12月14日 「占星術の学者達を案内する星」
- 教会 松本東
- 2025年12月17日
- 読了時間: 7分
『民数記』24:17
『マタイ福音書』2:7~12
祈ります。
天の父、占星術の学者達の生き方の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
学者達は何時出発したのでしょうか。どの位の距離を旅してきたのでしょうか。学者達の心はどんな思いに満ちていたでしょうか。わくわくしていたでしょうか。聖書はそれを伝えていません。しかし導く星が幼子のいる場所の上に止まった時に、その星を見て喜びにあふれたのです。この喜びを求めて、喜びがあると信じて旅してきたことは間違いありません。
学者達に就いては幾つかの伝説が生まれました。昔のギリシャの教会では、学者達は12人という話が生まれました。また別の伝説では3人となりました。私達の教会の子どもの教会の演じる劇でも博士は3人ですね。3人の博士のお話しは伝えられる間に深められました。こんな具合です。・・・主イエスがお生まれになる前から、そのことに気付いた人達がいた。博士たちは王様でした。だから王の冠をかぶっている。書物を読み、調べると大事なことが分かりました。大きな星が現れて救い主がお生まれになること。毎晩夜空を見上げてその星を探した。「とうとう見つけた。大きな星がユダヤの国の空に光っている。」3人はそれぞれ自分の国から出発する。道案内は星。星に導かれて行けばいい。初めに登場する博士は一番のお年寄りのメルキオールさん。たった一人で出発した。一緒に行こうと誘っても、笑うだけで誰も相手にしてくれない。救い主に会いに行くですと?そんなこと何の役にも立たない。それでも「救い主に会えれば満足じゃ。誰も行かぬなら儂は一人で行くとしよう。」一人で旅の準備をした。お土産も用意した。燃やすととても良い香りのする木の枝と香りの草。それから旅を始めた。毎日歩く。ある日、砂漠にラクダの足跡を見つけた。誰かが少し前に同じ方向に進んでいたのです。追いついた時、尋ねるとその人も星に導かれて救い主に会いに行くところだった。バルタザールという名前の王様で、矢張り星の博士だった。あの星を見つけていた。本当の王様の生まれるのを教える星だと知ったのです。自分も王なのに国の人々になかなか良いことをしてあげられなくて悲しんでいた。あの星の導く本当の王様に会いたいと思って旅に出ていたのです。二人は仲間が出来嬉しかった。助け合って旅を続けた。二人は大きな川にぶつかった。ラクダでも渡れない。橋もない。メルキオールさんはお祈りをしました。そこへ突然の様にもう一人の王様がやってきました。黒い顔のアフリカの人だった。名前はカスパール。二人よりも若かった。エジプトで生まれ、星の勉強をしていた。毎晩星を調べていたある時、あの素晴らしい星を見つめました。その美しい光にカスパールもきっと何か素晴らしいことが起きるに違いないと思った。そこで旅に出ここまで進んできた。道をよく知っていて、この川を渡る場所も知っていた。3人は一緒に進んでいった。・・・こうしてお話しは続いていくのです。
占星術の学者達のお話しは何故生まれるのでしょう。しかも数々のお話しです。その訳を考えてみたい。教会は初めからクリスマスになると、この学者達の聖書を読みました。その都度心打たれたのです。この学者達の物語は誰にも伝えたい、語り伝えていきたいと願う程に人々の心を打ったのです。
今私達の周りは多くの情報にあふれています。誰もが自分の意見を公に発表することが出来てしまいます。自分の見方で見たものを他の人も同じように見ていると勝手に伝えることが出来てしまいます。反対に、他人の意見をそのまま自分の意見として伝えることも出来てしまいます。そういう言葉は人の心を打たないのです。
そういうあふれる情報の中で、この学者達をめぐる聖書を読んでいるのです。
学者達は、ユダヤの王ヘロデに呼び出されます。そして「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も拝もう。」と告げられます。このヘロデの言葉に励まされるようにして、出掛けるのです。所が、12節を見ると、「ヘロデの所へ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って帰って行った、のです。
つまり、ヘロデ王は知らせに来い、と言い、神は行くなと言われたのです。この世の権力は来いと言い、神の知恵は行くなと言う。
ひれ伏して幼子を拝んだ学者達は、その後で、あれかこれかの選択を迫られました。人間の言葉か神の言葉か。信仰の道かこの世の道か。どちらを選べばいいのか。
学者達はためらうことなく夢のお告げ、神の言葉を選んだのです。この学者達の生き方に信仰の大切な教えがある。真実な信仰の在り方がそこに見えてくる。学者達は、世の王の権威さえ無視して、神の導きに従ったのです。これはやがて復活の主によって伝道の使命を与えられた使徒達につながっていきます。伝道することを禁止された時、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒5:29)とペトロ達使徒は答えたではないか。
信仰には、この世の権威権力には従わないというところがあるのです。神の権威に従うからです。この世の常識には従わないところがあるのです。神に知恵に従うからです。
彼等はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。貧しい親子を見て戸惑いを覚えなかったのでしょうか。まさかこのような貧しい幼子が救い主なのか、と疑わなかったのでしょうか。こんなはずがない。世界の王が、世界の救い主がこんなみすぼらしい所で生まれるはずがないと考えなかったでしょうか。
11節を読んでみましょう。そこに、学者達の戸惑い、驚き、疑いを読み取れるでしょうか。読み取れません。
クリスマスは戸惑い、驚き、疑いが続きました。ヨセフは結婚する前のマリアの身籠ったことで、密かに縁を切ろうとしたのです。(マタイ1:19)マリアは、天使ガブリエルの挨拶に戸惑い、一体この挨拶は何のことかと考え込んだのです。(ルカ2:29)ユダヤ人の王の誕生を聞いて、ヘロデ王は不安を抱いたのです。(マタイ2:3)羊の番をしていた羊飼い達は、主の栄光が照らしたので、非常に恐れたのです。(ルカ2:9)
それに比べて学者達は少しも戸惑うことも驚くこともありませんでした。少しも戸惑わなかったと言っていい。貧しい幼子を見ても、驚くこともせずひれ伏して幼子を拝みました。人類の所有し得る最上最高の王、救いの王に見えたのです。
何故そう思えたのか。神の道案内を信じたからです。星が、遂に幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。この神の徴を信じたのです。旅の最後まで真実に導き通した神の徴です。それを信じたから、この徴が教え導いてくれたお方こそ、どんな身なりをされていても、どんな住まいに居られようとも、それは真の王、世界の救い主だと信じ、礼拝を献げたのです。
目に映るところで判断しない。神の徴を見て判断するのです。神の徴とは、何よりも神の御言葉です。神の御言葉を信じ従う学者達の信仰が、クリスマスを喜びに満たすのです。見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、だから落胆などしないとパウロは教えています(Ⅱコリント4:18、16)学者達の場合はもっと積極的です。その星を見て喜びにあふれたのです。
神の導きは、裏切りません。遠くからやって来た彼らの信頼にしっかりと応えて下さった。神に支えられ、守られ、生かされ、押し出され、導かれていることを、幼子の礼拝の中で深く強く覚えたのです。
クリスマス礼拝を来週に控えて、喜びにあふれているでしょうか。喜びをもって、待降節を過ごしているでしょうか。
改めて、神の徴を信頼することを始めなければなりません。もしそうでないと、貧しさとみすぼらしさに秘め隠された救い主イエス・キリストを見出すことが出来ません。学者達にとって神の徴は星でした。私達にとっての神の徴は、主イエス・キリストです。主こそ私達に与えられた神の徴です。
学者達は導かれてエルサレムに向かいました。私達は、主に導かれてそのクリスマスの主に向かって進む一週間を送ります。
天の父、学者達があなたの導きを信じた様に、私達も与えられている神の徴である御言葉と救い主とを信じて生きていけます様に。導かれて、クリスマスの主に向かって進む、その様な一週間を過ごさせて下さい。目に見えるものによらず、あなたの力と知恵によって見る者として下さい。あなたの栄光を現わす者として下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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