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11月23日 「新しい命を生きる」

金井恭子 先生

ルカによる福音書22:31-34


まもなく降誕節を迎えようとしています。私たちはクリスマスの喜びを覚えつつも、主イエスが十字架に向かわれたことを忘れることはできません。救い主の誕生は、十字架の愛に根ざしているからです。

先程お読み頂いた聖書箇所は、14節から語られているように、イエス様と十二人の弟子たちが過越の食事をするために食卓を共に囲んでいるときの出来事です。いわゆる「最後の晩餐」と言われる、このところにおいて、主は「聖餐」を定められました。エルサレムの町に入り、十字架の道へと至る日々を歩まれていたイエス様は、14節で「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」とおっしゃいました。「苦しみを受ける前に」と、もう既にご自分の受難を念頭に置かれているのです。

弟子たちは、と言えば、24節にあるように「自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか」という議論をしています。この先に起こることを知っている私たちから見れば、「こんな時に何を競っているんだ」と呆れるような議論ですが、これに対してイエス様は「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われました。本日の箇所の直前も直後も、イエス様は弟子たち全員に語りかけておられます。それに対してこの31-34節では、なぜかシモン・ペトロにだけ語りかけておられるのが特徴的です。

 

イエス様はシモン・ペトロに「シモン、シモン」と二度その名を呼ばれました。「シモン」が本名。「ペトロ」はイエス様がつけた「岩」という意味のニックネームです。かつて漁師であった彼は、主イエスに出会ったその場で全てを捨てて従った一番弟子です。弟子の中でもリーダー的存在であった彼に、主は「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃいます。ペトロはおそらく「自分の信仰がなくなる」ことなど想像もしていなかったでしょう。彼は自分自身の決意と覚悟によって信仰は保ち続けられると信じていたからです。

「サタンはあなたがたを、ふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあります。主イエスに従っている本物の弟子かどうか、というその選別を、小麦をふるいにかけて、麦の粒ともみ殻やゴミとを選り分けることに喩えておられますが、この「ふるいにかける」という試練をサタンが神に願い、それを聞き入れられたとはどういうことなのでしょうか?疑問に思って確かめたところ、原文には「サタンはふるいにかけることを願って」とあり、「神に」願ったとは書かれていません。聖書協会共同訳や口語訳聖書にも「神に」願ったとは書かれていません。新共同訳で補われたこの言葉はしかし、決して間違ってはいないでしょう。なぜなら、このようなことを願うのに相応しいのは「神」だけのはずですから。

 

弟子たちにとっての「ふるいにかけられる」という試練は、主イエスが祭司長たちに引き渡され、ピラトによって死刑の判決が下され十字架にお架かかりになるその時、それでも尚、主イエスに従い続けることができるかどうか、ということでしょう。では、このような試練を与えることを神は望まれたのでしょうか。すっかりサタンの自由にさせてしまわれたのでしょうか……そうではないはずです。試練もまた、神のご支配の下にあり、イエス様の祈りは、その試練に真正面から立ち向かってくださる祈りなのです。

信仰とは一体、どういうものなのでしょうか。それは目に見えない、測ることもできない、自分自身で生み育てることのできないものです。そして実は、自分自身の決意で堅く保つことのできないものです。それは、神から「与えられる」ものに他ならないからです。ペトロはかつて「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。その気持ちに嘘はなく、彼は本当にイエス様と共に死ねると信じていたに違いありません。彼は自分自身の決意と覚悟によって信仰は保ち続けられると信じていたのでしょう。しかし、ペトロは、イエス様が祭司長の元へと引っ張って行かれた時、三度もイエス様を「知らない」と言ってしまいます。イエス様はそんなことは百もご承知でした。

「三度わたしを知らないと言うだろう」の元の言葉を訳しますと、「三度わたしを知っていることをあなたは否定するだろう」というものです。ペトロは、イエス様と自分との関係を完全に否定したのです。大体一度目か二度目でハッと気づきそうなものですが、彼は三度もイエス様との関係を否定するのです。イエス様が「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とおっしゃったのは、ペトロが挫折することを前提とされていたのです。そしてその予告通り、ペトロが自信を持っていた信仰は、脆くも崩れ去りました。

ところで、他の弟子たちのことは何も書かれていないのに、ペトロのことだけが書かれているのはなぜでしょうか?他の弟子たちは、イエス様の仲間として自分まで逮捕されることを恐れて早々に、蜘蛛の子を散らすように逃げていったからでしょう。ですから、失敗するようなヘマをしないで済んだのです。ペトロだけは少し離れたところから、イエス様が連行される後をついて行きました。そして、大祭司の屋敷の中庭で焚かれた火の前で他の人に混じって座っていたところを、「あの人もあの連中の仲間だ」とか「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤのものだから」と言われて、咄嗟に自分の命に危険が及ぶのを恐れて否定し続けたのです。そしてイエス様がおっしゃった通り、三度知らないと言った直後に、鶏が鳴きました。その時振り向いてペトロを見つめられたイエス様は、どのような顔をされていたのでしょうか。おそらく険しい表情はされていなかったでしょう。

イエス様は弟子に裏切られ敵に引き渡されることも、十字架の死へと歩むことも全てご存知の上で弟子たちを赦し、祈り、愛し抜いてくださいました。

ところで、この人生の大失敗を全て知っているのはペトロ自身とイエス様だけでしょうに、なぜ私たちまで知ることになったのでしょうか?それは、後に彼自身がこの人生最大の挫折を自ら語ったからではないでしょうか。イエス様の愛によって癒やされ立ち直ったからこそ、この弱さ・愚かさも語れるようになった。弱きところに神の御業が表され・聖霊が働き・その弱さが用いられるのだということを、彼自身が知っているからでしょう。確かに、失敗は伝道の力へと変えられていきました。

 

イエス様のお祈りによってペトロが立ち直った姿が見られるのは、十字架の死から甦られたイエス様がもう一度彼と出会ってくださり、弟子として再び招いてくださった時です。彼はイエス様を裏切ったことを悔いて激しく泣いた絶望から立ち直り、イエス様を堅く信じて従い・教会を建てる大きな働きをする者となりました。彼がかつて自信を持っていた信仰は、イエス様を徹底的に「知らない」と関係を否定した時に完全に挫折し、失われましたが、「全く新しい信仰」に生きる者とされました。新しい命と道を得て、新たに立つ事ができたのです。使徒言行録には、ペトロが堂々とキリストの福音を語り、キリストの名によって罪を赦され生きていくようにと宣教している姿が記されています。そして「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と足の不自由な男の人を癒しています。イエス様がつけられたニックネームの「岩」という名に相応しい姿がそこにありました。教会を建てる、堅くしっかりとした土台のような者に、彼はなったのです。

 

「信仰がなくならないように」とイエス様がおっしゃった「信仰」とは、私たち人間のしっかりとした決意に満ちたものではありません。そのようなものは、この世の試練によってあっけなく崩れてしまうでしょう。私たちが自分の力で保とうとする信仰は、世の不条理に巻き込まれたなら、あっけなく崩れ去るような儚いものです。ですから、主が与えてくださる信仰に私たちが相応しく与り続けることができるように、と祈ってくださっているのです。

 この私もまた、長年主に祈られてきたのだと思います。若き日に挫折したまま、祈りを忘れた人生を送っていました。キリスト以外を神とはしませんでしたが、今思えば些細な家庭の事情で、牧師になることをあっさり諦めた自分の信仰の脆さを恥じていました。そしてそれを胸の底に沈めたまま人生を終えるのだと思っていました。けれども、思いがけない導きによって、40年ぶりに神学生としてのスタートを切りました。主は、私の僅かに残った残り火のような信仰に油を注いでくださったのではなく、ペトロのように、全く新しい命と道を与えてくださったのだと感じています。

私の耳には聞こえなかっただけで、主は私の名を呼び続け祈ってくださったに違いありません。その祈りと、私のために祈り続けてくださった方々のおかげで、今私はここに立っています。

 

 私たちの地上での営みにおいては、悲しみ・苦しみ・争い・老いや病……さまざまなことが起こります。何事もない時には、自分で自分の信仰を堅く守るしっかりとした心を保てるかもしれません。しかし不条理な目にあったり、「神様なぜですか?」と問わずにはいられない出来事に見舞われたりした時に祈ることができなくなったり、主イエスとの関係を否定してしまうことがあるかもしれない。そうであったとしても、イエス様は私たちを知っていてくださいます。私たちがサタンによる試練によって、その関係を断ち切ったとしても、イエス様は私たちをお忘れになりません。私たちのために十字架の道へと歩んでくださったこのお方は、私たちの信仰が無くならないように祈り続けてくださいます。自分の決意や覚悟に依り頼む信仰ではなく、主イエス・キリストが与えてくださる信仰に与り続けることができるように、祈り続けてくださるのです。

 

 私たちは十字架の出来事を通して赦され、新しい命を生きています。私たちも互いに祈り合いましょう。祈りは、私たちが望むような方向性や時間軸で実現することの方が少ないかもしれません。それでも、私たちのことを全てご存知の主にお任せしつつ、互いに祈り合いましょう。祈りを忘れる日々があったとしても構いません。私たちは既に祈り方を知っていますから、「その時」が来たら、いつでも祈れるからです。自分自身が祈れなくても、必ず祈ってくれている人がいます。その最も強力なお方が、イエス様です。私たちがどんなに惨めな状況にあったとしても、この世に解決も救いも見出せない時でも、「シモン、シモン」とペトロが優しく呼びかけられたように、私たち一人一人の名前を呼び、執りなし、祈り続けてくださっています。

 

 まもなく、そのお方、主イエス・キリストのお誕生を祝う時が来ます。この喜びを共に分かち合うことができる幸いを、感謝いたしましょう。

 
 
 

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