11月2日 「預言者の悲しみと希望」
- 教会 松本東
- 11月13日
- 読了時間: 6分
『イザヤ書』6:8~10
『ヨハネ福音書』12:36~43
祈ります。
天の父、光のあるうちに歩きなさいとの主の言葉の意味をお教え下さい。イザヤの預言の伝えようとしていることを聴き取ることが出来ます様に。
主の御名によって祈ります、アーメン。
イエスは、立ち去って彼らから身を隠された。もう過ぎ越し祭目前です。これから、弟子の足を洗われた洗足の出来事、最後の晩餐、ユダの裏切りの予告、ペトロの3回も主を知らないというとの予告、と続きます。そして、十字架の時が来たことを確かにお覚えになります。17章1節はこう告げています。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光をお与え下さい。」
今迄も主はよく退かれ、人々から身を隠されましたね。以前に五千人の人に食事をお与えになったことがあります。その時皆が主を王にしようとしました。すると、それを避けて、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りで又山に退かれたのです(ヨハネ6:15)。「又」とあります。今また、祈るために退かれたのです。
主イエスがお一人になることは重要なことを前にされた場合でした。神の御心を問い尋ねることでした。そして、神の御心を確信することでした。今回は今迄にも増して、差し迫った事態でした。
差し迫った事と言いましたが、主にとって差し迫った事態とは、もう目前に十字架の時が差し迫っていたということです。
そして、主だけではなく、福音を聞いていたエルサレムにいる人達にも、事態は差し迫っていたのです。身を隠される直ぐ前の主の言葉は何でしたか。これは、主イエスの大勢の前で語られた最後の言葉です。この後の主のみ言葉は、弟子達とだけ交わされているのです。
最後の言葉、暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。光のあるうちに、光を信じなさい、これが十字架を前にしての、群衆に告げられた最後のみ言葉です(ヨハネ12:35~36)。光は今しかない、光の内を歩くときは今しかない、そういう時が、群衆に差し迫っているそういう主のお気持ちが伝わってきます。光のあるうちにとは主キリストのおいでの内にということです。歩くとは信じて、お応えすることです。そしてその時は、差し迫っているというのです。主のみ言葉にお答えする時は、限られているのです。
この私達の差し迫っている時のことをパウロは迫るようにではなく、力強く引っ張り、明るく押し上げてくれるように教えてくれています。「恵みの時、あなたの願いを聞いた。救いの日に、あなたを助けた」と神は言われた。今や、恵みの時、今こそ、救いの日(Ⅱコリント6:2)。何故、恵みの時、救いの日と言えるのか。今、光があるからです。主キリストがおいでになるからです。私達と共におられるからです。今こそ、恵みに応える時なのです。今こそ、救いに応える時なのです。
確かに、私達の主は、昨日も、今日も、また永遠に変わることのないお方です(へブル13:8)。これは主と主の救いが、変わらないという事を教えています。色褪せないことを教えています。
今の信仰を明日に延ばしてもよいと告げているのではありません。今の決断、今の奉仕、今の賛美、今の献身は光のあるうちに捧げるのです。
しかしここに光のあるうちにも信じなかった者がいると言われています。また、信じてはいても、公には信仰告白しなかった者もいると言われています。更に主イエスを逮捕し殺そうと企むようになった者もいます。
多くの徴を彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった、とある通りです。(37節)
議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々を憚って公に言い表さなかった、とある通りです。(42節)
ラザロの甦りの後、ファリサイ派はイエスを殺そうと企んだのでした(ヨハネ11:53)。
主のみ業に対してこのように否定的な反応が三つありました。
多くの徴を見たが、彼らはイエスを信じなかった。
信じる様に見せても、追放を恐れ、ファリサイ派を憚って公に告白しなかった。
信仰とは正反対に、イエスを殺そうと企むことさえ起きたのです。
ではその否定的な反応によって、神の救いの計画は失敗したというのでしょうか。主イエスが救い主として現れ、救いのみ言葉を語り、救いの徴を行われたことは、無駄だったのか。
失敗どころではないのです。神はこのことを、初めから見通されており、預言されていたのです。この人達が信じないことは、神は既に預言されていたことなのです。
「主よ、誰が私達の知らせを信じましたか。主のみ腕は、誰に示されましたか。」「神は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。」
イザヤは、神に呼び出され預言者に召された初めから、皆がイザヤの言葉を信じないことを告げられていました。ヨハネがここで引用している箇所はそのイザヤの言葉なのです。誰も自分の預言を信じないことを深く悲しみながら、祈ったのです。「主よ、誰も知らせを信じません。主のみ腕は、誰にも届いていません。」と祈ったのです。
今、私達教会の宣べ伝える福音の言葉がなかなかこの世に聞かれないことを覚えると、このイザヤの悲しみはとてもよく分かるのです。
しかし、イザヤが悲しみの祈りで終わったとみてはなりません。皆が預言を信じないという事によって神は何をなさるのかを見る事へと進むのです。神が彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされたのですから、その事には何か神のねらいがおありになると思いました。何か神の目的がおありになるのだと考えました。わざわざ神が、皆の心を頑なにされたのですから、そこには何か神の図り事がおありのはずだと確信しました。
イザヤがこの祈りを捧げた時、何を見ていたのでしょう。誰を見ていたのでしょう。主の栄光を見ていたのです。主キリストを見ていたのです。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
イザヤは自分の悲しみの祈りを捧げながらなお主イエスの十字架による神の栄光を見ていたのです。信じない人が出る。見せかけの信仰だから、信仰告白をしない人が出てくる。敵対して、殺意まで持つ人が出てくる。しかし、その中に主イエスの栄光が現れることを見ることが出来たのです。そこを見て取ると、イザヤは
希望を預言することにもなったのです。
人が信じないことにも、神の栄光を見ることが出来るというのです。本当にそれを見た人がイザヤ以外にもいるのです。パウロが異邦人の救いという説教をしました。ユダヤ人の躓きによって何が生まれたかと語ります。ユダヤ人の不信仰によって、異邦人にも救いが広げられたと語っています。彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になったのです(ローマ11:11)。
今の信仰、決断、奉仕、賛美、献身を明日にしようと先延ばしにしないこの一週間、不信仰にあっても神は救いを進めて下さることを見つめて過ごしましょう。
天の父、光のあるうちに、光を信じなさいと教えられました。信じる事、決断すること、献身することにおいて今を大切にすることが出来ます様に。万事が益となるよう共に働くことを信じて、不信仰さえあなたの救いの御業を進めるためにお使い下さることを見つめて生きていけます様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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