3月1日 「真理の霊の働き」
- 3月7日
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『エゼキエル書』11:17~21
『ヨハネ福音書』16:12~15
祈ります。
天の父、聖霊に導かれ真理を悟るということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
お別れの説教が続いています。質問できないほどにとまどっている弟子達に、主は励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられます。主が居なくなると直ぐに崩れてしまうような弟子にならないように、主がご配慮されるのです。或いは、主がいらっしゃる時よりももっと力強く御言葉の力を感じられるようになると言ってもいいでしょう。少し前に言われました、「私が去って行くのは、あなた方の為になる。」(16:7)主が見えるところに居なくなっても、今迄よりももっと幸いな事が起こると約束されたのです。真理の霊が送られて届いて、励まし、信仰の道を逸れずに進むように教えられ
言っておきたいことは、まだ沢山あるが、今、あなた方には理解できない。しかしその方、即ち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。
まず、主が伝えておきたいことが沢山あると言われています。主イエスについて語ることが沢山あると書いている御言葉を読んでみましょう。イエスのなさったことは、この他にも、まだ沢山ある。私は思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収め切れないであろう(ヨハネ21:25)。
礼拝を数え切れないほど捧げてこられた長い礼拝生活の中で、御言葉を聴き続けて来られた方には、主が言っておきたいと願われたことがとても豊かであることが実感されるのではないか。沢山ある、世界も収め切れないほど沢山あることが実感されることでしょう。
真理の霊と主は言われました。聖霊なる神のことです。真理の霊という時、この「の」という言葉はいつも言い換えが必要です。聖霊が真理であられる、真理であられる霊ということでしょうか。この時は主は直ぐに言い換えて、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせると言われました。真理の霊とは、真理を悟らせて下さる霊ということなのです。
では真理とは何を意味しているでしょうか。ここで、真理をことごとくと言われているのに気付きます。この真理は、何があってもいつになっても変わらない唯一の真理のことではありません。変わらない真理とは主イエス・キリストのことです。それについては、主が自ら言われました。「私は道であり、命であり、真理である。」(ヨハネ14:6)
しかしここでは、真理をことごとくと言われているのです。「全ての真理」「真理全体を残すところなく」「あらゆる真理」等と訳され伝えられています。これは主イエスを表す「真理」とは違う意味があります。ここでの真理とは、12節の告げる、言っておきたいことは、まだ沢山あると言われたことなのです。まだ沢山ある<言っておきたいこと>、そのことを真理をことごとくと言われたのです。真理とは主イエスの御言葉の全部のことなのです。主の願いが込められた御言葉の全部のことなのです。
主の御言葉には、願いや祈りが込められています。唯、神のみ心を伝えるのではありません。唯、神の恵みについてお話しされるのではありません。唯、神の慈しみを告げるのではありません。それは普通の報告や連絡、お知らせ等ではありません。主の御言葉には、主の心が結びついているのです。こうなって欲しい、ああして欲しいという主の願いが、載せられているのです。
主の御言葉にその様な願いや祈りが込められていることを12節はよく教えてくれています。言っておきたいこと、と言われています。主の御言葉には、言っておきたいことが込められているのです。そのみ言葉に結びついている主の願いを聴き取ることが大事です。ではどうしたらいいのか。
今、あなた方には理解できない。しかしその方、即ち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。み言葉に結びついている主の願いを聴き取れるように、真理の霊、聖霊なる神が導き悟らせて下さるのです。
御言葉に込められた主の願いへと導いて下さると言われます。導くという言葉は新約では多くは出て来ません。少ないから重要ではないと考えなくてもいい。これは<道案内をする、手引きして連れて行く>、という意味の言葉です。
手引きするという言葉で、ある人を思い出せるでしょうか。聖書に出てくる人物で、外国の人に福音を伝えた初めの宣教師とも呼べる人です。本格的に宣教師と呼べるのはパウロです。アンテオケの教会から派遣されて、各地に教会をたてました。このパウロに比べれば、小さな宣教の業でした。しかし聖書はその働きを大事に載せています。福音を伝えることが、主キリストへと手引きすることだと示しています。12弟子のフィリポとは違うフィリポさんで伝道者フィリポと言われます。エルサレムでの礼拝の帰り道、エチオピアの高い位の役人がイザヤ書を読んでいました。イザヤ書が分かりますかとの質問に「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答えて、手引きを求めるのです。フィリポは聖霊に教えられて、イザヤ書から、主イエスについて福音を告げ知らせたのです。その手引きはイザヤ書に告げられている主の願いを聴き取るように導きました。どうなったのですか。フィリポは宦官に洗礼を授けたのです。洗礼を受ける信仰が生まれること、それが御言葉に結びついている主の願いなのです。
フィリポが福音を告げたのです。私達の目にはそう見えます。しかし聖書を丁寧に読むと、“霊”がフィリポに「追い駆けて、あの馬車と一緒に行け」と言った、のです。真理の霊が導いて真理を悟らせるという出来事が起きたのです。聖霊が働いて、フィリポを動かせて、イザヤ書を解き明かす手引きをさせて、エチオピアの高い位の役人の中に信仰を生み出したのです。
導くという言葉が<道案内をする、手引きして連れて行く>、という意味だと申しました。この案内、手引きという中に、少しずつ、順を追って、基本から始めて、という意味合いがあることを感じます。教会は、信仰生活の手引きに色々なものを使ってきました。三要文と言われる、十戒・主の祈り・使徒信条を一通り教えることなどです。私達の教会では、ハイデルベルク信仰問答を学んで、真理への案内、手引きとしてきた歩みがあります。教会の図書に春名純人訳の問答があります。この問答書に信仰の案内、手引きを受けてきたことが分かります。何らかの形で、この問答書から信仰の案内・手引きを受けて真理をことごとく悟ることを目指したいと願っています。
真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせるのです。聖霊なる神は真理を悟らせて下さる。真理を悟る、御言葉を悟るとはどういうことか。日本語では、悟りを開くというような言い方が連想されるので誤解し易いものです。
真理を悟るということを理解するのに、ダビデのことを思い出しましょう。ダビデは権力をかざす王でもありました。ヘト人ウリヤの妻バト・シェバを、夫ウリヤから奪い取るという暴挙に出ました。そしてウリヤを死ぬように策略を図りました。この罪を指摘、糾弾するために預言者ナタンが主から遣わされます。ナタンは二人の男の譬を話しました。豊かな男に客があり、もてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げた、という譬です。聞いたダビデは激しく怒るのです。そんな男は死罪だ、といって怒るのです。その時、預言者ナタンに告げ示されます。「その男はあなただ。」するとダビデは「私は主に罪を犯した」と罪を告白するのでした。(サムエル下11:1~12:15)
罪人ダビデを伝えています。二人の男の譬が、その男はあなただと告げられ、その譬話が自分のことを話しているのだと分かったのです。自分に向けて語られ、自分の罪を指摘し、自分を糾弾しているのだと分かったのです。だから、他人事ではなく、「私は罪を犯しました」と罪を告白したのです。
真理を悟る、御言葉を悟る、とはそういうことです。その男はあなただと告げられて、譬が自分のことを言っているのだと気付くのです。ナタンの言葉にダビデは大きく変えられていくのです。罪に気付き、罪を告白する者へと変えられていくのです。
御言葉があなたを生かす、あなたを救う、あなたを助ける、あなたに恵みを与える、あなたに進む方向を示し目的地に向かわせる、そのことが分かる、これが御言葉を悟るということなのです。
聖霊によって御言葉を悟る者、ああ、この御言葉は私に向かって語られていると分かる者としてこの一週を過ごしましょう。
天の父、主の御言葉に結びついている、主の願いや祈りを聴き取り、そこに込められた主の御心を覚えて生きる者とならせて下さい。御言葉をこの自分に語られたものとして受け止め、御言葉を悟る者としてこの一週間を過ごさせて下さい
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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