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礼拝説教集
10月4日 「主イエスの代わりに生かされたバラバ」 牧師 伊藤節雄
『イザヤ書』53:3~5 『ヨハネ福音書』18:38~40 祈ります。 天の父 バラバを釈放するように叫ばれたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります。アーメン ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは何を質問したのでしょうか。そもそもこれは質問なのでしょうか。「何ですか」という問い尋ねる言葉もあります。疑問符、クエスチョンマークもあるのです。しかし、先を読んでみるとどうもこれは質問とは言えないようです。第一に、主イエスは返事をなさっていない。こんなに大事だと思える質問にお答えになっていません。第二に、この後ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人達の前に出て来て言った、と続いています。そこには主イエスのお答えを待つ思いが感じられません。「真理とは何か。」と言ったのに、お答えも待たずさっさと振り向いてユダヤ人達の前に出て来ているのです。 主イエスが何もお答えになっていないことから、質問というよりも、質問の形をしたピラトの思いを伝えている言葉だととらえましょう。真理とは一体何だろうかと、ピラトが自分の中で考えて、それが分
10月9日
9月27日 「権威ある新しい教え」 伝道師 金井恭子
申命記18:15-19 マルコによる福音書1:21-28 本日の聖書箇所は、21節の「一行はカファルナウムに着いた」という言葉から始まります。「一行」とは、主イエスと弟子たちのことです。いよいよガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムで、具体的な宣教活動が始まろうとしています。 この町は、エルサレムを中心とする宗教的・政治的世界から見れば、中心から離れた場所でありました。しかし、ガリラヤ湖周辺は単なる辺鄙な田舎町というわけではありませんでした。漁業が盛んで、マグダラやティベリアなどには大きな港もありましたし、魚は単なる自給用ではなく、加工・販売される商品でもあったようです。つまり、多くの漁師が生活する地域であると同時に、経済活動が活発な地域でもあったのです。ですから、大都会ではないが、漁業と交易によって外の世界とつながっている村だったと言えます。 とはいえ、ヨハネによる福音書1:46では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、7:52ではファリサイ派の人々が、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが
10月9日
9月20日 「魚をとる漁師にしよう」 伝道師 金井恭子
申命記18:15-19 マルコによる福音書1:16-20 主イエスは、ガリラヤで宣教を始められました。先週、私たちは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、主イエスの宣教の第一声を聞きました。本日の聖書箇所は、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。 当時、ガリラヤ湖の周囲には港や船着き場があり、漁業が盛んに営まれていました。考古学的にも、網のおもりや錨、網を繕うための道具などが発見されています。ガリラヤ湖は、単に静かな湖ではなく、漁業を営む人々の生活の場だったのです。 16節で「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。人々が働き、舟が行き交い、魚が水揚げされ、網が繕われていた、その生活のただ中に主イエスがおいでになったのです。そして主イエスは、シモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と言われました。 ここで、この「人間をとる漁師」という言葉について、
9月22日
9月13日 「悔い改めて信じなさい」 伝道師 金井恭子
イザヤ書52:7-10 マルコによる福音書1:14-15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節) 主イエスは宣教の初めに、こう語られました。ここで言う「時」とはどういうものなのでしょうか。原文では「カイロス」という言葉が使われている、あることが起こるべき時・意味を帯びた時を指します。単に時間や期間ではなく、歴史が変わるような時別な時がきたことを意味しているのです。「神が定め、備えられてきた時が、今や満たされた」という宣言だと言えます。 この「時」とは、イスラエルの民が長く待ち望んできた「神の救いの時」です。かつて多くの預言者が神に遣わされ、神の救いは必ず来ると語ってきました。そして、その希望を抱いて生き、しかし実現の日を迎えることなく多くの民が死んでいきました。ところが今や、長い長い年月預言者たちを通して告げられてきた約束=「神がご自身の民を顧みて支配し、救ってくださる時」が、イエス・キリストというお方の到来によって始まったということが告げられたのです。神が救いのために定められた歴史的・終末的な「時」が、
9月17日
9月6日 「真の王キリスト」 牧師 伊藤節雄
『士師記』8:22~23 『ヨハネ福音書』18:28~38前半 祈ります。 天の父 ピラトがみ子イエス・キリストに、あなたは王かと問うたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります。アーメン 主イエスの受難の出来事が続いています。そこで、ピラトが彼等のところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った(29節)。どうしてローマの総督官のところに連れて来られたのか。ユダヤの大祭司には、死刑の判決を下せなかったからです。それは、ユダヤを支配していたローマの総督官にしか出来なかったのです。この時の総督官がピラトだったのです。 『使徒信条』を教会の信仰として、告白しています。大切にしてきた信仰告白です。この中で、名前が挙がっているのは、主イエス・キリストを除いて二人です。どなたでしたか。主イエスの母マリアとローマの総督官のピラト、の二人です。 考えてみましょう、行動を共にして主イエス・キリストに従った12弟子の名前がありません。福音書に繰り返し出てくるペトロの名前がないのです。主キリストを世界に証しして教会を建て、多くの手紙
9月9日
8月30日 「荒れ野の誘惑」 伝道師 金井恭子
イザヤ書11章6-10節 マルコによる福音書1章12−13節 先週、私たちは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められたこの書の、「福音」という言葉の意味について知りました。ローマ帝国が支配していたこの時代、「福音」、すなわち「エウアンゲリオン」という言葉は、戦争に勝利したときや皇帝が即位したとき、あるいはその後継者が誕生したときなどに、「良い知らせ」として用いられていました。しかしマルコは、この言葉を用いて、イエス・キリストという真の平和と救いを実現する王が来られたという「良き知らせ」を告げたのです。 このお方は罪のない方であるにもかかわらず、ヨハネが人々に悔い改めのしるしとして授けていた洗礼をお受けになりました。そのとき天が裂け、“霊”が鳩のようにイエスさまの上に降り、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。イエスさまが神の子であり、同時に、神の御心に従って救いの御業を担う主の僕であることが、ここで宣言されたのです。 ところが、その直後の12節には、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に
9月2日
8月23日 「福音が始まる」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:3-11 マルコによる福音書1:1-11 私たちが4月から共に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙は、先週の主日礼拝で最後となりました。その中で、「教会はキリストの体であり、私たちは主にあって一つとされる共同体である」ということを聞いてまいりました。「では、そのキリストとはどのようなお方で、そのお方に従って歩むとはどういうことなのか」ということを、本日からマルコによる福音書から聞いてまいりたいと思います。 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。マルコによる福音書は、その四つの福音書の中で一番最初に書かれたものと考えられています。マタイとルカはそれぞれがマルコの記述を補うなど手を加えたものだとされています。そして、ヨハネもまたマルコの存在を知っていたと推測されます。 マルコとは一体どういう人物だったのか。 伝承によれば、彼は十二弟子の一人であるペトロの伝道旅行に同行していた人物だと言われています。ペトロの手紙一の5章13節には「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言
8月26日
8月16日 「満たしてくださる神」 伝道師 金井恭子
歴代誌上29:10-13 フィリピの信徒への手紙4:15-23 4月からご一緒に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙も、今日で最後となりました。先週読みました4章10節以下から、パウロはフィリピの信徒たちが自分のために送ってくれた贈り物について語っています。けれども、パウロがここで目を向けているのは、贈り物そのものではありません。14節でパウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言います。彼が喜んでいるのは、そこに表されたフィリピの信徒たちの姿です。同じキリストに結ばれ、同じ福音に生き、獄中にあるパウロの苦しみを覚え、その働きを共に担ってくれる兄弟姉妹の姿を「主において」喜んだのでした。 ところが、12節では「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言います。パウロはなぜこのような、この世的には失礼ともとれる言い方をしたのでしょうか。これは、支援を軽んじているわけでも「別に自分は困っていない」という強がりでもありません。神との関係に生きる人生を与えられた自分は、貧しくても豊かでも、そ
8月17日
8月9日 「貧しくても、豊かでも」 伝道師 金井恭子
箴言30章7-9節 フィリピの信徒への手紙4章10-14節 「満たされた人生」と聞くと、どのような人生を思い浮かべるでしょうか。 私たちは、経済的に豊かで健康も与えられ、家族も仕事も順調で大きな心配事がない生活を願います。それはごく自然なことと言えるでしょう。貧しさや破綻した生活を避けて生きていきたいと願いますし、そのために努力もします。しかし、人生は私たちが願う通りに進むわけではありません。満たされる時もあるでしょうけれども、突然持っていたものを失ってしまったり、試練を与えれることがあります。 仕事も失い健康も害し、今日食べるものにも事欠く……そのような中で生きなければならない苦しみは並大抵のものではないでしょう。また、経済的に十分豊かであっても、誰かと比べれば足りない、お金と資産を失うことを恐れたり、お金で買えないものの不足に悩んで心騒がせたりすることもあるでしょう。私たち人間は持っているものだけでは、なかなか満たされないところがあります。 先ほどお読みしました箴言30章8−9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために
8月14日
8月2日 「寒く凍えているペトロ」 牧師 伊藤節雄
『ヨブ記』37:6~13 『ヨハネ福音書』18:15~18,25~27 祈ります。 天の父、ペトロが三度主イエスを知らないと答えたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 捕らえられてしまった主イエスは、元大祭司アンナスの屋敷に連れて行かれました。この後、総督ピラトの所へ連れて行かれます。そして死刑の判決をお受けになる。判決の通り十字架につけられ、息を引き取られ死を迎えます。墓に葬られ、三日目に復活される。 十字架を中心にして、主の復活前までの期間を受難の期間と言えます。福音書が丁寧に書き記して、主の受難に込められた喜びの知らせを何としても伝えたいという強い願いを込めたのです。 主のご受難を丁寧に書き記したと申しました。どの位丁寧に、とお思いですか。勿論、そこに伝えたいと願われている救いの重さを考えれば、ページの多さや文字の多さでは、測りきれません。しかし、福音書の願いの強さが自然にページの多さや文字の多さにあらわれています。ヨハネ福音書の1章から12章迄右手で挟むようにして持ってみて下さい。13章から19章迄
8月14日
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