12月7日 「十字架の救いの発端にユダ」
- 教会 松本東
- 2025年12月13日
- 読了時間: 8分
『イザヤ書』53:8~10
『ヨハネ福音書』13:21~30
祈ります。
天の父、主の弟子にユダが居たこと、ユダのとった行いの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
先ず、一つ質問しておきます。イスカリオテのユダをめぐる御言葉を今読みました。その中で主イエスのお気持ちがどんなお気持ちだったのか、想像してみて下さい。
主のお気持ちを直接表すみ言葉は余り多くはありません。勿論あるにはあります。ある安息日、会堂に手の不自由な方が礼拝をささげる人の中にいました。訴える口実を見つけようと様子を窺う者がいました。そこで主が問い掛けます。「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか。」誰も答えない。そこで、イエスは怒って人々を見回し、頑なな心を悲しまれた」のです(マルコ3:4~5)
ゲッセマネでは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスの悲しみの声を生々しくその耳で聞きます。彼等に言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ14:34)。
この様に幾つかの所を挙げることは出来ますが、あまり多くありません。
では、イスカリオテのユダをめぐって、主イエスのお気持ちがどんなお気持ちだったのでしょうか。
21節「はっきり言っておく。あなた方の内の一人が、私を裏切ろうとしている。」27節、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは「しようとしていることを今すぐ、しなさい」と言われた。この言い方に主の怒りの思い、憤りの心を聴き取れるでしょうか。
では、主が強く憤りになられたことを聴いてみましょう。ペトロに対してでした。ある時から主イエスはご自分の十字架と復活のことを予告するように、打ち明け始められるようになりました。それを聞いたペトロが、主を脇へお連れし、諫めたのです「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」すると主、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)
サタン、引き下がれと命ぜられてしまいます。この強い命令を他でも聞いたことはありませんか。荒れ野の誘惑の所で聞いたのです。さあこれから救い主の御業を始めよう、という時荒れ野でサタンの誘惑を受けます。これを退けることでご自分の与える救いが悪魔の支配からの解放だと告げようとされたのです。サタンを退ける最後の言葉は「退け、サタン。」でした(マタイ4:10)
ペトロに告げた引き下がれの下がれとサタンに命じた退けが同じ言葉なのです。何れも主の強い怒り、憤りを表しています。
勿論、感情的になって怒りを爆発させたのではありません。つい、かっとなって我を忘れて憤ったのではありません。神のご計画を邪魔しないように強い気持ちをお伝えになったのです。
それと比べてみて、ユダにお掛けになった言葉に、主の怒りの思いを聴き取れるでしょうか。そこでイエスは「しようとしていることを今すぐ、しなさい」と言われた。主の憤りの心を感じ取れますか。
では、主の悲しみは伝わってきますか。ユダの話は、主キリストの悲しみを先ず伝えるものです。裏切る者は誰かと問われた時、主はとても不思議な答えをなさいました。それはユダだと仰る事も出来ました。そうはなさらず、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたのです。(26節)何故この様な言い方をなさったのでしょうか。
主が時に口にされたことに「神の言葉が実現するように」「預言が実現するように」、ということがあります。ナザレの会堂でイザヤ書を朗読されることがありました。そして言われました、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、実現した。」(ルカ4:21)主イエスの御言葉の中には、この様に聖書の預言があるのです。父なる神のお預けになった約束があるのです。
ヨハネは、主イエスのお語りになることが、父なる神から出ていることを繰り返して教えています。「私をお遣わしになった父も私について証しをして下さる。」(ヨハネ8:18)
主イエスの御言葉の中にある聖書の預言、父なる神の証しが篭められているを聴き取りましょう。「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」との主の御言葉の中に主のどんなお気持ちが明らかにされているでしょうか。主がよくなさる聖書によって福音をお語りになることを思い出しましょう。荒れ野の誘惑のサタンの誘惑に対して、何を拠り所として退けられたか、聖書の言葉、神の御言葉によってでした。それはユダだと仰る代わりに、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたことも聖書によってお答えになったことに気付きましょう。
主が拠りどころとされた聖書は詩編です。詩編41:10です。私の信頼していた仲間、私のパンを食べた者が、威張って私を足蹴にします。この聖書を拠り所として、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたのです。
食事を共にすることは、親しさを表します。仲が良いこと、心を開いている付き合いを示します。友情とか友、あるいは仲間と言っていいでしょう。最後の晩餐でしたが、そこにはいつものような親しさ、心を開いた信頼、共に神の恵みに与る喜びがあふれています。その親しさ、信頼、喜びの中で「私がパン切れを浸して与えるのがその裏切る人だ」と主は言われるのです。
私達が覚える大きな悲しみは、敵が攻撃する時ではない。自分をいつも嫌い憎む人にけなされる時でもない。友だと思っていた者が裏切る時、その時悲しみを覚える。仲間だと思っていた者が裏切る時、その時悲しみを覚えるのです。その悲しさを詩編55編が歌います。私を嘲る者が敵であれば、それを耐えもしよう。私を憎む者が尊大に振舞うのであれば彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。私と同じ人間、私の友、知り合った仲。その仲間が威張って私を足蹴にすると言われています。それを表すのが「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と仰ったときの主のお気持ちを表す言葉なのです。そこに怒りや憤りは少しもほのめかされていません。唯深い悲しみが表されているのです。
主はユダの足を洗われたではないか。食事を共にされていたではないか。罪を洗い、清められたではないか。主イエスの友、主イエスの仲間ではないか。そのユダが、裏切るというその悲しみを私達は覚えることが出来るのだろうか。
主を裏切る者がいると言われた時弟子達はどうしたか。あの弟子だ、と指指したのか。この弟子だと指指したのか。ああ、それは自分だ、と思ったのか。
弟子達は誰について言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。(22節)ユダは自分だと思ったでしょうか。弟子達が顔を見合わせたとは、誰だか分からなかったということです。誰もが、主を裏切る者になるかもしれないという動作です。
裏切るという内容が違いますが弟子達は全員主を裏切らなかったでしょうか。私は主を裏切らなかったと胸を張って言えた弟子はこの中にいたのでしょうか。ペトロは大祭司カイアファの屋敷の中庭で、「主と一緒にいましたね」と言われた時何と言いましたか。そんな人は知らないと答えた、しかも誓いまでしたのです。(マタイ26:74)主が十字架の重さに耐えかねていた時、無理矢理ローマ兵に担がされたのはキレネ人シモンでした(マタイ26:32)主のお体を引き取り、葬りをしたのは、アリマタヤのヨセフでした(マタイ27:57)。
主は確かに裏切る者と言われました。ユダはその罪の責任があるのは確かです。その責任を覚えて、ユダは、深く後悔し、「罪のない人を売り、罪を犯しました。」と悔い改めています。罪を認めています。ユダの信仰告白と言っていいでしょう。罪を認め、自分で命を断ちました。究極の悔い改め、と見ることは出来ないか。(マタイ27:4~5)
ペトロは、そんな人は知らないと答えた直後の鶏の鳴き声で主のも言葉を思い出し、激しく泣いたのです。(マタイ26:75)そのペトロの悔い改めを表す激しく落ちる涙の音と、ユダの、罪を認める「罪を犯しました」という声は似ていませんか。
ヨハネはユダの罪をユダ一人に背負わせることをしません。ユダはパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、とあります。ユダの責任もあるが、サタンの責任でもあると言っていませんか。
もう一つ大事なことがある。聴き逃してはなりません。ユダが事を始める時、さあその時が来たとユダが自分で判断して始めましたか。ユダに主イエスの声が掛かりました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という主の御言葉です。(27節)この主の御言葉に押されてユダは出て行ったのです。そしてここから、主の十字架による救いが見え始めるのです。
(祈り) 天の父、ユダは命を断つべきではありませんでした。折角の悔い改めが、生かされることがなくなったからです。裏切った弟子達がやがて恐れることなく福音に生き、主に仕える者とされたのと同じ様に、復活の主によってみ言葉と聖霊を与えられて福音に生き、主に仕える者とさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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