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10月19日 礼拝説教「福音は世界に向かう」

『詩編』47:1~5  

『ヨハネ福音書』12:20~26

 

祈ります。

天の父なる神様。主のもとにギリシャ人が訪れたこと、一粒の麦の譬の意味をお教え下さい。

主の御名によって祈ります、アーメン。

 

ギリシャの方を友達にお持ちの方はいますか。私は機会に恵まれて、今迄に、グリーンランド、チュニジア、ペルー、ウクライナ、イスラエルその他色々の国の方と出会うことがありました。しかし残念なことに、ギリシャの方とお会いする機会は未だありません。

ギリシャ人がと呼ばれる方達が、登場します。さて、祭りの時礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。彼らは、ガリラヤのベツサイダ出身のフィリポの許へ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

新約聖書の伝えるギリシャ人は今のギリシャの国の人だけではありません。新約時代のユダヤの人は、ユダヤ人以外の人のことをギリシャ人と呼んでいました。異邦人という呼び方もありました。北からの人も西からの人も、遠くから来た人も、ユダヤ人以外の人はギリシャ人と呼んでいたのです。ローマの信徒の手紙に、人類を二つに分ける呼び方が出て来ます。福音はユダヤ人を初め、ギリシャ人にも、救いをもたらす神の力です。(ローマ1:26)アテネではなく、ローマの教会に宛てて書いた手紙です。ローマの人もギリシャ人という枠の中に入っていたのです。

日本でも外国の方を、どこの国の方でも「外国人」とお呼びするのと似ています。

さて、そのギリシャ人が、つまり異邦人が何故主イエスと会いたいと願い出たのでしょうか。礼拝するためにエルサレムに来た人々とあります。この方達は、神殿に入ることが出来ましたか。ようやく一番外側の異邦人の庭に入れただけです。異邦人の庭と言えば、そこで商売をしている人達を追い出されたことがあります。その時主は言われました「私の家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」(マルコ11:17)

異邦人である自分たちも、この方によって確かな救いを受けることが出来ると思えたのです。

主イエスのみ言葉と御業の中には明確に異邦人も見えていたのです。世界で最初に主イエスを拝み、礼拝を捧げたのは誰でしたか。馬小屋に貧しい羊飼いたちがやってきました。み使いのお告げ通りだったので、神を讃美しながら帰って行き皆に伝えたのです。やがて、東の国から来た占星術の学者達がたどり着いて救い主に会えました、そこで学者達は、ひれ伏して幼子を拝んだのです。(マタイ2:11)主イエス・キリストを礼拝した最初の礼拝は異邦人達によるものでした。世界は初めから、主イエスに向かっていたのです。

このギリシャ人達は主に会えたのでしょうか。お会いできた、主から福音が聴けたと考えるのが自然です。但し、その出会いや挨拶、主のみ言葉は告げられていません。主イエスは、ギリシャ人が来たと聞くと、いよいよ主の時が来たと確信しました。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

今迄は、母マリアからぶどう酒の相談を受けた時、「私の時は未だ来ていません。」(ヨハネ2:4)又、弟達家族から都に出て有名になって欲しいと告げられた時も、「私の時は未だ来ていない。」(ヨハネ7:6)と言われました。

しかし今、ギリシャ人が訪れて来たとお聞ききになると栄光を受ける時が来たと言われました。主イエスがロバに乗って来られた時も「イエスが栄光を受けられた時」と告げられていました。その栄光を受ける時が来たと言われるのです。私達の罪の贖いをされるという救い主の使命を果たされて父なる神から栄光を受ける時です。ギリシャ人の訪問と、主イエスの十字架は強く結び付いていました。十字架による救いは、初めからギリシャ人の救いをも包んでいたのです。ギリシャ人の救いが見通せた時、今こそ十字架の時だと確信できたのです。ギリシャ人の救いとは世界の救い。

ユダヤ人以外の人のことをギリシャ人と呼んでいたと言いました。この教会に集められている私達もこのギリシャ人と言われる人に入っているのです。つまり、私達の救いを見通された時、主イエスは十字架に進み始められたという事なのです。

 

主イエスの十字架による救いの御業が、麦の譬で教えられています。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。これが麦のお話であると共に主の十字架のお話でもあることは「死ぬ」という言葉が繰り返されていることから推測できます。発芽する時の種は、根と新芽に変わるのです。それを麦粒が死ぬと言われています。命を落とすということです。弟子のペトロが、主イエスなど知らないと三度も言ってしまうと告げられた時、気色ばむように答えたことがあります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)主イエスと共に死ぬことになっても、と言っています。この死ぬという言葉が、麦が死ねば、多くの実を結ぶというところで使われているのです。

麦の発芽は、種として死ぬと説明します。それは主イエスが、十字架の死を負われたことを表します。貴い命が捧げられた事を表します。私達の罪の受けるべき死という裁きを代わりに受けて下さったことを表します。

 

その結果多くの実を結ぶとなる、と主は言われる。麦の種が死ぬことで終わらない、と言われるのです。実りを目指して種を蒔くように実りを目指して十字架の死を負われたのです。主の十字架は、大豊作に向かっているのです。豊かな収穫を約束されているのです。それはどんな実りでしょうか。十字架は何を生み出すのでしょうか。 

主の十字架が、一番早く最初に生み出した実りは何でしたか。

一番早く、と言いましたが、それは主が十字架にお掛かりになったその時から見て、のことです。

では、十字架にお掛かりになる前の、御業は、十字架と関りがないのでしょうか。サマリアの女性に「私の与える水は泉となり永遠の命に至る水が湧き出る」と仰った(ヨハネ4:14)、なぜそう約束され得たのか。主がやがて十字架において死に打ち勝ち、神の命をお与え下さることを見通しておられたからです。姦通の現場を押さえられ連れて来られた女性に「私もあなたを罪に定めない」と仰った(ヨハネ8:11)、なぜその罪の赦しをお与えになることが出来たのですか。主がやがて十字架においてその罪の贖いとして命を差し出されることを見通しておられたからです。神の命や罪の赦しという、十字架が生み出す実りを十字架に先立ってお与えになられたのです。

十字架と関りがない主の御業はないのです。

 

では改めて、主の十字架の後で十字架が一番早く、最初に生み出した実りは何で、誰に与えられましたか。主のご遺体をわざわざ許可を得て十字架から降ろし、丁寧にお墓に納めたアリマタヤのヨセフも候補に挙げていいでしょうか。主にお仕えする奉仕をささげる信仰という実りを与えられたのです。または、主イエスが甦りになった直後に空の墓に入った、マグダラのマリアとペトロともう一人の弟子この三人に与えられた実りでしょうか。三人は主の復活を信ずる信仰という実りを受け取ったのです。

この人達よりも早く実りを与えられた方がいます。その名前は伝わっていません。天にはその名が刻まれていることでしょう。

主は未だ十字架の上でした。主イエス以外に、二人の犯罪人が十字架に掛けられていました。一人が、主に語り掛けました。「御国においでになる時には、私を思い出して下さい。」するとイエスは、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)との約束のみ言葉をお語りになったのです。このお約束が、最速の実りでした。一緒に楽園にいるという約束を受け取ることが出来ました。主が共にいて下さるという実りがそこで結ばれたのです。

 

さあ!私達にも、この十字架の実り、多くの実りがあることに気付きましょう。アリマタヤのヨセフだけではない、マグダラのマリアだけではない、私達の中に実る多くの実りです。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至るというのです。永遠の命に至るという祝福が私達の内で豊かに実ると主は約束して下さるのです。

永遠の命を頂くというだけでない、その命で生きていくことでもあるのです。神の命が、私を生かし、動かして下さる。神の命を頂いて、私達は考え、決断し、未来を見定め、希望を抱き、確信する。

多くの実を結ぶ一週間にしましょう。

 

 

天の父、御子イエス・キリストが十字架に進まれたことの中に、私達の救いが見通されていたことを告げられました。心より感謝致します。どうか、十字架が与えて下さる豊かな実りを信じ、受け取ることが出来ます様に。神の命を頂いて、考え、決断し、未来を見定め、希望を抱き、確信する信仰の生き方をする者として下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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