
『詩編』23:1~4 『ヨハネ福音書』16:25~33 祈ります。 天の父、 私を一人きりにする時が来る。いや、既にきている との御言葉の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスの御言葉を覚えることは大事です。お別れの説教を聴きつつも、弟子達は主の御言葉の意味が分からず、 何のことだろう。何を話しておられるのか分からない 、(16:18)と言い合う程に分からないでいるのです。特に主が予告された時には、想像も出来ないほどに、分からないでいるのです。しかしその主の御言葉が自分の身に起きてみると、その意味が分かるようになるのです。いざ実現し本当に予告された通りになった時、主が予告されたことの意味が分かるのです。自分達の救いと深く結び付いていた教えの御言葉であり、信仰へと導く予告の御言葉であったのだと分かるのです。今、意味が分からなくても、主イエスの御言葉を覚えることは大事です。 ペトロの経験からそれを聴いてみましょう。主イエスが捕らわれて裁判にかけられる時、見つからないようにこっそりと裁判の庭に行きました。しか
3月18日
3月8日 「悲しみから喜びへ」
『エレミヤ書』22:10~12 『ヨハネ福音書』16:16~24 祈ります。 天の父、悲しみが喜びに変わるということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 「 しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。 」弟子達は、この主の御言葉が何を伝えているのか分かりませんでした。それで 弟子達は、何のことだろう、と互いに言った のです。主の御言葉の意味が分からないので、顔を見合わすようにして 何のことだろう、と互いに 質問しあったのです。弟子達は、誰も答えられませんでした。 旧約時代、砂漠であるものを見て、イスラエルの皆が「 これは一体何だろう 」と互いに質問し合ったことがありました(出エジプト16:15)。旧約聖書の言葉ではマン・フーと言います。それでこれは マナ と言われるようになりました。新約聖書では マンナ と言われます(ヨハネ6:31)。マナと言ったことは分かりましたが、マナが与えられたことが何を伝えているのか、何を意味しているのかは、誰も答えられませんでした。その
3月12日
3月1日 「真理の霊の働き」
『エゼキエル書』11:17~21 『ヨハネ福音書』16:12~15 祈ります。 天の父、聖霊に導かれ真理を悟るということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 お別れの説教が続いています。質問できないほどにとまどっている弟子達に、主は励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられます。主が居なくなると直ぐに崩れてしまうような弟子にならないように、主がご配慮されるのです。或いは、主がいらっしゃる時よりももっと力強く御言葉の力を感じられるようになると言ってもいいでしょう。少し前に言われました、「 私が去って行くのは、あなた方の為になる。 」(16:7)主が見えるところに居なくなっても、今迄よりももっと幸いな事が起こると約束されたのです。 真理の霊 が送られて届いて、励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられ 言っておきたいことは、まだ沢山あるが、今、あなた方には理解できない。しかしその方、即ち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。 まず、主が伝えておきたいことが 沢山ある...
3月7日
2月22日「苦難と栄光の時予告」
『エゼキエル書』11:17~21 『ヨハネ福音書』16:1~11 祈ります。 天の父、あなた方を躓かせないためということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 これらのことを話したのは、あなた方を躓かせないためである。人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 最後の晩餐は私達の聖餐式の基になりました。だから、時間をさかのぼれば、主イエスの裂かれたパンを主から受け、ぶどう酒の注がれた杯を主から受ける、そんな様子を心の中に思い描くことが出来ます。最後の晩餐の指し示す最も重要な事柄です。 パンとぶどう酒の配餐の後、お別れの説教と呼べる幾つかの教えをお語りになりました。新しい掟は、 互いに愛し合いなさい という言葉でした(13:34)。「 私は道であり、真理であり、命である 」、と宣べ伝えられました(14:6)。 この様な御言葉が続いてきて、「 世があなた方をも迫害する 」と話されたのです(15:20)。世の迫害が、高じて憎しみとなってやってくる、と
2月26日
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