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礼拝説教集
9月13日 「悔い改めて信じなさい」 伝道師 金井恭子
イザヤ書52:7-10 マルコによる福音書1:14-15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節) 主イエスは宣教の初めに、こう語られました。ここで言う「時」とはどういうものなのでしょうか。原文では「カイロス」という言葉が使われている、あることが起こるべき時・意味を帯びた時を指します。単に時間や期間ではなく、歴史が変わるような時別な時がきたことを意味しているのです。「神が定め、備えられてきた時が、今や満たされた」という宣言だと言えます。 この「時」とは、イスラエルの民が長く待ち望んできた「神の救いの時」です。かつて多くの預言者が神に遣わされ、神の救いは必ず来ると語ってきました。そして、その希望を抱いて生き、しかし実現の日を迎えることなく多くの民が死んでいきました。ところが今や、長い長い年月預言者たちを通して告げられてきた約束=「神がご自身の民を顧みて支配し、救ってくださる時」が、イエス・キリストというお方の到来によって始まったということが告げられたのです。神が救いのために定められた歴史的・終末的な「時」が、
2 日前
9月6日 「真の王キリスト」 牧師 伊藤節雄
『士師記』8:22~23 『ヨハネ福音書』18:28~38前半 祈ります。 天の父 ピラトがみ子イエス・キリストに、あなたは王かと問うたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります。アーメン 主イエスの受難の出来事が続いています。そこで、ピラトが彼等のところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った(29節)。どうしてローマの総督官のところに連れて来られたのか。ユダヤの大祭司には、死刑の判決を下せなかったからです。それは、ユダヤを支配していたローマの総督官にしか出来なかったのです。この時の総督官がピラトだったのです。 『使徒信条』を教会の信仰として、告白しています。大切にしてきた信仰告白です。この中で、名前が挙がっているのは、主イエス・キリストを除いて二人です。どなたでしたか。主イエスの母マリアとローマの総督官のピラト、の二人です。 考えてみましょう、行動を共にして主イエス・キリストに従った12弟子の名前がありません。福音書に繰り返し出てくるペトロの名前がないのです。主キリストを世界に証しして教会を建て、多くの手紙
9月9日
8月30日 「荒れ野の誘惑」 伝道師 金井恭子
イザヤ書11章6-10節 マルコによる福音書1章12−13節 先週、私たちは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められたこの書の、「福音」という言葉の意味について知りました。ローマ帝国が支配していたこの時代、「福音」、すなわち「エウアンゲリオン」という言葉は、戦争に勝利したときや皇帝が即位したとき、あるいはその後継者が誕生したときなどに、「良い知らせ」として用いられていました。しかしマルコは、この言葉を用いて、イエス・キリストという真の平和と救いを実現する王が来られたという「良き知らせ」を告げたのです。 このお方は罪のない方であるにもかかわらず、ヨハネが人々に悔い改めのしるしとして授けていた洗礼をお受けになりました。そのとき天が裂け、“霊”が鳩のようにイエスさまの上に降り、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。イエスさまが神の子であり、同時に、神の御心に従って救いの御業を担う主の僕であることが、ここで宣言されたのです。 ところが、その直後の12節には、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に
9月2日
8月23日 「福音が始まる」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:3-11 マルコによる福音書1:1-11 私たちが4月から共に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙は、先週の主日礼拝で最後となりました。その中で、「教会はキリストの体であり、私たちは主にあって一つとされる共同体である」ということを聞いてまいりました。「では、そのキリストとはどのようなお方で、そのお方に従って歩むとはどういうことなのか」ということを、本日からマルコによる福音書から聞いてまいりたいと思います。 新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。マルコによる福音書は、その四つの福音書の中で一番最初に書かれたものと考えられています。マタイとルカはそれぞれがマルコの記述を補うなど手を加えたものだとされています。そして、ヨハネもまたマルコの存在を知っていたと推測されます。 マルコとは一体どういう人物だったのか。 伝承によれば、彼は十二弟子の一人であるペトロの伝道旅行に同行していた人物だと言われています。ペトロの手紙一の5章13節には「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言
8月26日
8月16日 「満たしてくださる神」 伝道師 金井恭子
歴代誌上29:10-13 フィリピの信徒への手紙4:15-23 4月からご一緒に読んでまいりましたフィリピの信徒への手紙も、今日で最後となりました。先週読みました4章10節以下から、パウロはフィリピの信徒たちが自分のために送ってくれた贈り物について語っています。けれども、パウロがここで目を向けているのは、贈り物そのものではありません。14節でパウロは「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」と言います。彼が喜んでいるのは、そこに表されたフィリピの信徒たちの姿です。同じキリストに結ばれ、同じ福音に生き、獄中にあるパウロの苦しみを覚え、その働きを共に担ってくれる兄弟姉妹の姿を「主において」喜んだのでした。 ところが、12節では「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」と言います。パウロはなぜこのような、この世的には失礼ともとれる言い方をしたのでしょうか。これは、支援を軽んじているわけでも「別に自分は困っていない」という強がりでもありません。神との関係に生きる人生を与えられた自分は、貧しくても豊かでも、そ
8月17日
8月9日 「貧しくても、豊かでも」 伝道師 金井恭子
箴言30章7-9節 フィリピの信徒への手紙4章10-14節 「満たされた人生」と聞くと、どのような人生を思い浮かべるでしょうか。 私たちは、経済的に豊かで健康も与えられ、家族も仕事も順調で大きな心配事がない生活を願います。それはごく自然なことと言えるでしょう。貧しさや破綻した生活を避けて生きていきたいと願いますし、そのために努力もします。しかし、人生は私たちが願う通りに進むわけではありません。満たされる時もあるでしょうけれども、突然持っていたものを失ってしまったり、試練を与えれることがあります。 仕事も失い健康も害し、今日食べるものにも事欠く……そのような中で生きなければならない苦しみは並大抵のものではないでしょう。また、経済的に十分豊かであっても、誰かと比べれば足りない、お金と資産を失うことを恐れたり、お金で買えないものの不足に悩んで心騒がせたりすることもあるでしょう。私たち人間は持っているものだけでは、なかなか満たされないところがあります。 先ほどお読みしました箴言30章8−9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしたちのために
8月14日
8月2日 「寒く凍えているペトロ」 牧師 伊藤節雄
『ヨブ記』37:6~13 『ヨハネ福音書』18:15~18,25~27 祈ります。 天の父、ペトロが三度主イエスを知らないと答えたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 捕らえられてしまった主イエスは、元大祭司アンナスの屋敷に連れて行かれました。この後、総督ピラトの所へ連れて行かれます。そして死刑の判決をお受けになる。判決の通り十字架につけられ、息を引き取られ死を迎えます。墓に葬られ、三日目に復活される。 十字架を中心にして、主の復活前までの期間を受難の期間と言えます。福音書が丁寧に書き記して、主の受難に込められた喜びの知らせを何としても伝えたいという強い願いを込めたのです。 主のご受難を丁寧に書き記したと申しました。どの位丁寧に、とお思いですか。勿論、そこに伝えたいと願われている救いの重さを考えれば、ページの多さや文字の多さでは、測りきれません。しかし、福音書の願いの強さが自然にページの多さや文字の多さにあらわれています。ヨハネ福音書の1章から12章迄右手で挟むようにして持ってみて下さい。13章から19章迄
8月14日
7月26日 「人知を超える神の平和」 伝道師 金井恭子
イザヤ書26:3-4 フィリピの信徒への手紙4:2-9 パウロは二人の女性の名前を挙げてこう言います。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と。 この二人の間に、何らかの不一致があったようです。考え方の違いであったのか、働き方をめぐる意見の対立であったのか、詳しい原因は分かりません。しかし、パウロが二人の名前を知っており、遠く離れた獄中からこのことを書いているのですから、この二人の関係は、教会にとって見過ごすことのできないものとなっていたのでしょう。 当時、キリスト者として生き、福音を宣べ伝えることには、さまざまな困難が伴いました。パウロ自身が今、キリストの福音を宣教したことによって投獄されていることからも、そのことはわかります。ですから、彼が「福音のためにわたしと共に戦ってくれた」と語るほど、エボディアとシンティケという二人の女性は、福音のために労苦を共にしてくれた、大切な同労者だったのです。そのような二人の間の不協和音を放置すれば、やがて教会の交わり全体を傷つけることにもなりかねないと、
7月29日
7月19日 「天を仰いで、地を歩く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書3:13-18 フィリピの信徒への手紙3:17-4:1 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。 キリストを宣べ伝えることによって投獄され、命の危険にさらされても尚、喜びと確信をもって信仰に生きるパウロは、かつて伝道し教会を建てたフィリピの信徒たちに、このように呼びかけます。 前回ご一緒に読みました16節までの御言葉を思い起こしますと、ここで少し違和感を覚えるかもしれません。パウロは、割礼を受け、律法を厳格に守っている自分こそ完全な者であると主張する人々を「あの犬ども」と呼び、厳しく警戒するように促しました。そして、自分自身については、まだ完全な者となったとは思っていない、すでに目標に到達したとは思っていない、と語っていたはずです。それなのに、ここでは「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言います。何と傲慢なことを言うのだろうか、と思われるかもしれません。 しかしパウロは、自分自身を完全な者と見て自分のような人間になり
7月24日
7月12日「目標を目指して」 伝道師 金井恭子
イザヤ書40:28-31 フィリピの信徒への手紙3:12-16 「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」 広くキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て、キリストのためならば死ぬことも喜ぶ生き方をしたパウロでさえ、「完全な者ではない」と言います。「何とか捕らえようと努めている」とは、いったい何を捕らえようとしているのでしょうか。パウロが捕らえようとしているもの、それは一言で言うなら「キリストご自身を知り、深く結ばれること」と言うことができるでしょう。しかし、パウロは13節で「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」と言います。 原文のギリシャ語の動詞には主語が含まれるのに、ここでは敢えて「わたし自身は」と主語を強調しているのは、意味深です。彼ほど豊かに主に用いられてきた人が、自分が完全ではないことを、ことさらに強調するのはなぜか。当時の教会には、人間の努力や宗教的な実績を誇る人々や「自分はもう十分に成熟した信仰者である」と考える人々がいたのでしょう。おそらく
7月18日
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