top of page
礼拝説教集
5月31日 「星のように輝く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書12章1〜3節 フィリピの信徒への手紙2章12〜18節 「わたしの愛する人たち」と呼びかけるパウロは、自身が獄中にあるため指導者を失ったフィリピの教会の人々に、なおさら従順であるようにと勧めます。前回、共に読みました1節〜11節でも、キリストのへりくだりと従順について語られました。それは、人間の姿形で現れてへりくだられ、神と等しい者であることに固執しようとせず、ご自分を無にして僕の身分となり、十字架の死に至るまで従順であった「父なる神にすべてを委ねる」生き方でありました。私たちは、キリストの従順を真似ることはできないけれども、全てを主にお委ねして、自分を低き者として他者を尊重し、キリストを中心とした歩みを進めていくことはできる、というお話をしました。 12節の「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」という言葉を見ると、少々緊張感がよぎります。しかし、神が怖いお方であるという意味ではありません。聖なる全能の神であられるお方への敬いと慎みを持ちなさい、ということでしょう。 神学校の学びの中で、新約聖書では「神を信じる」とい
6月6日
5月24日 「聖霊なる神によりキリストの証人とされる」 牧師 伊藤節雄
『レビ記』23:1~3 『使徒言行録』2:1~13 祈ります。 天の父、聖霊降臨日を覚えることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 聖霊降臨日を祝うとは、主の教会の誕生をお祝いすることです。それは、使徒言行録の伝えている聖霊降臨の出来事を、嬉しい喜びの思い出として記念するだけではありません。お祝いする今も、聖霊なる神を新しく受け止めて、神の御言葉を新しく宣べ伝え、新しく聴きとめることへと、聖霊なる神によって押し出されることなのです。 そうすると、毎週の礼拝でいつも聖霊降臨日を祝うことが行われているのだと気付くのです。そのことを、この聖霊降臨日に確認するのです。私達教会は、礼拝の度に、聖霊なる神を新しく受け止めて、福音を宣べ伝え、与えられた主の御言葉にお答えし、聖霊なる神によって押し出されるように礼拝の場からおくりだされるのです。 使徒言行録をルカ福音書は同じ人に書かれました。ルカ福音書が第一巻(使徒言行六1:1)と書かれています。この二つは、前編と後編の様になっています。二つで一まとまりです。この一まとまりを見る
6月6日
5月17日 「キリストのへりくだり」 伝道師 金井恭子
詩編53編1〜6節 フィリピの信徒への手紙2章1〜11節 「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という、既に受けている恵みに応答して生きるように、という勧めとともに、その土台となるのはキリストの十字架であることをパウロは示します。そして、彼は宣教のための一致を何度も呼びかけていますが、今日の聖書箇所でも再び、思いを一つにして一致するように呼びかけています。なぜ、このように繰り返し勧めるのか。それは、この時代にキリスト者になるということは、外部からの攻撃や迫害を受けることが多く、殉教の覚悟すら必要だったからでしょう。攻撃や迫害に屈することなく生きていくためには、教会内での一致が最も重要であったと考えられます。 パウロのフィリピの信徒たちへの手紙は、獄中で書いているにもかかわらず喜びと感謝に満ちた、深い親愛の情が溢れる内容です。フィリピの教会では、教会全体を揺るがすような大問題が起こっているという記事は見当たらず、むしろ、熱心さと奉仕において喜ばしい教会であったように見受けますが、どうやら微かな不協和音も存在
5月23日
5月10日「苦しむことも、恵み」 伝道師 金井恭子
詩編27編:1節-6節 フィリピの信徒の信徒への手紙第1章:27節-30節 フィリピの信徒への手紙を読み進めてまいりました。 今、パウロは獄中にあって自由に宣教できないどころか、命の危険さえある状況です。しかし彼は喜んでいます。指導者を失っても尚、フィリピの教会の人々がしっかりと信仰に立っていることを喜び、パウロを妬む者たちによってであってもキリストの福音が宣べ伝えられていることを喜び、獄中にある自分の身に起こったことが「福音の前進に役立った」ことを喜んでいるのです。そして、死んでこの世を去りキリストと共にいたいと熱望しながらも、しかし板挟みに悩んだ末に、地上にとどまり教会のために生きることを選ぼうとしています。「生きるとはキリストである」と言い、「死ぬことは利益である」と言うパウロは、生きるときも主のものとして生き、死ぬときも主のもとにあるのだという確信と希望を私たちに伝えています。 苦難の中にあっても喜びに満たされていることを手紙に書いたパウロは、今度は教会の人々に対する勧めを書いています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送
5月15日
5月3日 「一つになるように祈られている」 牧師 伊藤節雄
『イザヤ書』6:3~7 『ヨハネ福音書』17:20~26 祈ります。 天の父、執り成しの祈りと一つにされることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 彼等の為だけでなく、彼等の言葉によって私を信じる人々の為にも、お願いします(20節)。十字架の時が近付き、長いお別れの言葉がありました。そしてそのお別れの言葉がいよいよ終わろうとしています。 別れの言葉は、別れる両者の関係をよく表します。あなたが今一番別れたくない御方はどなたですか。そしてその御方とお別れしなくてはならなくなった時、どの様なお別れの言葉を掛けますか。 主イエスのお別れの言葉は沢山ありました。「互いに足を洗い合わなければならない。」(13:14)「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(13:34)「私の名によって私に何かを願うならば、私が適えてあげよう。」(14:14)それは主イエスのお約束でもあり、ご命令、お勧めでした。 その長いお別れの言葉に挟まるような形で、主イエスが父なる神にお願いをされていることに気付きましょう。20節では、彼等の為だけでな
5月3日
4月26日 「生きるとは」 伝道師 金井恭子
詩編104編:31節~35節 フィリピの信徒への手紙 第1章19節〜26節 「生きるとはキリストである。」 この言葉は神秘的で美しく、キリスト者にとっては違和感なく受け止めることができる言葉でありましょう。しかし、21節にあるこの言葉に続く「死ぬことは利益」という言葉には戸惑いを覚えます。すぐには受け入れ難い強い響きを持っているからです。この「利益」の元の言葉は、何かと引き換えに得るものとして商売の場で用いられる「利得」や「儲け」のことを表しますが、パウロは敢えてこの世における現実的な言葉を「死ぬ」ことに当てています。 普通に考えれば、「死」は地上での全てを失うことを意味します。命を失うことによって人との関係性も、この世での働きも、やがて親しい人に残された自分自身に関する記憶さえも失うことを意味します。私たちにとって「死」とは、失うことの象徴であり、恐れの対象でもあります。ですから、死を「利益」と呼ぶパウロの言葉は、私たちの自然な感覚とは大きく異なっています。何かを得るどころか、すべてを失うように見えるところに、どうして利益があるのでしょうか
4月29日
4月19日「福音のために喜ぶ」 伝道師 金井恭子
詩編47編:2節〜10節 フィリピの信徒への手紙 第1章12節〜18節 先週からフィリピの信徒への手紙をご一緒に読み始めました。パウロは「喜びの書簡」と呼ばれるこの手紙の冒頭から、神さまへの感謝とフィリピの教会のための祈りを記しており、手紙全体に喜びが貫かれています。 しかし実は、この喜びを語っているパウロは、伝道の途中で捕えられ、獄中にある身でした。それなのになぜ、これほどまでに喜びを語ることができるのか。何を喜んでいるのか。それは5〜6節にあるように、フィリピの教会の人々がキリストの信仰を与えられてから今日まで共に福音の中に生き、一人一人が伝道の働きを担ってきたことと、神さまがフィリピの教会で始められた良い業を完成してくださることへの確信からくる喜びです。神さまがすでに働いておられ、今も働いておられる。そして、キリストが再び来られる最後の日まで働いておられるという確信からくる喜びの中にパウロは生きているのです。どんなに苦しいことがあっても、教会が神の御業によって進んでおり、その交わりの中に自分はいるのだという喜びです。 ...
4月22日
4月12日 「愛がますます豊かになるように」 伝道師 金井恭子
詩編138編:4節~8節 フィリピの信徒への手紙 第1章:1節~11節 本日から共に御言葉に聞きますのは、フィリピの信徒への手紙です。第一週目は、伊藤節雄先生に説教と聖餐式をしていただき、第二週目からは私が連続講解説教として、皆さまと共にパウロの教会理解・喜び・祈り・愛が凝縮されたこのテキストから神さまの御言葉を聞き取っていきたいと願います。 3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とパウロは喜びを語っています。この手紙には、たびたび「喜び」という言葉が出てきます。ですから「喜びの書簡」とも呼ばれています。なぜこんなに喜んでいるのでしょう。パウロにはいったい、どんな喜びの出来事が起こったのでしょうか。 実はパウロが書いたこの手紙は、キリスト教の伝道をしたことによって捕えられ、監禁されている時に書かれたものなのです。獄中での不自由さだけではなく、命の危険にさえ晒されている最中、彼は冒頭で驚くべきことに感謝と喜びの言葉を語っています。それはなぜでし
4月15日
4月5日 「復活の主イエス」 牧師 伊藤節雄
『詩編』118:22~29 『コリント信徒への手紙』15:1~9 祈ります。 天の父、御子が復活を与えられたことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 パウロという伝道者は大変頭の良い人でした。若い時からとても熱心に学問に励みました。その頃ガマリエルという名の非常に優れたユダヤ教の学者がいました。ユダヤの議会の議員でもある律法学者です。そのガマリエルの下で聖書の勉学にいそしんだのです。パウロ自身がこう言っています、この都で育ち、ガマリエルの下で先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じ様に熱心に神に仕えていました(使徒22:3)。そういう点からすればパウロは自分の優秀さを拠り所にし、学問教養を誇りにすれば幾らでも出来たのです。 そのパウロが、主キリストとの出会いが与えられて、その主キリストの救いを受けるということになった。パウロには予想もしなかった大きな人生の転換でした。しかもその上、主キリストを宣べ伝えて、伝道していく伝道者として召され立てられていくことになるのです。昔、エレミヤが預言者とされた時、
4月8日
3月29日「彼らを守って下さいと祈る主イエス」
『詩編』17:6~9 『ヨハネ福音書』17:6~19 祈ります。 天の父、彼等を守って下さいとの主の祈りの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスは十字架に向かおうとしています。私達が今日、受難週に向かうのと同じです。木曜日には洗足聖餐式、金曜日には受難日祈禱会をして主の受難に向かいます。時間の差、場所の違いこそあれ、今私達は、最後の晩餐を受けている弟子達ととてもよく似ています。 では、十字架に向かわれる主のお心を満たしているのはどんなことでしょうか。御自分のことで精一杯でしょうか。他の人のことを考えたり思い遣ったり出来ないことを自分のことで一杯一杯、等といいます。私達にはよくあることです。しかし、十字架に向かわれる時、主のお心は、ご自分のことで一杯一杯でいらしたでしょうか。 今日読みました聖書箇所で一番多く主がおっしゃったのはどんな言葉でしょうか。そこに主のお心があったことが分かります。14節の中で、何と24回も言われています。第11節には3回も言われています。 私は最早世にはいません。 彼らは...
4月8日
bottom of page
