10月26日 「十字架を目前にしての主の祈り」
- 教会 松本東
- 11月1日
- 読了時間: 6分
『レビ記』9:1~6
『ヨハネ福音書』12:27~36
祈ります。
天の父、私達の救い主が、私をこの時から救って下さいと祈られたこと、私はこの時のために来ましたと祈られたことの意味を教えて下さい。
主の御名によって祈ります、アーメン。
ある時弟子達は、私達にも祈りを教えて下さいと願い出ました。祈りは自然に捧げられるようになるとも言えますが、反対にどういう風に祈るのか分からないという事も言えます。特に人の前で祈るという時、祈りを捧げるお相手の主なる神のことよりも、回りにいる人のことが気になるというのはよくあることです。しかし、祈りは救いを受けた者のなす呼吸みたいなものです。息は吸ってそして吐く、似ていて神のみ言葉を聴いて、それに応えることです。神の御心を知らされて、そのみ心に従います、と言って応えることです。御心に従える者として下さいと願うことです。
弟子達の願いに基づいて教えられたのが主の祈りです。礼拝毎に教会の祈りとして捧げています。今日はそれと様子の違う主の祈りを聖書は伝えています。
「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わして下さい。」
私は心騒ぐと言われました。最後の一週間が始まるこの時、主の心は、揺れ動いていると言われました。
ベトザタの池に38年もの長い間病気に苦しむ人がいました。水が動く時池に入れば癒されるのです。一人では動けずにいて、他の方が先に池に入ってしまうという事でした。主イエスの言葉によって、直ぐに良くなり歩き出したのです。(ヨハネ5:1~9)
この、池の水が動く、動いて揺れる、と表された言葉が使われて、私は心騒ぐと言われたのです。主の心は、揺れ動いていると言われます。池の動いた水が波を立て、行ったり来たりする様子を思い出すといいでしょう。揺れ動く主の心がよく分かります。二つの祈りをささげておられます
第1は父よ、私をこの時から救って下さいという祈りです。この時とはどんな時でしょうか。第2の祈りで、私はこの時のために来ました、と言われています。どちらもこの時となっています。この時とは何でしょうか。この時から救って下さいとなっています。救って下さいとは、どういう祈りでしょうか。
今日読みましたみ言葉は、「ヨハネのゲツセマネ」と呼ばれたりしています。マタイやマルコ、ルカが告げているゲツセマネの伝えることと同じ主の祈りです。十字架を前にしての主の祈りです。他の福音書にも助けてもらって、この「ヨハネのゲツセマネ」のメッセージを聴き取っていきましょう。
この時とは、この時に起こるこということです。これから主イエスの身に起こることということです。時間の話ではない。出来事の話です。主イエスにどういう事態が起きるのかという事です。救い主本人が、この事態から救い出して下さいと祈られるほどの事態です。この祈りを捧げられる主イエスの心は、死ぬばかりに悲しむ思い・ひどく恐れる心・寂しさと苦しさで、もだえる思いになっているというのです。
その主の様子をルカは次の様に告げています。苦しみもだえ、汗が血の滴るように落ちた。人の苦しみの極限を示しています。もだえるほどにお苦しみになりました。七転八倒するような痛みや苦しみを覚えたことがありますか。主はここで苦しみのあまり、その心は七転八倒されているのです。悲しみや苦しみの汗をぽたぽたと落としたことがありますか。主のみ顔から汗が血の滴るように落ちているのです。
これ程のお苦しみを覚えられる事態とは、一体何か。十字架の死を引き受け、担われる事態です。十字架の死とは一体、何であったのか。その答えを、聖書は沢山持っています。主の十字架の意味はとても豊かなものです。多くの意味を持っています。罪の贖い、罪の償い、悪に対する勝利、神との和解、罪の赦しのための犠牲、罪に対する刑罰、罪に対する呪い、罪に対する裁きです。
朗読したレビ記では、主が十字架においてお受けになった死は、贖罪の献げ物、和解の献げ物と指し示しています。後になって、ペトロはそれを証明するように手紙にこう書きました。むなしい生活から贖われたのは、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです(Ⅰペトロ1:18)。
罪に対する呪いと聴きました。これもパウロが証明するように手紙にこう書きました。キリストは私たちの為に呪いとなった。「木に掛けられた者は皆呪われている」と書いてあるからです(ガラテヤ3:13)。
私をこの時から救って下さいという祈りは、十字架の死を引き受けなくてもいいようにして下さい、という祈りです。これは苦しく悲しいのです。寂しく、恐ろしいのです。十字架を担わなくてもよいとおっしゃって下さい、この務めから解放して下さい、主はそう祈られたのです。
しかし、私はこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わして下さい。第2の祈りをお捧げになりました。このしかしは、たいへん重い「しかし」だと教えられました。確かにその通りです。
AしかしB、という時AとBは普通、反対のことを言います。二つのお饅頭がある。このお饅頭は赤い、しかしあのお饅頭は白い。この場合は、反対を表す「しかし」です。ではこの場合はいかがでしょう。君の意見は正しい、しかし私の意見を付け加えたい。これは、意味を深める「しかし」となっていませんか。
主は、祈りを深められたのです。深められて私はこの時のために来たのです、と祈られたのです。十字架の死を引き受け、担うために来ました、と祈られたという事です。
この主の祈りの中にある十字架の時のためにと言われる「ために」という言葉に注目します。直ぐに分かるのは「目的」を表す言葉だという事です。十字架を目的として、この時のために来ましたと祈られたと受け止めていいのです。
そういう目的に加えて「利益」という意味も表すのです。「利益」という意味で使われている「ために」は、このように出てきます。安息日は、人のために定められた(マタイ2:27)。人の利益になるように、です。人の生き方を生かすために、です。人が生きるために、です。この意味で十字架のためにと言われる主のみ言葉は、十字架が私たちの為に利益になると受け止めることになります。利益では誤解されますね。十字架が生き生きと働きかけて下さるというのです。十字架の中に、命をも見出すことが出来るのです。
十字架の死を引き受けなくてもいいようにして下さい、この悲しく苦しい務めから解放して下さいという祈りが許されていることを覚えたい。弱さをそのままに祈ることが許されています。
詩編はこう祈ります。主よ、癒して下さい、私の骨は恐れ、私の魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう(詩編6:3~4)。
神のお定めになった目的と私を生かして下さる御業を求める第2の祈りへと深められなさいと勧められました。ヨハネはその祈りは皆の栄光を現わして下さい、と伝えてくれます。マルコは、御心に適うことが行われます様に、だと伝えてくれます(マルコ14:36)。
弱さをそのままに祈り、そして深められて、御心を求める祈りを献げる一週間にしましょう。
天の父、み子イエスのお苦しみ、恐れ、悲しみ、寂しさの原因が私達の罪であることを鮮やかにお示し下さい。自分の罪がなかなか分からないからです。第1の主の祈りの様に、私達の弱さを率直に祈る者として下さい。そして深められてあなたの御心を祈り求める者として下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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