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11月30日「洗足の拠りどころ」

『イザヤ書』53:1~5  

『ヨハネ福音書』13:12~20


祈ります。

天の父、足を洗うことの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。

 

主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。

弟子達はこの主の命令の言葉に戸惑いました。互いに足を洗うことはいつも行っていたからです。弟子の仲間には、足を洗う僕がいなかったから、お互いに足を洗い合っていたのです。但し、主イエスの足はいつも弟子達が洗っていました。

その様な時に今回だけは何と主イエスが弟子達の足を洗われたのです。弟子達は驚いたことでしょう。驚いたのはペトロの反応でよく分かります。「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。」(13:6)あなたが、という呼び掛けの言葉が強調されています。「思いもしなかったことです、まさかあなたが」洗って下さるのですか、と言っているのです。今迄にも主イエスが弟子達の足を洗われた事があれば、ペトロがこの様に反応することはなかったでしょう。

他の弟子達も驚いたでしょう、戸惑ったでしょう、ペトロの言葉が代表するようにその驚きを表しています。

 

一体これはどういうことだろう、と皆考えたことでしょう。主が私達の足を洗って下さるのだ。それは今迄にない特別なことだと感じたに違いありません。その特別な事は何だろう、そこに示されている主のねらいは何だろう、その洗足の意味は何だろう、一体これはどういうことだろう、と考えたに違いありません。

 

この弟子達の思いはとても大事です。聖書を読む時、み言葉を聴く時、立ち止まるのです。読み飛ばすのではありません。聞き流すのではありません。主が言われたそのことは一体どういうことだろう、と考えてみるのです。立ち止まるとはその問いを主に向けることです。自分も考えながら、主の答えを求めるようにするのです。

ペトロはこの後直ぐに、「主よ、あなたの為なら命を捨てます」と誓います。しかし、「鶏が鳴く迄に、三度私のことを知らないと言うだろう。」と告げられてしまいます(13:37~38)。これも立ち止まることが大事です。その主イエスの予告とも言える返事は、一体何を示そうとされているのでしょうか。ペトロが主を知らないと言う、という事は分かる。だが、何故主はそれを予告されたのか。一体何を弟子達に伝えようとされたのか。ペトロが主から離れることを、何故そこで予告されたのか。その狙いは何なのか。

 

主が足を洗って下さることに驚く弟子達に更に主はみ言葉を伝えます。主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。

次に主は言われます。互いに足を洗い合いなさい。この時も、一体これはどういうことだろうと考えたことでしょう。

行いによる例え話と言う言葉を思い出して下さい。ここも互いに足を洗い合うと言うのは、行いによる例え話と言っていい。つまり、キリスト者が文字通り足を洗い合うと言うことではないのです。その後の、初めの教会で、

皆が足を洗い合ったという事は伝えられていません。その点が、洗礼式や聖餐式と違っているところです。

そこで分かることがあります。これは洗足式を行えという教えではないという事です。ただ、教会の長い歴の中で洗足式というものを定めて儀式とすることはありました。勿論、洗礼式や聖餐式とは全く違うものです。

しかし、その教えは、洗足式を定める事ではありません。では何か。信仰の在り方、信仰の生き方を伝えようとしているのです。主が、私の弟子はこう生きるのだという生き方を教えようとするのです。私の教会はこの様に創られていくのだというその在り方を勧めているのです。。

では互いに足を洗い合うとは、一体どういう生き方をすればいいのか。

足を洗って頂くのが自分の番になった時ペトロが言いました、「私の足など、決して洗わないで下さい。」と。すると主イエスがお答えになりました、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる。」と。(13:8)何の関わりもなくなる、と言われています。強い否定です。足を洗って下さるとは、主があなたと関りをもって下さるという事です。

では、主キリストが関わって下さるとはどういうことか。主との関わりを持つとはどういうことか。最初に答えてみましょう。あなたと主とのご関係は?私と皆さんとの関係は、牧師と信徒という関係です。では、あなたと主イエスとの関係はどういう関係でしょうか。使徒信条を土台にして表現してみます。「我はその独り子、我等の主イエス・キリストを信ず。」ここには私達と主との関係が明確に告白されています。私達は信ずる者、主は私達の主、これが私達と主との関係。

この関係は、とても大事です。足を洗って頂かないと、この関係がなくなってしまうと言われました。信ずる者と主という関係が壊れてしまうというのです。

 

主との関わりという言葉は、主の一部分になるという事を意味しています。手足のことを四肢と言います。この時の肢というのは、木の枝の枝と違って、にくづきに支えると書きます。「てあし」と読みます。これが主との関わりという言葉なのです。体の手足、体の部分という事を表します。

すると、主との関りとは、主の体の一部分になるということです。主の体の手足、えだになることです。コリント人の手紙12章27節に、あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です、とあります。私達がキリスト者、クリスチャンと呼ばれる根拠になる聖句です。また教会の在り方を正してくれる聖句です。そういう意味で大切な聖句だから覚えるといい。

私達が主の一部分になる、主の一部分にされる。あなたと主とのご関係はと考えてみました。関係という離れた二つのものの関りを示すよりもっと強い関わり方です。それは私達が主キリストのものとされるという関りです。主イエス・キリストと結び合わされることです。結び合わされたら何が起こるのでしょうか。主のものを受け取ることが出来るということです。そして、私達のものを、主が受け取り担って下さるということです。主は私達の何を受け取り、何を担って下さったのでしょうか。イザヤは、それは私達の病だと告げています。主は私達の病を受け取って下さったのです。イザヤは、それは私達の痛みだと教えています(イザヤ53:4)。主は私達の痛みを担って下さったのです。マタイはそれを真の慰めになるようにと教えています。疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)。この御言葉からどれだけ多くの方が慰めと力を受けたことでしょうか。

主と結び合わされたのですから、主のものを受け取ることが出来ると言えるのです。主イエスがお持ちのものを頂くことが出来るのです。何を頂けるのでしょうか。わざわざ私たちの為に用意して、お持ちのものがあるのです。この洗足の御業をなさったきっかけは何だったでしょう。少し前にありますので、探してみましょう。そうです、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたことがきっかけです(1節)。主のお持ちのもの、それはなんと言ってもこの主の愛です。

私たちの為に用意して、お持ちのもの、それを聖書はいろいろな言葉で示しています。それが沢山あるからです。その中で、パウロが教えてくれるものを覚えます。あなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです(Ⅰコリント1:30)。主と結び合わされた私達は、この様に主から多くのものを頂けるのです。神の知恵贖いも頂けるのです。心の中で両手を広げて出して下さい。そこに主からの贈り物を受け取って下さい。両手でも受け取れないほど大きな、そして多くのものを受け取るのです。神の知恵贖いを受け取るのです。

 

あなた方も互いに足を洗い合いなさい、とは私達がお互いに、主の体の一部分とされることを祈ることです。主と結び合わされて主から多くのものを頂けるように祈り合うことです。あなたは祈っていますか。

主と結び合わされて神の知恵贖いも頂いた者としてこの一週間を過ごしましょう。

 
 
 

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