3月8日 「悲しみから喜びへ」
- 3月12日
- 読了時間: 7分
『エレミヤ書』22:10~12
『ヨハネ福音書』16:16~24
祈ります。
天の父、悲しみが喜びに変わるということの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」弟子達は、この主の御言葉が何を伝えているのか分かりませんでした。それで弟子達は、何のことだろう、と互いに言ったのです。主の御言葉の意味が分からないので、顔を見合わすようにして何のことだろう、と互いに質問しあったのです。弟子達は、誰も答えられませんでした。
旧約時代、砂漠であるものを見て、イスラエルの皆が「これは一体何だろう」と互いに質問し合ったことがありました(出エジプト16:15)。旧約聖書の言葉ではマン・フーと言います。それでこれはマナと言われるようになりました。新約聖書ではマンナと言われます(ヨハネ6:31)。マナと言ったことは分かりましたが、マナが与えられたことが何を伝えているのか、何を意味しているのかは、誰も答えられませんでした。その意味が分かったのは、主イエスの教えからでした。それを私達は、ヨハネ福音書の6章で聴いています。マンナは天からのパンを指し示していて、主こそ、その命のパンであることが告げられたのです(ヨハネ6:32,35)。
「これは一体何だろう」という質問の言葉が、そのままこの食べ物の名前になったということでした。弟子達は主の御言葉に何のことだろうと問い尋ね、イスラエルは神の贈って下さった食べ物にこれは一体何だろうと問い尋ねました。主の御言葉を聴く時、神の御業を伝える御言葉を聴く時、その意味が分からない時にはこれを身につけましょう。これは一体何だろうと質問することを。何のことだろうと問い尋ねることを。私達はもっと質問したらいい。もっと問い尋ねたらいい。
誰に質問するのでしょうか。どなたに問い尋ねるのでしょうか。答えることが出来る方に質問するのです。イスラエルの皆が「これは一体何だろう」との質問は、唯名前を聞いたのではなく、この食べ物が指し示すのは何ですかという質問です。この私にとってどういう意味があるのかを質問するのです。
マナは、私がいただける命のパン、真のパンであることを示しているのです。そういう風に問い尋ねるのです。その様に答えたもうたのは、主イエスでした。主の御言葉の意味を教えてもらうために、主イエスに問い尋ねるのです。主から答えをいただくのです。
しばらくすると、と主は言われました。もう直ぐのことだと時間の短さを表している言葉です。何迄がもう直ぐなのか。もう私を見なくなる時までもう直ぐなのです。主が旅行で何処かへ行かれるので見なくなるのではない。見なくなるとは、主が木につけて殺されることでした(使徒5:30)。十字架につけられるので、もう私を見なくなるのでした。もう、イスカリオテのユダの案内で主の逮捕の準備は整っていました。ユダが晩餐の席を立ち出て行く様子を示す言葉は、ユダは直ぐ出て行った。夜であった(13:30)という言葉でした。この夜は、神の救いの御業が人知れず行われることを表す恵みの夜ではない。人の罪の深刻な暗さを表す夜、なのです。
その、人の罪の力が弟子達から主イエスを引き離す事態を起こしてしまうというのです。主が十字架につけられるとは、主と自分達が暴力によって引き裂かれてしまうことでした。唯お別れするのとは全然違う。唯悲しい別れというのとも全く違う。その悲しみは、泣いて悲嘆に暮れる程の悲しみだという。
主と自分達が暴力によって引き裂かれてしまう、それを伝えるのが18章の主の逮捕される時の記録です。キドロンの谷の向こうの園でした。そこへやって来たのは、松明や武器を手にした、兵士達と下役達でした(18:3)。武器、攻撃し、相手を壊してしまう武器を持ってやってきました。主と弟子達を引き裂き、主を捕らえ、暴力によって十字架の死へと向かわせるものでした。
主の十字架の意味を未だ知らなかった弟子達は十字架を見て、泣いて悲嘆に暮れる悲しみの中に過ごしました。十字架の中に、救いの強力な力、罪を赦す莫大な力、全ての人を救い、贖い、命へと生かす力を未だ知らない弟子達は、唯泣いて悲嘆に暮れる悲しみの中に過ごすことしか出来ませんでした。
その悲しみは、普通の悲しみだけではありません。生きる力を失う程の悲しみです。弟子達が生きるとは、主の弟子であり続けることです。主の御言葉を聴き、それを心に留めて応えていくことです。ある時には、二人一組になって、福音を宣べ伝えることを託され、町々村々に派遣されました。悔い改めさせるために宣教したのです(マルコ6:12)。宣教活動に取り組んでいたのです。それが弟子達が生きるということでした。主の下でその様に生き生きとしていた弟子が、十字架を見て、泣いて悲嘆に暮れる悲しみを覚えたのです。悲しみという言葉では言い表せない悲嘆に暮れたのです。
主が捕らえられた時、弟子達は皆、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです(マルコ14:50)。主が裁かれた時、ペトロは「そんな人イエスは知らない」と誓う程に断言した(マルコ14:71)。主のご遺体は12弟子ではないアリマタヤのヨセフやニコデモが引き取り埋葬しました(ヨハネ19:38,39)。弟子達は一体どこへ行って何をしていたのでしょうか。十字架のエルサレムから離れて、ガリラヤに帰っていたのです。福音の宣教の為ではありません。以前の漁師に戻っていたのです。人間をとる漁師を止めて、魚を獲る漁師に戻っていたのです。見捨てて逃げてしまった。主など知らない」と誓う。主のご遺体を埋葬さえしない。魚を獲る漁師に戻ってしまった。弟子として生きる力を失う程の悲しみです。泣いて悲嘆に暮れる悲しみでした。
その弟子達の悲しみが、喜びに変わると言われるのです。その訳は、またしばらくすると、私を見るようになるからなのです。十字架につけられた後にまた主に会えるからだというのです。それを喜びに変わると言われたのです。
それは喜びに生きる生き方に変わるということです。悲しみが弟子として生きる力を失うことであるから、反対に喜びは、弟子として生きることである。弟子として生きる力をいただくことである。私達は、喜びを自分に引き寄せて考えてしまう。自分に嬉しいことがあるとそれを喜びと言ってしまう。山の持ち主から樹を切ったので取りにお出でと言われました。こんなに太い樹です。沢山の薪に割ることが出来、大変嬉しく喜びました。ほら、こんな風に喜びを自分に引き寄せて考えてしまう。
聖書が教える喜びとは弟子として生きることである。弟子として生きる力をいただくことが喜びなのです。喜びを主イエスに引き寄せて考えてみましょう。喜びを伝える聖書は、フィリピの教会宛の手紙ですね。3章から5章迄続けて喜びを伝えていますが、どの喜びにも共通の御言葉が付いています。何でしたか。3章1節を読んでみます。「兄弟達、主において喜びなさい」です。私において喜ぶのではありません。自分において喜ぶのではありません。主において喜べと教えているのです。
弟子達は何回も復活の主イエスと出会いました。魚を獲る漁師に戻ってしまった弟子達に、ガリラヤ湖で、甦りの主がお会いになり、言葉をお掛けになりました。「子たちよ、何か食べる物があるか。」(ヨハネ21:5)しばらくはそれが復活の主イエスだとは分からずにいましたが、「主だ」と分かり叫んだのです。しばらくすると、私を見るようになると言われた主の御言葉が実現したのです。また主に会えたのです。それで、悲しみが、喜びに変わると言われるのです。
主にある喜びを伝えるために主はまた譬を話されました。女は子供を産む時、苦しむ者だ。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びの為に、最早その苦痛を思い出さない。少し言い過ぎですか。でも、育て、その生活を進めて行くと、我が子のかわいさ、慈しみが、あの産む時の苦しみを、物の数ではないと言える程に喜びに変わるのです。
産みの苦しみを通り、一人の人間が世に生まれ出た喜びを味わう母親の譬です。その喜びは、イースターに覚える復活の命の喜びです。そして更に、聖霊降臨日において覚える教会を建てていく、創り出す力をいただく喜びです。あなたは喜んでいるか。主にあって喜んでいるか。悲しみが、喜びに変わると主が言われた。喜びに変える、と主が言われた。
主にある喜びがこの一週間、あなたを生かし支え導き手を引いて下さるように。
天の父、主の御言葉についていつも主に問い尋ね、教えられて生きていけます様に。主の十字架と復活によって、喜びを覚えていけますように。弟子として生きることこそ私達の喜びだと分からせて下さい。そしてその喜びが私達の土台であります様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
