2月22日「苦難と栄光の時予告」
- 2月26日
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『エゼキエル書』11:17~21
『ヨハネ福音書』16:1~11
祈ります。
天の父、あなた方を躓かせないためということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
これらのことを話したのは、あなた方を躓かせないためである。人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。最後の晩餐は私達の聖餐式の基になりました。だから、時間をさかのぼれば、主イエスの裂かれたパンを主から受け、ぶどう酒の注がれた杯を主から受ける、そんな様子を心の中に思い描くことが出来ます。最後の晩餐の指し示す最も重要な事柄です。
パンとぶどう酒の配餐の後、お別れの説教と呼べる幾つかの教えをお語りになりました。新しい掟は、互いに愛し合いなさいという言葉でした(13:34)。「私は道であり、真理であり、命である」、と宣べ伝えられました(14:6)。
この様な御言葉が続いてきて、「世があなた方をも迫害する」と話されたのです(15:20)。世の迫害が、高じて憎しみとなってやってくる、とも話されました。更に高じて、会堂から追放することも起こり、遂にはあなた方を殺す者も出てくる、と告げられているのです。
主はその事を見抜いておられました。そして、それに負けず、耐え抜き、迫害する世に立ち向かえる信仰の力を予め用意して下さった、と言われているのです。これらのことを話したのは、あなた方を躓かせないためである、とは主が用意して下さった、弟子達に示す心構えのことなのです。
確かに主の御言葉にはいつも目的があります。譬話はその、目的がある、という事が分かり易く話されます。種を蒔く譬があります。お百姓さんの蒔く種の蒔かれた先が、道端、石だらけの所、茨の所、良い土地となっています。この譬話の目的は何でしょうか。<良い土地になるように励み、努力しなさい>という事でしょうか。それを違うとは言えないでしょう。しかし、少し考えてみると、畑が自分を良い畑にすることは出来ません。良い畑にすることが出来るのは、種を蒔くお百姓さんです。このことに気付きましょう。これは、実り豊かな良い畑の様になりなさい、私がそうしてあげることを覚えなさい、というお勧めなのです。その主の導きと力を受けて、御言葉を聴いて受け入れ実を結ぶ者とされるのです。そのお勧めを受けて、御言葉を聴いて受け入れ実を結ぶ者として下さい、私をその様な者にして下さいと祈るのです。御言葉を蒔く主が、その祈りに応えるようにして私達を、よく御言葉を聴く者・よく受け入れる者・実を結ぶ者として下さるのです。これがこの譬話の目的なのです。その様な私達になれるようにという目的を目指して、話されたのです。
最後の晩餐で色々話された事にも、同じ様に目的がありました。目的を表すには、「何々の為に」と言います。水曜日の祈りの会では『ハイデルベルク信仰問答』にガイドしてもらって、聖書の学びをしています。大変愉快な学びになっています。本城先生や朴先生の、問答から学ぶ会を引き継ぐ願いをもっています。ここのところは問40から問42を、学習しています。この三つの問いにはある特徴があり注目に値します。「何故に」という質問の言葉が繰り返されるのです。問40では、何故に、キリストは、死の苦しみを、受けねばならなかったのですか。となっています。
主キリストの死は、何のためですか、と質問して、主の死が目指す目的が何かを教えているのです。主の死が私達に向かって何を生み出して下さったかを教えようとしているのです。
原因だけを問う時は、「何々のせいで」とか「何々のおかげで」と言います。<僕が寝坊したせいで、電車に間に合わなかった>等と使います。
目的を表す時、「何々の為」と言うのです。最後の晩餐で話された事にも目的があるのだと言われるのです。あなた方を躓かせないためである、と。躓きとは、古く旧約聖書では「障害物」のことです。レビ記の教えを読んでみます。耳の聞こえぬ者を悪くいったり、目の見えぬ者の前に障害物をおいてはならない。あなたの神を畏れなさい。私は主である(レビ記19:14)。主を畏れ敬う者は、人の進む道に躓きの石を置かないのだ、と主は言われる。障害物、とは聖書の特徴ある言葉で、躓きの石と言われます。この場合には、躓くとは倒れることです。
イスラエルが神に選ばれ、大いなる恵みを与えられたのに、それに信仰と服従をもって答えずかえって神の背く生き方をした時、躓いたと言われてしまいます。私の民は私を忘れ、空しいものに香をたいた。彼らは自分達の道に躓き、整えられていない、不確かな道を歩んだ(エレミヤ18:15)。こう預言したのはエレミヤです。神に祝福された道を逸れて、勝手に自分達の善しとする道を歩いてしまう。神に約束され、導かれる歩みを進めず、約束から離れ、導きとは違う歩き方をしてしまう、それをエレミヤが自分達の道に躓いた、と言ったのです。この場合には躓くとは、神の道を逸れるということです。
主は、あなた方を躓かせないと言われたのです。その為にこれらのことを話したのだと言われたのです。弟子達は、たとえ主イエスがとりあげられてしまい、見える形では主が居なくなっても、あなた方を躓かせないと言われたのです。
躓かない根拠は何か。迫害する世に立ち向かえる信仰の力を予め用意して下さった、と申しました。その、主が用意して下さった信仰の力とは何か。それが与えられるから、倒れない。それを頂くのだから、神の約束の道を逸れない。それとは、今迄話したこれらのことだと言われる。今迄話し聴かせた説教が立ち向かえる信仰の力になるというのです。主の御言葉が、用意して下さった信仰の力である、というのです。
み言葉が力だと教えたのがパウロです。愛は、何があっても愛であり続ける、憎しみに変わらない、と教えてくれたのもパウロでした。
み言葉が力だ、とはどういうことか。コリントの教会宛の手紙に書かれています。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です(Ⅰコリント1:18)。御言葉は力だと教えられた。言葉は力だ、と言わなかったのは、十字架の言葉だからです。十字架で、私達の救いを創りあげて下さった主の言葉だから、御言葉というのです。
ここに改めて、確認しておきたいことがあります。礼拝で、御言葉を聴くという事は、そのまま、神の力を受けているということです。これは肝に銘じておきます。なかなかその自覚が出来ないので、確かにしておきたい。皆さんは、朝食の料理は何でしたか。あなたが召しあがった料理があなたを生かしていることを実感されてますか?分かっていると言われるなら、ではその料理の何があなたの何を生かしているという風に判断されますか。料理をいただくことが、生かす力を受けることになっているのです。あなたの体も心も生きる力をそこから受け取っているのです。
御言葉を聴くという事もそれと少し似ています。どの御言葉が、自分の何をどの様に生かして下さるのか。どの御言葉が自分のどこに力を与えて下さっているのか。
種蒔きの譬、で「種」は何でしたか。御言葉です。種は芽が出て、豊かに実ります。御言葉は信仰を生み出します。悔い改めを生み出します。神と人を愛することを生み出します。良いサマリア人を生み出します。全世界へ出て行って福音を伝える献身者を生み出します。救い主を訪ねて遠い道を歩き進む者を生み出します。「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰を表明、告白する者を生み出します。賛美しながら家に帰る者を生み出します。目からうろこのようなものが落ちる者を生み出します。<未だ続けますか?>御言葉こそ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。
では、皆さんの中には、御言葉は何を生み出していますか。それを問い尋ねる方がいるでしょう。それを受け止めて取り組む方もいるでしょう。主に従う方もいるでしょう。神の力である御言葉を聴いた者として、その神の力を聴きとめ、受け止め、それに導かれる一週を過ごしましょう。
天の父、御言葉が自分の力になっていることを覚えさせて下さい。御言葉を聴いた者に相応しい生き方が出来ます様に。何を生み出して下さったのかお教え下さい。また、生み出して下さったことに誠実に取り組む者として下さい。御言葉が私達の内に結んだ実りをあなたに献げます。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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