10月25日 「よろしい。清くなれ」 伝道師 金井恭子
レビ記13:45-46
マルコによる福音書1:40-45
「御心ならば、わたしを清くおできになります」。
私はかつて、この箇所を読むたびに違和感を覚えたものでした。私が10代の頃には、まだ新共同訳聖書は世に出ておらず、新改訳聖書で読んでいました。そこには「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」とありました。主イエスの癒しを求めてやって来る他の人々とは違う、何か遠回しな願い方に、当時の私は非常に違和感を覚えたのです。この人には、そんな余裕などあるはずもないのに、なぜこのような言い方をするのだろうか、と。
けれども後に、この言葉の背後には、神から与えられた律法によって生きてきたユダヤの民の長い歴史と、重い皮膚病ゆえに、その共同体から排除された人の深い絶望があることに気づかされました。
「癒すことがおできになります」ではなく、「清くすることがおできになります」と言っているところに、この人が単に病を患っている人ではなく、「汚れた者」とされてきたことが表れています。先ほどお読みしましたレビ記13章45~46節には、「重い皮膚病にかかっている患者は、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と記されています。他の病や障がいの場合には、家族や友人との交わりによって慰められることもあったでしょう。しかし、この人は人々との交わりから切り離され、近づくことさえ禁じられる生活を強いられていたのです。
私たちが読んでいる新共同訳聖書では「重い皮膚病を患っている人」と表記されていますが、古い版では「らい病を患っている人」と訳されていました。新改訳聖書でも「らい病人」と表記されていました。今日、ハンセン病と呼ばれているこの病気は、かつては不治の病と恐れられ、患者やその家族は厳しい差別を受けてきました。しかし、今日では聖書に記されている病が、ハンセン病と同じものではないと考えられていることから、この病名を通して誤った理解や偏見を生まないようにとの配慮もあり、新共同訳では「重い皮膚病」と訳され、聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されています。
実は40年ほど前、ハンセン病がまだ「らい病」と呼ばれ、恐ろしい不治の病という認識や差別意識が今よりも色濃く残っていた頃、大学1年生だった私は、クラスメートに誘われて、島にある療養所へ奉仕に行くための準備会に出席していました。ところが、そのことを知った母に激しく反対されました。「これから結婚や出産をする女性が、もし感染してしまったら、人生が台無しになるんだ」と言われたのです。私は、すでに特効薬による治療が行われ、治る病気になっていること、治療中の人や回復した人と接触しても感染する恐れはないこと、しかも、直接接触することなく、土木作業の手伝いに行くだけなのだと説明しました。しかし、母の理解を得ることはできませんでした。そして、それ以上親子喧嘩をしてまで行く勇気もなく、結局、島に渡ることを断念してしまったのです。その後、療養所の人々の手記や詩を読む機会はありましたが、仕事や家庭生活に追われるうちに、いつしかそのことを忘れていました。
ところが、何十年も経ってから、思いがけない機会が与えられました。神学校に入学する少し前、教会学校の遠足の下見で、群馬県草津市にあるハンセン病療養所の歴史資料館を訪れることになったのです。そこには、過酷な労働や日常生活の制限、断種手術や厳しい懲罰に関する資料や写真、独居房の跡などがありました。1931年の「癩予防法」によって強制隔離政策の対象が大きく広がり、患者たちは家族から引き離され、多くの人々が社会から隔絶された療養所で生涯を終えました。過酷な差別のために家族からもその存在を隠され、亡くなってもなお、墓石に本名を刻むことさえできなかった人々の人生を垣間見て、胸の詰まる思いがしました。
1953年に制定された「らい予防法」でも、強制隔離の政策は維持されました。すでに治療法が進歩していたにもかかわらず、患者たちは長く隔離され続けたのです。全国ハンセン病患者協議会をはじめ、多くの人々の長年の努力を経て、ようやく1996年にこの法律は廃止されました。そして、日本基督教団は1997年、私たちキリスト者が長年、正しい理解を持とうとせず、誤解や偏見、差別を見過ごし、患者の人権を否定し続けたことを謝罪する声明を出しました。私もまた、その謝罪を、自分とは無関係な過去の出来事としてではなく、自分自身にも関わるものとして受け止めています。
そのような厳しい状況の中にも、救いを感じさせるものがありました。それは、ハンセン病療養所に患者同士の共同生活があり、宣教師とその協力者たちの愛と働きがあったということです。それと比べると、今日の聖書箇所に登場する重い皮膚病の人の孤独は、どれほど深いものだったのでしょうか。宿営の外で独りで暮らし、人に近づくことがないよう「わたしは汚れた者です、汚れた者です」と呼ばわりながら歩かなければならない。生活に必要なものをどのように得ていたのか、どのような思いで日々を過ごしていたのか。その孤独の極みと苦しみを、私たちは軽々しく想像で語ることはできません。
そのような人が主イエスのもとに来て、ひざまずき、こう願いました。「御心ならば、わたしを清くおできになります」。「御心ならば」の元の言葉は、「もしあなたがお望みになるならば」という意味です。聖書協会共同訳では「お望みならば」と訳されています。人々から汚れた者とされ、近づくことさえ避けられてきたこの人は、自分の願いを主イエスに申し出てよいものかという不安を抱いていたのかもしれません。しかし、これは単に遠慮深く、ためらいがちな願いではありません。この人は、主イエスには自分を清くする力があると信じていました。「あなたがお望みになるなら、私を清くすることがおできになります」と、主イエスに望みを託したのです。そして、彼はひざまずきました。人々が集まって礼拝する聖なる場所に入ることも許されなかったこの人の、礼拝する姿とも言えるでしょう。そして今、主イエスの御前にひざまずき、絶望も、不安も、悲しみも、そのすべてを主に委ね、自分自身を差し出している姿のように思えます。
当時、重い皮膚病の人が回復するのは死人が蘇るよりも難しいとされていました。そして、彼らに触れるのは、死体に触れるのと同様の汚れを生むとされていました。しかし、主イエスはそのような病人に触れて、深い憐れみを示されました。この「憐れみ」という元の言葉は、人間の内臓を表す言葉と関係があり、内側から激しく心揺さぶられる様子を表しています。この言葉を「怒り」と解釈する説もあるのですが、私は、この人をこのような目に合わせた病や、孤独を引き起こした社会への憤りが混じり合ったようなお気持ちであったのではないかと感じるのです。
主イエスはためらうことなく、この人の願いに応えられました。「よろしい、清くなれ」の「よろしい」の元の言葉は、「私は望む」「私はそうしよう」という意味です。新改訳聖書では「そうしてあげよう、きよくなれ」と訳されています。主イエスは、ご自身の権威によって「清くなれ」と語り、清められることができるお方です。死んだように生きるしかなかった人が、主イエスに清められたことで、神の民の一人としての人生を取り戻すことができた。私たちはここに、十字架へと向かわれる主イエスのお姿を見ます。主イエスは、私たちの罪と汚れに触れ、それを引き受けてくださるお方です。人々が避けるものを避けず、苦しむ人に近づき、その苦しみを担ってくださる。その主イエスの愛は、やがて十字架において、決定的な形で示されるのです。
主イエスはさらに、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく命じられました。それは、癒やしの噂が広まって群衆が押し寄せることを避けるためだけではなかったでしょう。主イエスが来られた目的は、病を癒やす奇跡を行うことだけではなく、人々を神の救いへと導き、新しく生きることができるようにすることにありました。病の癒やしや悪霊を追い払う奇跡だけが人々の関心の中心になってしまえば、主イエスがもたらそうとしておられる救いを見失わせることにもなります。人々は目に見える奇跡を求めます。自分の利益となること、自分の願いがかなえられることの方が、分かりやすく、ありがたく感じられるからです。
しかし、主イエスによって清められたこの人は、主の命令に従わず、自分の身に起こったことを大いに言い広めてしまいました。汚れた者とされ、人と話すことも触れ合うことも許されなかった人が、清められ、人間としての尊厳と交わりを取り戻したのです。その喜びを語らずにはいられなかった気持ちは、私たちにも想像できます。しかし、その結果、大勢の人々が集まるようになり、主イエスは公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられることになりました。ここに、私はこの物語の深い意味を見るのです。本来、汚れた者とされていた人が暮らしていたのは、町の外でした。しかし今度は、主イエスが町の外におられるのです。主イエスは人々が近づこうとしない場所に立ち、排除された人の苦しみを担われる。ここに、私たちの救い主のお姿があります。
私たちの地上での歩みもまた、罪と汚れの中にあり、苦しみや悲しみ、争いが絶えることがありません。人間の知恵や努力では、どうにもならないこともあります。そのような追い詰められたときに、「主よ、すべてをお委ねします。どうかお救いください」と願うことは、私たちにもできるでしょう。けれども、そこまで追い詰められる前から、主に信頼して歩んでいるでしょうか。自分の力で何とかしようとし、自分の知恵や努力を頼りにして生きていこうとすることが多くはないでしょうか。「御心ならば、わたしを清くおできになります」。この言葉は、単に「もしよろしければ」という遠慮がちな願いではありません。自分の力ではどうにもならない現実の中で、それでも主イエスには望みがあると信じ、主にすべてを委ねる信仰の言葉です。私たちもまた、日々の歩みの中で、このように主に信頼して生きる者でありたいと思います。
私たちが自分の罪に苦しみ、悲しみや苦しみの中で立ち尽くすときにも、主イエスは私たちを見捨てられません。私たちが希望を失いそうになるその場所にまで来てくださり、私たちの苦しみを担ってくださるのです。「よろしい。清くなれ」。この言葉を語り、私たちの苦しみを引き受けてくださる主イエスを信頼して、歩んでいきたいと思います。
憐れみ深い天の父なる神さま。
人々から遠ざけられ、孤独と苦しみの中にあった人に近づき、「よろしい。清くなれ」と語られたあなたの愛に感謝いたします。
私たちもまた、自分の力ではどうにもならない現実の中で、あなたに信頼し、すべてを委ねて歩むことができますように。また、苦しむ人、孤独の中にある人、社会から排除されている人々の痛みに心を寄せ、あなたの愛をもって隣人に仕える者とならせてください。
私たちの苦しみを担い、希望を失いそうになるときにも共にいてくださることに感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
