1月11日 「主の御業を受け継ぐ」
- 教会 松本東
- 1月20日
- 読了時間: 8分
『イザヤ書』6:1~7
『ヨハネ福音書』14:8~14
祈ります。
天の父、主を見る、父なる神を見るという事の意味を教えて下さい。もっと大きな業を行うという事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
7節で、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている、と告げられました。しかしそう言われても弟子達は分かりませんでした。父なる神を見ることは起こっていないと思いました。神を見ることは簡単なことではないとも思っていました。そう思ったフィリポが「主よ、私達に御父をお示し下さい。そうすれば満足します。」と願い出るのです。
フィリポや弟子達はユダヤ人でした。ユダヤの人達は、人は神を見ることは出来ない、と固く信じていました。それは最も確かな事でした。昔、モーセに神が大事な仕事に当たらせようとされた時、モーセは言います「栄光をお示し下さい。」余りにも大きな働きをモーセはなかなか引き受けられません。イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地へ導き上るという困難な務めは尻込みせざるを得ませんでした。その大きくて困難な務めを目前にして、栄光をお示し下さいと願ったのです(出エジプト33:18)。神の栄光を見たら、力を得てこの務めに当たろうとしたのです。神の栄光こそが、イスラエルを率いて行く力になるというのです。
その願いに神が答えられました、「あなたは私の顔を見ることは出来ない。」「あなたは私の後ろを見るが、私の顔は見えない。」(出エジプト33:20,23)後姿を見た、とはつまり父なる神を覚えることは出来たが、本当の意味で見たのではないという事です。本当に与えられたのは、神の御言葉でした。繰り返し「あなたを選んだ。あなたに好意を示した。」という御言葉が与えられたのです。
ユダヤの人達は、人は神を見ることは出来ない、と固く信じていたことの理由がここにあるのです。それは主イエスの弟子達にとっても同じでした。ところが、その様に信じていた弟子達にあなた方は父を知る。いや、既に父を見ている、と言われたのですから、どんなに驚き慌てたことでしょう。主よ、私達に御父をお示し下さい。そうすれば満足します。とのフィリポの願いには弟子達の驚きが込められていました。
この願いに主はどの様にお答えになりましたか。駄目だ、とおっしゃったのか。あるいは、モーセの時と同じ様に、あなたは私の顔を見ることは出来ないとおっしゃったのでしょうか。「私を見た者は、父を見たのだ。」と言われたのです。主イエスをこれ迄見てきた弟子達は、父なる神を見てきたことになるのです、ということです。
主イエスは、神を自分の父とお呼びになりました。そこでユダヤの権力者は激しく怒りました。神を冒瀆していると言って、迫害しました。怒りと迫害は遂に殺そうとする迄に強くなりました。主が、ベトザタの池で病人をお癒しになられた時、ユダヤの権力者達は怒りと殺意にかられました。ユダヤ人達は、益々イエスを殺そうと狙うようになった。安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しいものとされたからである。(ヨハネ5:18)
主が神を御自分の父と呼ばれたことの意味を、弟子達も分からずにいたのです。こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ、と言われてしまいました。主がなさることは、父なる神がなさることです。主がお語りになることは、父なる神がお語りになることだと、ここで再確認するように言われているのです。主がご覧になることは神がご覧になる事なのです。今迄ずっとそうだったのです。
父なる神と、主イエスと、私達の関りをここで覚えておきましょう。ヘブライ人への手紙1章1節と2節を読みます。神は、かつて預言者達によって、多くの形で、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私達に語られました。短く、明確に教えてくれています。これはもう間違えようがありません。神は、御子イエスによって、私達にお語りになる。私達は、御子イエスによって、神を知る。主イエスのあなたをご覧になるまなざしの中に、父なる神のまなざしを感じ取るのです。主イエスの語り掛けるみ言葉の声に神の御声を聴き取るのです。
「私を見た者は、父を見たのだ。」という主の御言葉の解き明かしはこのヘブライ人への手紙でした。
10節で「私が父の内に居り、父が私の内に居られること」と言われていることが11節でも繰り返されています。これは、「私を見た者は、父を見たのだ。」と言う言葉の言い換えです。主イエスの内に父なる神を見るのです。
主は言われます。私が父の内に居り、父が私の内に居られると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。珍しい表現です。業そのものによって信じるという言い方です。
トマスが主の甦りの知らせを聞いた時、信じることが出来ませんでした。主に「あなたの手を私の脇腹に入れなさい。」と言われて、トマスは最も短い信仰告白をしました。その信仰を受けて主は言われます「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:27,29)
業そのものによって信じるということは、この見たから信じる、触れたから信じる、というのとは違います。業、と言われている言葉は、幾つもの業ということです。そしてこの御業には、務め、任務という意味もあります。主イエスの任務とは救い主の負われた多くの務めです。それは、ご生涯の最後の時に引き受けて下さった務めに集中します。血の滴るような汗を流してされた切なる祈りの「この杯を取りのけて下さい」が示す十字架の務め、に集中するのです。
主の業とは、主が救い主として担って下さった務め、任務のことです。十字架と復活に集約される主の御業
全てです。私達は、この主の御業を心に思い描くのです。心に映し出された主の引き受けて下さった務めを見つめていくのです。あなたの心のスクリーンには、主の御業がきれいに映し出されているのです。
「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父の許へ行くからである。」主は父の許へ行かれる。残された弟子達は、主が行う業を行うようになる。弟子から始まる教会はもっと大きな業を行うようになると言われています。
残された弟子達は、主と主の御業を、福音として宣べ伝えることに取り組むのです。それを、主が行う業を行うと言われているのです。主イエスは、地上の生涯ではユダヤ、ガリラヤ、サマリアを巡って神の国を伝えました。しかし弟子達の活動は更に広がりました。主が父の許へ行かれる時、お与えになった務めは、全世界に出て行って福音を伝えることでした。この務めを力強く果たそうとしたのは、パウロでした。中近東からギリシャを巡る伝道の働きの中でギリシャで書かれたと思われる『ローマの信徒への手紙』があります。ローマに行きたいと強く願い、自己紹介と共に主キリストの福音を、その豊かさのままに書き記した手紙です。その中で、自分の伝道の意欲を伝えるところがあります。何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。・・何年も前からあなた方のところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。ローマは中継地だというのです。もっと先の遠いイスパニア迄行って福音を伝えようと願ったのです。それはローマ帝国の西の果て、この世の果てだったのです。主がもっと大きな業を行うようになるとお語りになったことが実現しようとしたのです。主のご命令通りに福音が広げられていったのです。
イスパニア伝道はパウロの願いを受け継いだその後の教会が成し遂げたのです。
別の角度からこの御言葉に聴いてみましょう。ここは、もっと大きな業を行うようになるよとの主のお約束の様に受け取れそうですね。もっと大きな業を行えるようにするよ、としたら主のお気持ちが分かります。この大きなという言葉は、もっと偉大なという意味で使われていません。どう考えても、私達が主よりも偉大な業を行うとは考えられません。
大きな、という言葉をクリスマスに聴けたことを思い出しませんか。ルカ福音書に一回、マタイ福音書に一回。民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(ルカ2:10)学者達はその星を見て喜びにあふれた。(マタイ2:10)あふれた、とは大きな喜びにあふれたということで、ここにも大きなという言葉が使われているのです。
喜びにあふれて信仰に生きること、喜びにあふれて礼拝すること、喜びにあふれて福音を伝えること、それが
もっと大きな業を行うようになると約束された事なのです。
このもっと大きな業を行う一週間としましょう。
天の父、あなたは御子イエス・キリストによってご自身を示して下さいました。主イエスの御言葉の中にあなたの言葉を聴けます様に。主イエスの御業の中に、あなたの御業を見ることが出来ます様に。鮮やかに心に映し出されたその御業を見て生きることが出来ます様に。大きな喜びにあふれた生き方が出来ます様に。あなたのお約束ですから。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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