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10月12日 礼拝説教 「ロバに乗られる主イエス」

『ゼカリア書』9:9  

『ヨハネ福音書』12:12~19

 

祈ります。

天の父なる神様。ホサナと祈ったこと、主がロバにお乗りになったことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。

 

詩編20編10節を引用します。予め開いて読んでおきます。

 

「エルサレム入城」と言われているところです。これを記念する主の日を「棕櫚の主日」と呼びます。一週間後の日曜が「復活祭」になるのです。この間に「洗足の木曜日」があり十字架の日「受難日」があるのです。救い主としての主のご生涯が、この一週間の中にぎゅーっと詰めこられているのです。丸い円の中心のようなものです。この中心と関わらない主の御業はない。十字架と復活と関わらない主の教えはない。「山の上の説教」も「放蕩息子の譬」もこの中心と結び付けて聴くのです。神の用意して下さった一週間なので、「聖なる週」と呼ぶのです。

この一週間は、私達にはあまり馴染みのない群衆の出迎えで始まります。群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、ナツメヤシの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(12~13)

ナツメヤシの枝を持って迎えた、とあります。口語訳、文語訳では「しゅろ」「棕櫚」と訳されています。「やし」とも訳されています。その3つの意味を持っている言葉なのです。ユダヤの地で採れるのはナツメヤシ。デーツという実を実らせます。棗の実より少し大きいのですが、よく似ているのでナツメヤシと名付けられた由。

仮庵の祭りで、エジプト脱出後のさすらいの苦しみの中で、神の導きと守りとを記念して、仮住まいをしたのですが、その仮住まいを作る材料がこのナツメヤシの枝だったのです。祭りのために用意していたので、皆の家に保存されていたのです。それでこの時すぐに持ちだして主イエスを迎えたのです。

黙示録にもナツメヤシの枝が出て来ます。それを持って、神の救いを誉め歌う讃美をささげています。手にナツメヤシの枝を持ち、大声でこう叫んだ、「救いは、私達の神と、子羊のものである。」(黙示録7:9~10)ナツメヤシの花言葉は、勝利・成功、です。皆、手にナツメヤシを持って、神の勝利を叫ぶのです。小羊なる主キリストの勝利を大声で叫ぶのです。

 

エルサレム入城の時には「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」、と叫び続けたのです。

皆さん、最近叫んだことありますか。一番ありそうなのは、叱る時。それから、危ない!と注意する時。それから、ひどく驚いた時。競技や試合に勝った時も。どの場合であっても、叫ぶ時には大きな力が要ります。たとえ一瞬の場合でも、全力を出すのが叫ぶという事です。この群衆は叫び続けたのです。全力を出し続けたのです。

ホサナとは祈りの言葉です。詩編で祈りとして歌われています。どうか、私達に救いを、と祈られています(詩編118:25)。ホサが「救いを」、ナが「どうか~して下さい」という意味です。

では、この時群衆は、何からの救いを叫び求めたのでしょうか。イスラエルの王、と呼び掛けた時、この王にどんな救いを叫び求めたのでしょうか。ローマからの解放を求めたのです。主イエスが飼い葉桶に寝かせられたのは何故だったか。人口調査をするのに出身地で登録するためでした。誰の命令で起こったのか、皇帝アウグストゥスです。どこの皇帝か、ローマの皇帝です。人口調査は何のためか、税金を取りたてローマに送るためです。税を取りたてる徴税人が罪人とされた。ローマに仕え、ローマの手先となっていたからです。

 

ラザロに甦りをお与えになった程の方なら、新しいイスラエルの王としてお迎え出来ると思ったのです。ユダヤの人達は甦りを聖書から学び、信じていたのです。エゼキエル書の枯れた骨の復活の預言を思い出してもいいでしょう。短く、イザヤ書を読んでみます。あなたの死者が命を得、私の屍が立ち上がります様に。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。(イザヤ26:19)こうして神が預言して下さっていることを受け止めていました。その預言が今実現されたと思い、ラザロを甦らせた主イエスを新しいイスラエルの王としてお迎えしたのです。

この方こそローマの支配から解放して下さる、もうローマに税金を納めなくてよい、ローマの総督もローマの兵士たちもローマに追い返すことが出来る、と喜んで群衆は枝を持ち、ホサナと叫んだのです。

ところが、主イエスは、戦うための馬ではなく、平和を表すロバに乗って来られます。イエスはロバの子を見つけて、お乗りになった。聖書の預言の実現として、ロバの子にお乗りになった。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がお出でになる、ロバの子に乗って。

聖書の世界では、ロバは身分の高さ、貴さを表す乗り物でした。英語では、馬鹿・間抜け・頑固者を表しますがそれと反対です。古代ユダヤの初めの王サウルの息子メフィボシェトがいました。ダビデ王への贈り物にロバがありました。それは王様のご家族の乗用に、と言って贈られたのです(サムエル下16:2)。

 

何より大事なのが、戦争の時王は馬に乗り、平和な時はロバに乗るということでした。ロバに乗ることは、今平和だと示すことでした。今から平和を作るのだと示すことでした。これから戦争を始めようという時王は馬に乗る。戦争が終わった時、王はロバに乗る。平和の王として主イエスは預言されていました。一人のみどりごが私達のために生まれた。その名は「平和の君」と唱えられる(イザヤ9:5)。

群衆の願いと主イエスの願いとが大きくずれていることに気付けるだろうか。群衆は、主イエスに、軍馬に乗って欲しかった。戦争を始めて、ローマからの解放を勝ち取る王を期待した。しかし主イエスは、戦争ではなく平和を実現していく王として進まれた。

自分たちの願う王を求めるのか、主イエスの目指す王を求めるのか、そのどちらを採るのか問われています。

馬に乗る王を求めますか。ロバに乗る王を求めますか。

 

ホサナと呼び掛けられる主イエスはこの先どこに進まれるのでしょうか。行きつく先に、主の身に何が起きるのでしょうか。弟子達は最初これらのことが分からなかったとあります。やがてイエスが栄光を受けられた時、それがイエスについて書かれたものであり、人々がその通りにしたという事を思い出したのです。私達も知っています。

主イエスが栄光をお受けになるとは、救い主としての使命を果たして父なる神から栄光をお受けになることです。救い主としての使命と他人ごとの様に言いましたが、これは私達の問題です。私達のための出来事です。私達の罪に対する刑罰を代わりに負って下さることです。罪との闘いです。私達の罪がもたらした死という裁きを代わって引き受けて下さることです。死の闇との戦いです。主が十字架にお掛かりになった、とはそういうことです。この十字架に向かって進まれるのです。これが私達の救い主なのです。

それはどれ程のお苦しみであったのでしょうか。私達の罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担おうとされる苦しみでした。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴る様に地面に落ちた(ルカ22:44)、そういうお苦しみであった。真の神であられる主イエス・キリストだけが担える苦しみであった。これが私達の救い主なのです。

 

ここでもう一度ホサナという祈りの言葉に戻ります。どうか、私達に救いを下さいという祈りだと聴きました。もう一つ意味があるのです。それは王のための願いです。詩編20編10節を読んでみましょう。主よ、王に勝利を与えて下さいと歌っています。これもホサナです。

群衆と共に、どうか、私達に救いを下さいと祈りましょう。

そして更に、主の十字架を知っている者として、我等の主に勝利を与えて下さいと祈りたい。栄光の主に結び付けられた信仰者としてほめたたえる声を届ける。主の十字架を救いの拠り所としているクリスチャンとして讃えるのです。勝利の王を信じるキリスト者として、心の中にナツメヤシの枝を持ち、二つの意味のホサナを祈る者となります。

 

 

天の父、自分の願いと主イエスの願いとが大きくかけ離れていることを示されました。どうか、自分の願いでなく、主イエスの願い、神の願いを求め、行う私達として下さい。主の十字架のお苦しみによって神との平和を与えられていることを感謝する「ホサナ」と祈る生き方をお与え下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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