10月5日 礼拝説教 「称賛されたマリアの香油注ぎ」
- 教会 松本東
- 10月10日
- 読了時間: 7分
『詩編』23:5
『ヨハネ福音書』11:55~12:11
祈ります。
天の父なる神様。マリアが香油を注いだことの意味をお教え下さい。そこから私達がどのように主に向かえばよいのかお示し下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
今日はユダの手紙を引用します、あらかじめ聖書を開けて読んでおきます。ユダの手紙1節です。
ラザロがいるベタニアのあるお宅でイエスのために夕食が用意され、マルタはいつものようにいそいそと給仕をしていました。甦りを受けたラザロも共に食事の席に着いていました。ラザロの甦りをお祝いする夕食会であったでしょう。喜びと感謝の夕食会。食卓を囲んだ人々の中で一番大切な方は、主イエス。イエスのために用意された夕食と告げられています。
この食事の席ではどんなに話が弾んだことでしょうか。しばらくの時が経ったので、ラザロの甦りのことを思い出してあれこれ話します。お墓の石を取りのけたのはだれそれでしたね。主イエスは大声を出されましたよ。ラザロは、葬られたままの、布で巻かれたままの姿で出て来ましたね。そういう事を話題にしては、喜び、驚きを新たにしたことでしょう。
しかし、そういう喜びの会話は告げられていません。マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。それをとがめたユダを注意し正すようにイエスは言われた「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」
ユダをはじめ他の弟子達も、このマリアの行いをとがめます。無駄遣いをするなと言うのです。非常に高価なナルドの香油だから、お金に換えて貧しい人を助ける方が良かった、と言うのです。
この議論そのものは正しいのです。貧しい人を助けるのは、初めの教会が力を入れて励んだのです。マケドニア州やアカイア州の新しい教会が、母教会といえるエルサレム教会の貧しい人々を援助するということがありました。(ローマ15:26)
しかし、今ベタニアの夕食の時のナルドの香油は、もっとずっと大切なことに使われたというのです。もっとずっと大切、と言いましたが、本当は比較できない大切さ、です。その大切さを表すのに、このマリアの行いを忘れてはならないと、弟子達に言われた程です。福音が語られる時、必ず記念すべきですとお勧めされた程です。
比較できない大切さ、とは、それが主キリストの葬りの備えになっているからなのです。ユダヤでは、亡くなられた方に香油を塗ってお墓におさめる、という葬りをしました。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから、と言われます。救い主として最も重要なこと、十字架の苦難に備え、それに仕えることをしてくれているのだ、と言われます。
マリアは、神と人とを愛する教えを大切にして生きていました。それを今こそ実践しました。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、(マルコ12:30)と言う教えを覚えていました。それを生きる力にしていました。非常に高価なナルドの香油を求め、それを主のために取って置き、主のために、捧げるようにして使ったのです。弟子達の推測では、300デナリオンもの価値があるものです。それを、蓄え、求め、取って置いたということのなかに、マリアの神への愛が見えてこないか。心を尽くし、精神を尽くした、主なる神への愛がくっきりと見えてこないか。神を愛しなさいという教えに生きていないとそれは出来ないことでした。
主の十字架のための香油注ぎは、もう必要ありません。何度も主イエスを十字架に向かわせてはいけません。マリアが、全人類の代表として奉仕してくれました。このマリアの奉仕は、いつも私達の礼拝の中で確認されています。主の十字架に奉仕するものだったから、十字架を表すパンとぶどう酒を頂き、味わう度に、礼拝がナルドの香油の香りで満たされる。私達の信仰という感覚は、香油の香りでいっぱいになるのを確かに覚えるのです。
では、私達はどんな香油を主イエスに注いだらいいのでしょうか。私達の思いを尽くし、力を尽くした、神への愛に裏打ちされた、私達の注ぐ香油は何でしょうか。それは私達が自由に見つけたり考え出せばいいのでしょうか。300デナリオンの価値のあるものを、探し出したり工夫して作り出せばいいのでしょうか。どうも違うようです。
聖書はどう教えてくれるでしょうか。マリアは主のために、香油を取って置いたのだと主が言われる。この主のみ言葉から、今度は私達の注ぐべき香油が何か教えてもらいます。—聖書を聖書で読み解いていくことを始めますよ—
香油を取って置いたという言葉は、<守っていた>と言う意味もあるのです。そして、この言葉が私たちの為に使われています。主キリストの救いに与る私達全ての人に当てはめて使われています。神に愛され、イエス・キリストに守られている人達と言われているのです(ユダ1)。同じ言葉ですから、イエス・キリストに取って置かれた人達、と読んでもいいのです。マリアが香油を取って置いたというのと同じ言葉だからです。私達が、主キリストに取って置かれた者なのです。主が取って置いて下さった新しい香油です。そして、私達を、新しい香油として受けて下さるというのです。
私達の注ぐべき香油は、私達自身です。私達を献げるのです。礼拝はみ言葉を聴き、聖餐式のパンとぶどう酒を受ける礼拝です。それと共に、自分を神に献げる礼拝であることを覚えなければならない。マリアが香油を差し出すように主の御前に進み出た様に、私達は、自分を差し出すように主の御前に進み出る、そのような礼拝を捧げるのです。日曜の朝の確かな思いは、さあみ言葉を聴きに行こう、聖餐式のパンとぶどう酒の指し示す主キリストに与りに行こう、そして、自分を神に献げに行こう、という思いなのです。
目新しいことではありません。もう既に私達の礼拝は自分を神に献げる礼拝になっていることを再確認しておきましょう。礼拝献金の感謝の祈りを思い出しましょう。生きる時も死ぬ時も私達はあなたのものです、とお祈りして感謝を表しています。主キリストに結びつけられて、主がお持ちのものを全部頂いている。このキリストは私達の義と聖と贖いとなられたのです(Ⅰコリント1:30)。主キリストにつながる枝とされ木から水も栄養も受け取って、豊かな実を結ぶ者とさせられているのです(ヨハネ15:5)。そういう私達を、父なる神様!私達はあなたのものですと言って自分を献げて感謝の祈りを献げているのです。
神様、私はあなたのものですと言って自分を献げたもう一人を聖書は伝えています。その方も女性です。名前は伝えられていません。貧しいやもめと告げています。レプトン銅貨二枚を献金箱に入れました。人の目には少ない金額に見えました。しかし、主の目には大変価値のある献げものでした。自分の持っている物を全て、生活費を全部献げたのです、と評価されたのです。
レプトン銅貨二枚が今の日本円でどの位の金額かを調べても、信仰が分かったとはならない。主も、金額のことを話題に上げません。わざわざ、全て、生活費を全部献げたと言われた。ここに注目するのです。このやもめは、精一杯献げました。主の言われた「生活費」は、「人生」とも訳せる言葉なのです(ビオス)。このやもめは、自分の人生を献げたのです。全生涯を献げたのです。(マルコ12:41~44)
私達自身を献げる、自分の人生を献げるとは、どういうことか。全てを尽くして神を愛すること。神に目を向けること。神に寄り頼むこと。神に憩い安らぐこと。神に委ねること。神に真心を献げること。神に希望をもつこと。
この一週、主キリストに結びあわされた自分を神に献げる生き方を送りましょう。
天の父、マリアが私達の代表の様にして主イエスの香油を注いだことを教えられました。主の十字架にお仕える奉仕だったことを覚え、パンとぶどう酒に与る時、このマリアを覚え、いっぱいに満ち溢れた香油の香りを感じることが出来ます様に。マリアに習い、主によって守られ、取って置かれた私達自身を、あなたに献げます。神のものである私達をお受け下さい。私達は、主のものですから。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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