10月4日 「主イエスの代わりに生かされたバラバ」 牧師 伊藤節雄
『イザヤ書』53:3~5
『ヨハネ福音書』18:38~40
祈ります。
天の父 バラバを釈放するように叫ばれたことの意味をお教え下さい。
主の御名によって祈ります。アーメン
ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは何を質問したのでしょうか。そもそもこれは質問なのでしょうか。「何ですか」という問い尋ねる言葉もあります。疑問符、クエスチョンマークもあるのです。しかし、先を読んでみるとどうもこれは質問とは言えないようです。第一に、主イエスは返事をなさっていない。こんなに大事だと思える質問にお答えになっていません。第二に、この後ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人達の前に出て来て言った、と続いています。そこには主イエスのお答えを待つ思いが感じられません。「真理とは何か。」と言ったのに、お答えも待たずさっさと振り向いてユダヤ人達の前に出て来ているのです。
主イエスが何もお答えになっていないことから、質問というよりも、質問の形をしたピラトの思いを伝えている言葉だととらえましょう。真理とは一体何だろうかと、ピラトが自分の中で考えて、それが分からないので独りごとのように声に出てしまったと考えてもよいでしょう。
これがピラトと主イエスとの出会い方だったのです。ピラトは主イエスに何の罪も見出せないのです。「私はあの男に何の罪も見出せない。」と言っています。主イエスに罪を見出せない、むしろその教えの中に何か真理があるのではないのか、と思う。しかし、自分はそれを未だ見い出してはいない。「真理に属する者は皆、私の声を聞く。」とこの方は言われた(37節)。しかし私はこの方の声を本当の意味では聞いていない。聞こうとしていない。自分は真理に属していないと考える。真理が分かっていないのだから。そこからこの問いのような言葉が出て来たのです。「真理とは何か。」
本来、主イエスは質問にお答え下さる救い主です。福音書には主イエスに質問した方が沢山出て来ます。お願いの形で質問した方もいます。祈りの思いで質問した方もいます。二、三例を挙げられるでしょうか。ヨハネ福音書4章にサマリアの女性の質問が告げられています。サマリアの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか、と主に問います(4:9)。すると主イエスは私が与える水を飲む者はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る、とお答えになりました(4:15)。同じくヨハネ福音書3章にニコデモが主に質問します。「年をとった者が、どうして生まれることがありましょう。」(3:4)。すると主イエスは水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない、とお答えになりました(3:5)。
主イエスに質問した方達の質問を自分の質問としてみるのです。自分がサマリアの女性やニコデモの身になって主に問うのです。自分の言葉に変えて質問することになるでしょう。「真の水は何でしょうか」、と問うことも出来るでしょう。「私が生まれ変わるとはどういうことでしょうか」、と問うことも出来るでしょう。そういう風にみ言葉を読み、主のお答えを読んでいくのです。主イエスは質問にお答え下さる救い主です。
さて宿題がありましたね。ピラトにまつわる面白い話のことです。この後に出てくるバラバについては実は記録がなく思い図ることは出来ません。しかし「真理とは何か。」と、少なくとも質問の様に聞こえる言葉を語ったピラトは、初めの教会の歴史に記録されて、伝えられているのです。ピラトはその後どうなったのか、という、かなり興味本位の事柄があるのです。
2世紀に活躍した方にテルトゥリアヌスという人が居ました。キリスト教の信仰を正しく守り、聖書を正しく読むことに取り組んだ人です。三位一体論を系統的の論じた最初の人です。『護教論』という本を書きました。日本語に翻訳されていて読めます。その中で、「ピラトはその良心においてキリスト者」と書かれています。言い伝えに拠るものですから、そのまま事実だと考えなくてもよいでしょう。
過越祭には誰か一人をあなた達に釈放するのが慣例となっている。あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか。すると、彼等は「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。(39~40節)ピラトは主イエスを釈放したかったのです。主イエスに何の罪も見出せない、と言っているとおりです。マタイとマルコは一体どんな悪事を働いたというのかと、群衆に問い質すほどです(マタイ27:23,マルコ15:14)。ルカではもっと分かり易くはっきりと言い切っています。「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」(ルカ23:24)。
ピラトは、自分の判断が正しさに立つことが出来ませんでした。勇気がなかったと言えましょうか。或いは、群衆の顔色を窺い、その反感を恐れたのでしょうか。ガリラヤの人々を殺して犠牲の捧げものに、その血を混ぜたほどの残忍さと権力が以前はあったそのピラトが、今ここでは群衆の大声に負けているのです。
もちろん声の大きさに負けたわけではありません。群衆は、ピラトの弱みを握っていたのです。それはローマの総督さえも脅されてしまう弱みだったのです。どんな弱みか。それは、ピラトを総督に任命したローマの皇帝に訴え出られること、その訴えが正しい時には総督の地位を失うことでした。実はこの後しばらくして本当にピラトはユダヤ人の暴動を引き起こしたかどで、皇帝ティベリウスによって総督の地位を失います。ローマに帰らざるを得なくなったのです。
群衆の大声は、声の大きさだけでなく、ピラトを脅す力の大きさでもあったのです。
「その男ではない。バラバを」と大声で言い返したのです。バラバは死刑を待つ囚人です。福音書からバラバについて分かることは4つあります。1、評判の囚人 2、強盗 3、暴動の参加者 4、殺人。何をしたかはこのように記されています。しかし生まれ育ちは書かれていません。そしてもっと不思議なことがあります。それはここで主イエスの代わりに死刑を免れたという重大な出来事が起きたにもかかわらずその後のバラバがどう生きたか、どういう人生を送ったかについては伝えられていないのです。
作家の豊かな創造力によって書かれた小説はあります。スウェーデンのノーベル賞受賞者のラーゲルクヴィストの作品です。題名はそのまま『バラバ』です。これはあくまで小説ですから、実話ではありません。
実際に、その後のバラバがどう生きたか、どういう人生を送ったかについては伝えられていないのです。
バラバとは、バル・アバを発音しやすいように滑らかに表したのです。そこでバラバという名前で何か思い当たることはありませんか。ペトロのもとの名前を思い出せますか。主イエスがペトロに呼びかけた名前です。シモン・バルヨナ(マタイ16:16)。そこにはバルヨナとあります。バルとは「(誰々の)子」という意味です。ヨナの子シモンとお呼びになったのです。するとバルアバはアバの子ということが分かります。アバは、十字架の前に主イエスが献げられたお祈りの時、父なる神への呼び掛けの言葉です。「アッバ、父よ。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われます様に。」(マルコ14:36)アッバ、アバは父のという意味です。バルアバ、バラバとは「父の子」という意味なのです。
すると、バラバは名前の様に思っていたのですが、いわば名字のような呼び名だということです。ではこの父の子=バラバの名前は御存じですか。何と、「イエス」という名前です。福音書にはバラバ・イエスと言われています(マタイ27:16)。主イエスと同じ名前なのです。
救い主イエスが十字架に掛かることによって、その代わりに、そのおかげで、バラバ・イエスが釈放されるのです。バラバは私達を代表しているような人です。主イエスの代わりに生かされるのと同じことが起きるのです。これは主イエスのお与え下さる救いの大切な一面を示しています。
何のために、主イエスは十字架にお掛かりになったのか。それによって、バラバが生かされたことがあなたにも起きるためです。主イエスの代わりに生かされる自分に気付きましょう。イザヤが預言した通りです。「彼の受けた懲らしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。」(イザヤ53:5)
私達は生かされているのです。生かして下さっているのです。十字架の主イエスをほめたたえ、主の栄光を表す一週間を過ごしましょう。
天の父、み子イエス・キリストが十字架にお掛かり下さったことによって、罪から釈放され、生きる者とされたことを信じ、受け入れ、そこから十字架の主イエスをほめたたえ、主の栄光を表す者とさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
