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12月28日 「互いに愛し合う群れとしての教会」

『レビ記』19:13~18  

『ヨハネ福音書』13:31~38

 

祈ります。

天の父、主の

栄光とはどういうことかお教え下さい。新しい掟に従うとはどういうことかお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。

 

ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。夜は神がお働きになる時です。しかし今ここで告げられているは、人の罪を表す暗闇です。暗黒の夜です。最後の晩餐の席を離れ、出て行ったのです。何処へ行ったのでしょうか。主イエスに敵対していた祭司長や民の長老達のところへいったのです(マタイ26:47)。何をしに行ったのでしょうか。銀貨30枚で主イエスを売り渡しにいったのです(マタイ27:3)。

いよいよその時が始まったのです。クリスマスの時贈られた贈り物の没薬が予告していたことが始まったのです。亡くなった方の体に塗るのが没薬です。必ず排斥されて殺され、三日の後に復活すると予告されていたことが始まったのです(マルコ8:31)。主イエスが苦難を受け、十字架にお掛かりになる時が始まったのです。

 

ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。苦しむ時、十字架の時が今来たのだとは仰らなかった。排斥されて殺される時がきたとは言われませんでした。主イエスが栄光を受け時が来た、父なる神の栄光をお受けになる時が来たと仰る。逮捕、裁判、鞭打ち、ゴルゴタ迄の道行きと続き、そして、兵士たちはイエスを十字架につけた(ヨハネ19:18)、と伝えるこの一連の出来事を私は栄光を受けた。父なる神も栄光をお受けになったと主は言われます。これはとても不思議な表現です。苦しみの時と仰らずに、栄光の時と言われるのです。

 

ユダが出て行くことで始まる十字架が主の栄光、神の栄光になるのです。32節に神も栄光をお与えになる。しかもすぐにお与えになる、と言われているのは、十字架のお苦しみの直ぐ後三日目に起こる神の御業です。主の甦りです。主イエスの復活も栄光を受けることと言われています。

 

栄光とは、主イエスの栄光であり父なる神の栄光なのです。勿論私達罪人の栄光ではありません。特にヨハネ福音書で「栄光」と言う時は、主イエスがいかにも救い主であることを実現されることを表します。救い主としての実力を発揮し、救いを創り出して、届けて下さるそういう救い主の御業を栄光と歌っています。言は肉となって、宿られた。その栄光を見た。父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた、と示されています(1:14)。真の人となって下さったこと。子なる神としての御業をなさって下さったこと。恵みと真理を行い、届けて下さったこと。それを独り子としての栄光と告げているのです。恵みの活動をして下さる、真理の働きをして下さる、それが独り子としての栄光なのです。

神の栄光とは神の力のことなのです。救いを実現していく力のことです。その力を受けることを、神の栄光を見るというのです。その力を讃えることを、神の栄光をほめ讃えるというのです。 

主イエスが十字架にかかる事、復活されることは、父なる神が独り子に与えられた使命でした。救い主としての御業を進めていく力をお与えになった、その力を受けたので今や、人の子は栄光を受けたと主は言われたのです。

独り子に与えられた使命と申しました。使命という言葉で立ち止まって思い巡らしたいと願います。自分に与えられた使命ということです。人生の何処の時点でも自分の使命を確かにし、それに応えようとすることは大事です。主に従う生き方が自分の十字架を見つけて、それを背負って生きていくことだと言われています。私に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい、と言われています(マルコ8:34)。大事で、基本的なことですから改めて確かにしておきましょう。

主イエスが十字架にかかる事、復活されることは、父なる神が独り子に与えられた使命でした。その使命を果たして行く力を受けたので今や、人の子は栄光を受けたという事でした。

主は自分を捨て、自分の十字架を背負って信仰生活をしなさい、と勧めておられる。そこで私達も自分の十字架を背負う時今や、私達も栄光を受けるということになると言えるのではないか。自分に与えられた使命を果たして行く力を受けた時、私達も栄光を受けるということになる。

自分が栄光を受ける、と言われてもピンとこないこともあるでしょう。唯神にのみ栄光があるようにと生きているからです。自分に栄光を引き寄せるというようなことを考えないからです。

では栄光と言わずに、神に誉められるといえばどうなるでしょう。神に喜ばれ、讃えて頂くと言うと如何でしょうか。タラントンの譬を思い出してみるとどうでしょうか。タラントンを生かし有効に使った僕は主人からどの様に誉められたでしょうか。「忠実な良い僕だ。よくやった。」と誉められ、喜ばれ、讃えられたのです(マタイ25:21,23)。自分に与えられた使命を果たして行く時、私達も栄光を受けるということになる。

 

さて、主イエスが苦難を受け、十字架にお掛かりになる時が始まったのです。弟子達のところから主イエスが居なくなるという事態になるのです。「捜しても、私が行く所へ来ることが出来ない」事態になるのです。共にいるのは今しばらく、なのです。

14章から始まる長い告別の説教がありますが、主が弟子のところから居なくなることを長引かせるものではありません。しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなる、と告げられます(16:16)。私は最早世にいません。彼らは世に残り、私は御許に参ります(17:11)、と祈られています。十字架と復活によって、主は弟子達のところにはいなくなる、弟子達だけが世に残される事態になるのです。主に出会い、弟子とされて以来共に過ごされた主が自分達のところを去って行かれるのです。弟子を離れてお一人で祈られた時はありました。お祈りが終われば又弟子のところへ戻り、共に居られた。しかし今や、行きたくても行けない所へ行ってしまわれるのです。これはこれまでに経験したことがない新しい事態です。

 

この新しい事態に向かう弟子達に主は何を残されるのか。ご自分が居なくなった後の弟子達はどう生きてほしいと願われるのか。あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。

リーダーが居なくなるので解散しなさい、とは言われません。主イエスが見える形ではいなくなっても弟子であり続けなさいと言われていることに気付きます。弟子であり続ける道を主は教えて下さるのです。それがこの新しい掟を与えることなのです。弟子であり続ける生き方を見て、ああ、主イエス・キリストの弟子だなあと皆が知るようになる生き方です。

それは、互いに愛し合う生き方です。これは新しい戒めですか。エジプトから解放されたイスラエルは、神の愛される民として生きるために掟を与えられました。その中には愛し合うことが大事な掟として与えられていました。レビ記19:18を読んでみましょう。自分自身を愛する様に隣人を愛しなさい。神に愛され、選ばれた恵みのイスラエルは隣人を愛すると言う掟を与えられていたのです。古い、古い掟です。古くに神が定められた掟です。それと比べて今主イエスがお与えになる掟は新しいと言えますか。

決定的に新しいと言えるのは、この愛し合う土台が、私があなた方を愛したようにとなっていることです。主のお体は弟子から離れていなくなられますが、主キリストの愛は弟子達から離れないのです。弟子達が互いに愛し合う時、そこに主の愛があるからです。

唯愛し合うのではありません。主が私達を愛したように、互いに愛し合うのです。ここで注意します。ここを主が私達を愛したのと同じように愛し合うと取ると立往生してしまします。私達は互いの為十字架にかかるようなことは出来ないからです。

ここは、主が私達を愛して下さったから、それ故に互いに愛し合うと読みましょう。主の愛を真似るのですが、その前提として、主の愛を拠り所にしてするのです。十字架の時を覚えた主イエスはこう祈られました。「あなたは権能をお与えになりました。そのため、私は永遠の命を与えることが出来るのです。」(17:2)主イエスが永遠の命を与えることが出来るのは、父なる神がその権能をお与え下さったからです、と祈られたのです。この、<そのために><下さったから>を表すのが、主が愛したように、と訳されているのです。だから、ここは、主が私達を愛して下さったから、それ故に互いに愛し合うと読むのです。

主が私達を愛して下さったことが私達の愛し合う拠り所になるのです。主が私達を愛して下さったからそこに力を得て、互いに愛し合うのです。互いに愛し合う愛を、主キリストによって自分の内に生み出して頂くのです。

 

どうしたら、私達は主の教会です、主の弟子ですと皆が知るようになるのでしょう。主キリストに生み出して頂いた愛をもって互いに愛し合う時です。互いに愛し合う一週を過ごしましょう。

 

 

天の父、救いを実現していく力というあなたの栄光と主キリストの栄光をほめたたえます。

主イエスのお体を私達は見ることが出来ません。残された弟子達と似ています。弟子達に与えられた新しい掟を確かに覚えて、主にその力を頂いて互いに愛し合う者として下さるように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 
 
 

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