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礼拝説教集
1月25日 「主の御言葉がもっとよく分かる」
『詩編』119:105~112 『ヨハネ福音書』14:25~31 祈ります。 天の父、聖霊なる神がお与え下さる恵みである、主の御言葉を思い起こさせて下さる事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスのお別れの説教は、最後の晩餐で語られていると見ることが自然です。 ユダがパン切れを受け取ると出て行った。さて、ユダが出て行くとイエスは言われた。 (13:30~31)このように始めておられ、まだお話しは続くので、長い説教だったことが分かります。 私はあなた方といた時に、これらのことを話した。 今最後の晩餐を共にし、その席で主イエスはお話しされているのです。その席で、今のお話しをされているのです。目の前にいる弟子達に、今のこととして話されているのです。例えば、13章34節です。 あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい 。今この晩餐の席で目の前にいる弟子達に あなた方に新しい掟を与え ますね、よく聞きなさい、 互いに愛し合いなさい 。そう仰ってますね。 所が、25節では今読んだように、今ではなく、以前のこととして
14 時間前
1月18日 「真理の霊」
『詩編』51:12~14 『ヨハネ福音書』14:15~24 祈ります。 天の父、真理の霊、聖霊なる神が弁護者と示されている事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスのお別れの説教が続いています。13章1節では 、イエスは、この世から父の許へ移る御自分の時が来たことを お 悟り になったと言われています。更に、33節では、 私が行く所にあなた達は来ることが出来ない と言われました。 この後復活されて私達は 父の許へ移 られたこと、父なる神の御許にお昇りになるのを見上げることは出来たけれども、 あなた達は来ることが出来ない と言われたとおりになったことを、私達は聖書で知らされています。だから使徒信条で、<天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり>、と信じ告白するのです。 しかし、このお別れの説教を今聴いている弟子達には、今自分達がどういう事態に直面しているのかよく分からないで、混乱し、不安になっているのです。 父の許へ移 られるとはどういうことか分からず混乱しています。 ついて行くことが出来ない...
1月20日
1月11日 「主の御業を受け継ぐ」
『イザヤ書』6:1~7 『ヨハネ福音書』14:8~14 祈ります。 天の父、主を見る、父なる神を見るという事の意味を教えて下さい。もっと大きな業を行うという事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 7節で、 あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている 、と告げられました。しかしそう言われても弟子達は分かりませんでした。父なる神を見ることは起こっていないと思いました。神を見ることは簡単なことではないとも思っていました。そう思った フィリポが「主よ、私達に御父をお示し下さい。そうすれば満足します。 」と願い出るのです。 フィリポや弟子達はユダヤ人でした。ユダヤの人達は、人は神を見ることは出来ない、と固く信じていました。それは最も確かな事でした。昔、モーセに神が大事な仕事に当たらせようとされた時、モーセは言います「 栄光をお示し下さい。 」余りにも大きな働きをモーセはなかなか引き受けられません。イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地へ導き上るという困難な務めは尻込みせざるを得ませんでした。その大きくて困難な務めを目
1月20日
11月23日 「新しい命を生きる」
金井恭子 先生 ルカによる福音書22:31-34 まもなく降誕節を迎えようとしています。私たちはクリスマスの喜びを覚えつつも、主イエスが十字架に向かわれたことを忘れることはできません。救い主の誕生は、十字架の愛に根ざしているからです。 先程お読み頂いた聖書箇所は、14節から語られているように、イエス様と十二人の弟子たちが過越の食事をするために食卓を共に囲んでいるときの出来事です。いわゆる「最後の晩餐」と言われる、このところにおいて、主は「聖餐」を定められました。エルサレムの町に入り、十字架の道へと至る日々を歩まれていたイエス様は、14節で「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」とおっしゃいました。「苦しみを受ける前に」と、もう既にご自分の受難を念頭に置かれているのです。 弟子たちは、と言えば、24節にあるように「自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか」という議論をしています。この先に起こることを知っている私たちから見れば、「こんな時に何を競っているんだ」と呆れるような議論ですが、これに対してイエス様は
1月17日
1月4日 「道、命、真理であり給う主イエス」
『詩編』86:11~13 『ヨハネ福音書』14:1~7 祈ります。 天の父、心を騒がせないこと、私達の為の場所を用意しに行かれるという事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 弟子達はよく分からない不安を覚えています。 私を捜し ても、 私の行く所に来ることが出来ない 、と告げられています。ペトロも「 私の行く所に、今ついてくることが出来ないが、後でついて来ることになる 。」と告げられます。主イエスとお別れする時が来たことは、弟子達にとっては不安でした。主が行かれるところが何処なのか知らされていません。 私の行く所 と繰り返されていますが、どこへ行かれるのかは教えられていません。ついても行けないのですから余計に不安です。そもそも主がどこかへお行きになるというのがどういうことかよくはつかめていないのです。 その時主は言われます。 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私を信じなさい (1)。主イエスとお別れする時がすぐ来ると言われた弟子達は心騒いだのです。「心騒ぐ」とは、強い風が木の枝を引きちぎっていく様子を表す激
1月11日
12月28日 「互いに愛し合う群れとしての教会」
『レビ記』19:13~18 『ヨハネ福音書』13:31~38 祈ります。 天の父、主の 栄光とはどういうことかお教え下さい。新しい掟に従うとはどういうことかお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。 夜は神がお働きになる時です。しかし今ここで告げられている 夜 は、人の罪を表す暗闇です。暗黒の夜です。最後の晩餐の席を離れ、 出て行った のです。何処へ行ったのでしょうか。主イエスに敵対していた祭司長や民の長老達のところへいったのです(マタイ26:47)。何をしに行ったのでしょうか。銀貨30枚で主イエスを売り渡しにいったのです(マタイ27:3)。 いよいよその時が始まったのです。クリスマスの時贈られた贈り物の没薬が予告していたことが始まったのです。亡くなった方の体に塗るのが没薬です。 必ず排斥されて殺され、三日の後に復活する と予告されていたことが始まったのです(マルコ8:31)。主イエスが苦難を受け、十字架にお掛かりになる時が始まったのです。 ユダが出て行くと、イエス
2025年12月31日
12月21日 「降誕」
『イザヤ書』7:10~17 『ルカ福音書』2:1~20 祈ります。 天の父、幼子イエス・キリストのお生まれになったことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた 。生まれた子供のかわいさを表す時、「目に入れても痛くない」と言います。与えられた子供を、嬉しいと喜ぶ表現でもあるでしょう。生まれたばかりの幼子の周りには、喜びがあふれ、心が暖かくされ、希望に輝きます。またそれとは別に不安や戸惑いが生じます。直ぐ始まる責任の重さが重いからです。かわいさに喜び、重い責任を覚悟する、そんなあれこれの思いを親は幼子の前で感じます。 ヨセフとマリアは、どの様に喜び、また責任を担う覚悟をしたでしょうか。 羊飼い達が野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた のです。その時は、夜、でした。誰もかれもが眠っていました。狼に襲われぬよう羊の番をする羊飼い達ぐらいしか起きてはいませんでした。だから、周りを照らした主の栄光の明るさに気付いたのは、他には誰もいませんでした。
2025年12月31日
12月14日 「占星術の学者達を案内する星」
『民数記』24:17 『マタイ福音書』2:7~12 祈ります。 天の父、占星術の学者達の生き方の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 学者達は何時出発したのでしょうか。どの位の距離を旅してきたのでしょうか。学者達の心はどんな思いに満ちていたでしょうか。わくわくしていたでしょうか。聖書はそれを伝えていません。しかし導く 星が幼子のいる場所の上に止まった 時に、 その星を見て喜びにあふれた のです。この喜びを求めて、喜びがあると信じて旅してきたことは間違いありません。 学者達に就いては幾つかの伝説が生まれました。昔のギリシャの教会では、学者達は12人という話が生まれました。また別の伝説では3人となりました。私達の教会の子どもの教会の演じる劇でも博士は3人ですね。3人の博士のお話しは伝えられる間に深められました。こんな具合です。・・・主イエスがお生まれになる前から、そのことに気付いた人達がいた。博士たちは王様でした。だから王の冠をかぶっている。書物を読み、調べると大事なことが分かりました。大きな星が現れて救い主がお生
2025年12月17日
12月7日 「十字架の救いの発端にユダ」
『イザヤ書』53:8~10 『ヨハネ福音書』13:21~30 祈ります。 天の父、主の弟子にユダが居たこと、ユダのとった行いの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 先ず、一つ質問しておきます。イスカリオテのユダをめぐる御言葉を今読みました。その中で主イエスのお気持ちがどんなお気持ちだったのか、想像してみて下さい。 主のお気持ちを直接表すみ言葉は余り多くはありません。勿論あるにはあります。ある安息日、会堂に手の不自由な方が礼拝をささげる人の中にいました。訴える口実を見つけようと様子を窺う者がいました。そこで主が問い掛けます。「 安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか。 」誰も答えない 。そこで、イエスは 怒って 人々を見回し、頑なな心を 悲しまれた 」のです(マルコ3:4~5) ゲッセマネでは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスの悲しみの声を生々しくその耳で聞きます。 彼等に言われた。「私は死ぬばかりに 悲しい 。ここを離れず、目を覚ましていなさい 。」(マルコ14:34)。...
2025年12月13日
11月30日「洗足の拠りどころ」
『イザヤ書』53:1~5 『ヨハネ福音書』13:12~20 祈ります。 天の父、足を洗うことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。 弟子達はこの主の命令の言葉に戸惑いました。互いに足を洗うことはいつも行っていたからです。弟子の仲間には、足を洗う僕がいなかったから、お互いに足を洗い合っていたのです。但し、主イエスの足はいつも弟子達が洗っていました。 その様な時に今回だけは何と主イエスが弟子達の足を洗われたのです。弟子達は驚いたことでしょう。驚いたのはペトロの反応でよく分かります。 「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。 」(13:6)あなたが、という呼び掛けの言葉が強調されています。「思いもしなかったことです、まさかあなたが」洗って下さるのですか、と言っているのです。今迄にも主イエスが弟子達の足を洗われた事があれば、ペトロがこの様に反応すること
2025年12月13日
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