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礼拝説教集
10月25日 「よろしい。清くなれ」 伝道師 金井恭子
レビ記13:45-46 マルコによる福音書1:40-45 「御心ならば、わたしを清くおできになります」。 私はかつて、この箇所を読むたびに違和感を覚えたものでした。私が10代の頃には、まだ新共同訳聖書は世に出ておらず、新改訳聖書で読んでいました。そこには「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」とありました。主イエスの癒しを求めてやって来る他の人々とは違う、何か遠回しな願い方に、当時の私は非常に違和感を覚えたのです。この人には、そんな余裕などあるはずもないのに、なぜこのような言い方をするのだろうか、と。 けれども後に、この言葉の背後には、神から与えられた律法によって生きてきたユダヤの民の長い歴史と、重い皮膚病ゆえに、その共同体から排除された人の深い絶望があることに気づかされました。 「癒すことがおできになります」ではなく、「清くすることがおできになります」と言っているところに、この人が単に病を患っている人ではなく、「汚れた者」とされてきたことが表れています。先ほどお読みしましたレビ記13章45~46節には、「重い皮膚病にかかっている
7 日前
10月18日 「近づいてくださる主イエス」 伝道師 金井恭子
イザヤ書61:1-3 マルコによる福音書1:35-39 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスはなぜ、まだ暗いうちに起きて、人里離れたところへと行かれたのでしょうか。 会堂で教えられた後、主イエスはペトロの家に行き、熱で寝ていたペトロのしゅうとめを癒やされました。その後、主イエスの噂を聞きつけた人々が、ペトロの家の戸口まで押し寄せたことが記されています。主イエスは、大勢の人々を癒やし悪霊を追い出されました。前日の夕方から、大勢の苦しむ人々に向き合っておられたのです。そして翌朝、まだ夜の明けきらないうちに、人々から離れ、静かな場所へと出ていかれました。そこには、人々の求めや期待からいったん離れ、ただ父なる神に祈られる主イエスのお姿がありました。 しかし、シモンとその仲間が主イエスを見つけ、こう言います。「みんなが捜しています」。昨晩のうちに癒やしてもらえなかった人々が、今日こそは主イエスに願いを聞いてもらおうと、やって来ていたのでしょう。弟子たちもまた、主イエスを待っている
10月21日
10月11日 「いやしと悪霊追放」 伝道師 金井恭子
イザヤ書53:4-5 マルコによる福音書1:29-34 ガリラヤ湖で四人の漁師を弟子とされた主イエスは、カファルナウムに着いて、安息日の会堂で教え始められました。前回のところで私たちは、主イエスが今までにない権威をもって悪霊を追放されたことを知りました。本日はその続きの29節からですが、冒頭に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」とあります。主イエスと弟子たちは、礼拝を終えて会堂を出ると「すぐに」、最初に弟子となったシモンとアンデレの家に行ったのです。シモンは、のちに主イエスから「ペトロ」と呼ばれるようになった一番弟子です。 ガリラヤ湖で漁をしていたところを、「人間をとる漁師にしよう」と主イエスに言われ、すぐに従った弟子たちは、仕事道具である網をその場に置き、それまでの生活から離れて、主イエスに従い始めました。ところが、彼ら自身はまだ具体的に何の働きもしていないうちに、その家族のいる家へ主イエスと共に行くことになったようです。そのいきさつについては何も語られていませんが、おそらく主イエスの方から、「これからあなた方の家に
10月21日
10月4日 「主イエスの代わりに生かされたバラバ」 牧師 伊藤節雄
『イザヤ書』53:3~5 『ヨハネ福音書』18:38~40 祈ります。 天の父 バラバを釈放するように叫ばれたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります。アーメン ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは何を質問したのでしょうか。そもそもこれは質問なのでしょうか。「何ですか」という問い尋ねる言葉もあります。疑問符、クエスチョンマークもあるのです。しかし、先を読んでみるとどうもこれは質問とは言えないようです。第一に、主イエスは返事をなさっていない。こんなに大事だと思える質問にお答えになっていません。第二に、この後ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人達の前に出て来て言った、と続いています。そこには主イエスのお答えを待つ思いが感じられません。「真理とは何か。」と言ったのに、お答えも待たずさっさと振り向いてユダヤ人達の前に出て来ているのです。 主イエスが何もお答えになっていないことから、質問というよりも、質問の形をしたピラトの思いを伝えている言葉だととらえましょう。真理とは一体何だろうかと、ピラトが自分の中で考えて、それが分
10月9日
9月27日 「権威ある新しい教え」 伝道師 金井恭子
申命記18:15-19 マルコによる福音書1:21-28 本日の聖書箇所は、21節の「一行はカファルナウムに着いた」という言葉から始まります。「一行」とは、主イエスと弟子たちのことです。いよいよガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムで、具体的な宣教活動が始まろうとしています。 この町は、エルサレムを中心とする宗教的・政治的世界から見れば、中心から離れた場所でありました。しかし、ガリラヤ湖周辺は単なる辺鄙な田舎町というわけではありませんでした。漁業が盛んで、マグダラやティベリアなどには大きな港もありましたし、魚は単なる自給用ではなく、加工・販売される商品でもあったようです。つまり、多くの漁師が生活する地域であると同時に、経済活動が活発な地域でもあったのです。ですから、大都会ではないが、漁業と交易によって外の世界とつながっている村だったと言えます。 とはいえ、ヨハネによる福音書1:46では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い、7:52ではファリサイ派の人々が、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが
10月9日
9月20日 「魚をとる漁師にしよう」 伝道師 金井恭子
申命記18:15-19 マルコによる福音書1:16-20 主イエスは、ガリラヤで宣教を始められました。先週、私たちは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、主イエスの宣教の第一声を聞きました。本日の聖書箇所は、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。 当時、ガリラヤ湖の周囲には港や船着き場があり、漁業が盛んに営まれていました。考古学的にも、網のおもりや錨、網を繕うための道具などが発見されています。ガリラヤ湖は、単に静かな湖ではなく、漁業を営む人々の生活の場だったのです。 16節で「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった」とあります。人々が働き、舟が行き交い、魚が水揚げされ、網が繕われていた、その生活のただ中に主イエスがおいでになったのです。そして主イエスは、シモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と言われました。 ここで、この「人間をとる漁師」という言葉について、
9月22日
9月13日 「悔い改めて信じなさい」 伝道師 金井恭子
イザヤ書52:7-10 マルコによる福音書1:14-15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節) 主イエスは宣教の初めに、こう語られました。ここで言う「時」とはどういうものなのでしょうか。原文では「カイロス」という言葉が使われている、あることが起こるべき時・意味を帯びた時を指します。単に時間や期間ではなく、歴史が変わるような時別な時がきたことを意味しているのです。「神が定め、備えられてきた時が、今や満たされた」という宣言だと言えます。 この「時」とは、イスラエルの民が長く待ち望んできた「神の救いの時」です。かつて多くの預言者が神に遣わされ、神の救いは必ず来ると語ってきました。そして、その希望を抱いて生き、しかし実現の日を迎えることなく多くの民が死んでいきました。ところが今や、長い長い年月預言者たちを通して告げられてきた約束=「神がご自身の民を顧みて支配し、救ってくださる時」が、イエス・キリストというお方の到来によって始まったということが告げられたのです。神が救いのために定められた歴史的・終末的な「時」が、
9月17日
9月6日 「真の王キリスト」 牧師 伊藤節雄
『士師記』8:22~23 『ヨハネ福音書』18:28~38前半 祈ります。 天の父 ピラトがみ子イエス・キリストに、あなたは王かと問うたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります。アーメン 主イエスの受難の出来事が続いています。そこで、ピラトが彼等のところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った(29節)。どうしてローマの総督官のところに連れて来られたのか。ユダヤの大祭司には、死刑の判決を下せなかったからです。それは、ユダヤを支配していたローマの総督官にしか出来なかったのです。この時の総督官がピラトだったのです。 『使徒信条』を教会の信仰として、告白しています。大切にしてきた信仰告白です。この中で、名前が挙がっているのは、主イエス・キリストを除いて二人です。どなたでしたか。主イエスの母マリアとローマの総督官のピラト、の二人です。 考えてみましょう、行動を共にして主イエス・キリストに従った12弟子の名前がありません。福音書に繰り返し出てくるペトロの名前がないのです。主キリストを世界に証しして教会を建て、多くの手紙
9月9日
8月30日 「荒れ野の誘惑」 伝道師 金井恭子
イザヤ書11章6-10節 マルコによる福音書1章12−13節 先週、私たちは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められたこの書の、「福音」という言葉の意味について知りました。ローマ帝国が支配していたこの時代、「福音」、すなわち「エウアンゲリオン」という言葉は、戦争に勝利したときや皇帝が即位したとき、あるいはその後継者が誕生したときなどに、「良い知らせ」として用いられていました。しかしマルコは、この言葉を用いて、イエス・キリストという真の平和と救いを実現する王が来られたという「良き知らせ」を告げたのです。 このお方は罪のない方であるにもかかわらず、ヨハネが人々に悔い改めのしるしとして授けていた洗礼をお受けになりました。そのとき天が裂け、“霊”が鳩のようにイエスさまの上に降り、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。イエスさまが神の子であり、同時に、神の御心に従って救いの御業を担う主の僕であることが、ここで宣言されたのです。 ところが、その直後の12節には、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に
9月2日
8月23日 「福音が始まる」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:3-11 マルコによる福音書1:1-11 私たちが4月から共に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙は、先週の主日礼拝で最後となりました。その中で、「教会はキリストの体であり、私たちは主にあって一つとされる共同体である」ということを聞いてまいりました。「では、そのキリストとはどのようなお方で、そのお方に従って歩むとはどういうことなのか」ということを、本日からマルコによる福音書から聞いてまいりたいと思います。 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。マルコによる福音書は、その四つの福音書の中で一番最初に書かれたものと考えられています。マタイとルカはそれぞれがマルコの記述を補うなど手を加えたものだとされています。そして、ヨハネもまたマルコの存在を知っていたと推測されます。 マルコとは一体どういう人物だったのか。 伝承によれば、彼は十二弟子の一人であるペトロの伝道旅行に同行していた人物だと言われています。ペトロの手紙一の5章13節には「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言
8月26日
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