11月16日 「主キリストが足を洗って下さる」
- 教会 松本東
- 11月27日
- 読了時間: 7分
『イザヤ書』53:1~5
『ヨハネ福音書』13:1~11
祈ります。
天の父、主が足を洗い拭き取られた御業の意味をお教え下さい。
主の御名によって祈ります、アーメン。
主イエスが弟子達の足をお洗いになったことを告げています。足を洗われた、と書いてせんぞくと呼びます。聖書の中に「洗足」という言葉がある訳ではありません。その点は「洗礼」や「聖餐」とは違っています。
主の洗足について先ず目を引くのが主イエスの主イエスの動作、振る舞いが事細かに告げられていることです。席から立ち上がられた。上着をお脱ぎになる。手拭いを腰にまとわれる。たらいに水をおくみになる。自分達弟子の足を洗われる。手拭いでお拭き下さる。何故これ程事細かく告げているのでしょうか。
その頃ユダヤでは、特に食事の前に来客の足を洗う習慣がありました。奴隷の働きでした。僕(しもべ)と言ってもいいでしょう。
主イエスのこの時の動作、振る舞いが全部事細かに告げられている、それは主がこのみ業を手抜きされずになさったことを示しています。あることを人任せになさらなかったことを示しています。僕の働きとして、全部ご自分に引き受けてなさったというのです。僕になりきって洗足されたということです。その振りをしたのでもなく、それを演じたのでもない。文字通り僕として、弟子の足をお洗いになったのです。
いつもは弟子達は互いに足を洗い合っていたのです。弟子達の中には僕はいなかったからです。今回は誰も他の弟子の足を洗う者がいなかったのです。弟子の中で誰が一番偉いのか、といって争っていたのです。足を洗い合うなんてことは思いも及ばない雰囲気でした。そこで、仕方なく主が足を洗い始められたのでしょうか。そうではありません。弟子が情けなくも争っているので、諦めて主がご自分で洗い始められた、そんな理由ではありません。
洗足は弟子達にとって必要な事でした。そして、主イエスにとっても大事なことでした。わざわざ、主の方からこの御業に取り組まれたのです。弟子にも主にも必要なことだったのです。この御業のきっかけを読めば分かります。
洗足の御業をなさった直接のきっかけ何か。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた。
弟子の足をお洗いになるのは父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟られたからです。父の栄光の御座に移る時です。しかしそのためには、その前に十字架の苦難を担う時でもあるのです。思い出しましょう、ヨハネのゲツセマネと呼ばれている時の主イエスのお祈りを。「今私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はこの時のために来たのだ。(ヨハネ12:27)主の心を騒がせるほどのことが目前に迫った、すぐそこに苦難の十字架があるとお受けとめになったのです。それを自覚されたのです。
十字架の時が来たことを「悟り」とあります。これに注目しておきます。口語訳聖書では十字架の時が来
たことを「知り」となっています。十字架の時をお悟りになった、お知りになったという表現です。これだと一見この時になって初めてお悟りになったという風に受け止められてしまうかも知れません。過ぎ越し祭の時になって十字架のことをお悟りになったと受け止められてしまうかも知れません。それは誤解になります。
その誤解は、悟る、知るという言葉が二つの意味を持つからです。知る、と知っているの違いです。主キリストとよく言います。皆さんは、この「キリスト」というお名前が、言葉の上でどういう意味を表すかご存じですか。馬鹿にするなと叱られそうですが、テストではありません。旧約のヘブライ語のメシアを、ギリシャ語に翻訳した呼び方です。で、メシアとは油注がれた方という意味です。そして、どういう方が油注がれたかと言えば、三つの働きをする方です。1.預言者 2.祭司 3.王、という三つの務めです。今迄知らなかった方は、今お知りになればいいのです。知って居られた方は再確認されればいいのです。しかし今日から皆さん全員が、主キリストの御言葉、御業をお聴きになった時、そこにまことの預言者・祭司・王であられる主の御言葉、御業であると聴くことが出来ます。主の三つの務めを知っておられるからです。
知っている、とはそういうことです。十字架を主はいつも見通されておられました。知っておられました。お悟りになっていました。主のご生涯のどこを取り上げても、そこには十字架を担われる主がおられるのです。そのみ言葉と御業はいつも必ず十字架と結びついたみ言葉と御業なのです。
もう一度、洗足の御業をなさった直接のきっかけを見てみましょう。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた。
きっかけは、ご自分の時が来たことを悟られたからです。今迄ずっと目指してこられた十字架のその時がいよいよ来たことをお覚えになった。それで立ち上がり、弟子達の足を洗われたのです。十字架の時だから足を洗われたのです。十字架の死を予め示すことだったのです。もしその時弟子達に主の御心を見抜くことが出来れば、それは十字架のお苦しみを表す御業だと分かったのです。「ああ、主はこの私たちの為に十字架にお掛かりになる」と分かったのです。しかし弟子達がそれを悟るには時期が早過ぎたようです。実際に主の十字架と復活を知るまでは分かりませんでした。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)と言われた、通りです。
確かに後で、分かるようになりました。足を洗う務めは僕の務めでした。主イエスが僕の務めをなさる。僕の立場迄ご自分を低くされた。人に仕える者となられたのです。どの位ご自分を低くされたのか。どの程度まで低くされたのか。神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:6~8)。僕である主イエスの従順さを、十字架の死に至るまでの従順さだと示しています。
主イエスの十字架を預言したイザヤも、神は主を「私の僕」と言われています(イザヤ53:11)。
主イエスが、僕の御業である足を洗われたことは、苦難の僕の負われる十字架を担うことだと明確に表しているのです。
洗足の御業をなさった直接のきっかけが、十字架の時だからだと聴きました。聖書はそれを追加説明しています。世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた。洗足の御業をなさった直接のきっかけは、弟子達を愛されたからだというのです。洗足は、主の愛の徴だというのです。私達に示される主の愛を明らかに示す御業なのです。
聖書は「愛」を教えます。主は「愛」を教えます。新約聖書の中に「愛」という言葉、しかも神の愛を表す「愛」という言葉が何回使われているか推測できますか。知っているからって別に偉い訳ではありません。320回使われているのです。私達の新共同訳は約500ページ、3ページ毎に約2回は告げられていることになります。
律法の専門家に一番大切な神の教えは何かと尋ねられて主がお答えになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ12:30~31)聖書は「愛」を教えます。
では主の愛はこの足を洗って下さったことのどこに現れているのでしょうか。弟子達の足を洗い、手拭いで拭き始められた、ここに主の愛が目に見える形で現れています。主が洗い、拭いて下さったのは私達の足でしょうか。見えるものとしては確かに足です。でも本当に洗い、拭って下さったのは足なのでしょうか。主が洗い、拭って下さったのは、私達の罪なのです。罪の汚れを洗い流し、拭き取って下さったのです。ここに主の愛があるのです。
ペトロの説教にこの言葉があります。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(使徒3:19)悔い改めて神に立ち返ると何故罪が消し去られるのか。主が罪の汚れを洗い流し、拭き取って下さるからです。
足を洗って頂いた者として、主の十字架を見つめ、罪の汚れが洗われ拭い去って頂いた者として、神に清くされたことを心に刻んで、この一週間を過ごしましょう。
天の父、私達は信仰生活において様々なことをおろそかにしてしまいます。主が手を抜かれることなく、私達の足を洗われたことを模範と出来ます様に。十字架をいつも見つめることが出来ます様に。罪の汚れが洗われ拭い去って頂いた者に相応しく生きていけます様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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