10月18日 「近づいてくださる主イエス」 伝道師 金井恭子
イザヤ書61:1-3
マルコによる福音書1:35-39
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスはなぜ、まだ暗いうちに起きて、人里離れたところへと行かれたのでしょうか。
会堂で教えられた後、主イエスはペトロの家に行き、熱で寝ていたペトロのしゅうとめを癒やされました。その後、主イエスの噂を聞きつけた人々が、ペトロの家の戸口まで押し寄せたことが記されています。主イエスは、大勢の人々を癒やし悪霊を追い出されました。前日の夕方から、大勢の苦しむ人々に向き合っておられたのです。そして翌朝、まだ夜の明けきらないうちに、人々から離れ、静かな場所へと出ていかれました。そこには、人々の求めや期待からいったん離れ、ただ父なる神に祈られる主イエスのお姿がありました。
しかし、シモンとその仲間が主イエスを見つけ、こう言います。「みんなが捜しています」。昨晩のうちに癒やしてもらえなかった人々が、今日こそは主イエスに願いを聞いてもらおうと、やって来ていたのでしょう。弟子たちもまた、主イエスを待っている人々のことを考え、「こんな人里離れたところで祈っておられる場合ではない。早く戻って、待っている人々を癒やしていただかなくては」。という思いがあったのではないでしょうか。けれども、主イエスは戻られませんでした。
主イエスは暗闇の中で父なる神に祈られました。何を祈られたのか、聖書は詳しく語っていません。しかし、主イエスが父なる神との交わりの中に生き、その御心に従って宣教の道を歩まれたことは、この箇所からも示されています。ここで注目したいのは、主イエスが祈られた場所です。「人里離れた所」と訳されている言葉は、マルコによる福音書1章では「荒れ野」とも訳されている言葉です。以前ご一緒にお読みした1章3節には、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」とあります。また4節には、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れたこと、12節には、霊がイエスを荒れ野へ送り出したことが記されています。
旧約聖書において荒れ野は、イスラエルの民が試練を経験した場所でした。しかし同時に、神に養われ、神の言葉に聞き従うことを学んだ場所でもありました。主イエスは、人々の求めからいったん離れ、その場所で父なる神との交わりの中で祈られました。そして、一つの町に留まって人々の求めに応え続けることだけがご自分の使命ではないとお考えになったのです。そして主イエスは、「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われました。
主イエスが来られたのは、一つの町の人々の求めに応え続けるためだけではありません。さらに多くの人々に神の国の福音を宣べ伝えるためだったのです。本日、旧約聖書でご一緒にお読みしたイザヤ書61章には、貧しい人々に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、捕らわれている人に解放を告げるという、神の救いの約束が語られています。主イエスが病む人々を癒やし、悪霊に苦しむ人々を解放し、神の国の福音を宣べ伝えられた御姿には、この神の救いの約束が示されています。
主イエスは、人々の苦しみを軽んじられたのではありません。病に苦しむ人々に近づき、その苦しみを受け止め、癒やしと解放をもたらされました。しかしその救いは、目の前の問題を解決することだけにとどまりません。主イエスは、私たち人間を罪と死の力から解き放つためにも来られたのです。
私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、苦しみや悲しみ、さまざまな困難に遭います。そして、その解決と癒やしを主イエスに願い、祈ります。「この病を癒やしてください」「この苦しみから解放してください」「この家族が信仰を持つことができますように」。私たちは切実な願いを携えて、主のもとに行きます。そして、そのように願うことを、主イエスは決して退けられません。しかし、私たちの信仰には、気をつけなければならない危険があります。それは、主イエスを、自分の願いをかなえてくれる方として求め、いつの間にか自分の願いに従わせようとしてしまうことです。主イエスを、自分にとって都合のよい存在としてしまうことには注意をしなければなりません。さらに注意しなければならないのは、主イエスが私たちの願いに応えてくださるかどうかによって、主イエスを信じるかどうかを決めてしまうことです。願いがかなえられれば、神様は確かにおられると思う。けれども、願っても願っても状況が変わらなければ、神様は私たちを見捨てられたのではないかと思う。そのとき、私たちは知らず知らずのうちに、自分の願いを中心にして神様を測っています。神様が自分にとって益をもたらしてくださる方であるかどうかを基準に、信仰を判断してしまうのです。そこには、自分自身が主人となり、神様さえも自分の思いに従わせようとする私たちの罪があります。
主イエスは、私たちの願いをかなえるためだけに来られた方ではありません。人々の苦しみを癒やすことは大切です。しかし、それだけで人間の救いが完成するわけではありません。病が癒やされても、私たちはなお死を免れることができず、神から離れてしまう罪の問題も残されています。主イエスは、その罪から私たちを救い出すために来られました。そして、その道の先には十字架がありました。
ゲッセマネで祈られた主イエスは、迫り来る苦しみを前に、「わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました(マルコ14:36)。あの朝の祈りから、十字架を前にした祈りに至るまで、主イエスは父なる神の御心に従って歩み続けられたのです。人々の苦しみを憐れみながらも、その場の要求だけにとどまることなく、神の救いの御心を実現するために歩まれた主イエス。その御姿に、私たちは本当の救い主のお姿を見るのです。
私たちにも、祈り続けている家族がいるのではないでしょうか。主イエスを信じてほしいと願っている家族。苦しみの中にあって、何とかその苦しみから解放されてほしいと願っている家族。長い間祈り続けてきたけれども、なかなか状況が変わらず、もう祈っても仕方がないのではないかと、半ば諦めかけている家族もいるかもしれません。あるいは、かつては熱心に祈っていたのに、いつの間にか祈ることさえ忘れてしまった人もいるでしょう。私たちの祈りは弱くなることがあります。願いがかなえられないことに疲れ、希望を失い、祈ることをやめてしまうこともあります。私たちは、すべての人を覚え続けることができるわけではありません。
では、主イエスは、私たちが覚え続けることのできない人を忘れてしまわれるのでしょうか。私たちが祈ることを諦めてしまった人を、主イエスもまた諦めてしまわれるのでしょうか。そうではありません。主イエスは、私たちの祈りの強さや、私たちが人々を覚え続ける力によって人々を顧みてくださる方ではありません。主イエスご自身が、神の御心に従って、救いの知らせを携え、人々のもとへ向かわれる方だからです。
私たちがまだ祈っている家族も、祈ることを諦めかけている家族も、いつしか忘れてしまった家族も、私たちの思いの届く範囲だけに生きているのではありません。その人々にも、主イエスの御心が向けられているのです。だからこそ、私たちはもう一度祈り始めることができます。自分の願いどおりに事が進むと確信できるからではありません。自分の祈りが強いからでもありません。私たちの願いを超えて、神の救いの御心が働いていることを信じるからです。
「近くのほかの町や村に行こう」と言われた主イエスは、ご自分を求める人々のもとを離れ、さらに多くの人々へと向かわれました。まだ福音の知らせを聞いていない人々のもとへ、救いの知らせを携えて歩まれたのです。その主イエスが、今も私たちと共にいてくださいます。私たちが目の前の問題に心を奪われ、神の御心を見失うときにも、祈り続けることに疲れ、誰かの救いを願うことさえ諦めてしまうときにも、主イエスは私たちを見捨てられません。そして、私たちが思いを向けることのできない人々をも、顧みてくださいます。だからこそ、私たちは新しく祈り始めることができます。自分の願いを神様に押し通すためではなく、神様がすでに顧みておられる人々を、私たちも覚えるために。そして、神様がその人々に向けておられる救いの御心に、私たちも心を合わせていくために。
主イエスは、私たちの願いをかなえるためだけに来られた方ではありません。私たちが自分の思いだけでは見いだすことのできない、本当の救いをもたらすために来られた方です。その主イエスが、私たちのもとに近づいてくださり、また私たちの思いが届かないところへも向かってくださいます。
この主イエスを信じ、祈りに支えられながら、私たちもまた、神様の救いの知らせを携えて歩んでいきたいと思います。
父なる神様。
私たちの願いを超えて、救いの御心をもって私たちに近づいてくださる主イエスに感謝いたします。
私たちは、自分の願いがかなえられることを求め、思うように状況が変わらないときには、祈ることに疲れ、希望を失ってしまうことがあります。どうか、そのような私たちを支え、あなたの御心を信じて歩む信仰をお与えください。
主よ、私たちが祈り続けている家族も、祈ることを諦めかけている人々も、あなたの御手の中にあることを信じさせてください。私たちが忘れかけている人々をも、あなたは覚え、顧みてくださいます。その恵みに信頼して、もう一度祈り始めることができますように。そして、私たち自身も、苦しむ人々に心を向け、あなたの救いの知らせを携えて歩む者としてください。
私たちの思いを超えて働かれる、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
