1月4日 「道、命、真理であり給う主イエス」
- 教会 松本東
- 1月11日
- 読了時間: 7分
『詩編』86:11~13
『ヨハネ福音書』14:1~7
祈ります。
天の父、心を騒がせないこと、私達の為の場所を用意しに行かれるという事の意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
弟子達はよく分からない不安を覚えています。私を捜しても、私の行く所に来ることが出来ない、と告げられています。ペトロも「私の行く所に、今ついてくることが出来ないが、後でついて来ることになる。」と告げられます。主イエスとお別れする時が来たことは、弟子達にとっては不安でした。主が行かれるところが何処なのか知らされていません。私の行く所と繰り返されていますが、どこへ行かれるのかは教えられていません。ついても行けないのですから余計に不安です。そもそも主がどこかへお行きになるというのがどういうことかよくはつかめていないのです。
その時主は言われます。心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私を信じなさい(1)。主イエスとお別れする時がすぐ来ると言われた弟子達は心騒いだのです。「心騒ぐ」とは、強い風が木の枝を引きちぎっていく様子を表す激しい言葉です。心がかき回され、どうしていいか分からず戸惑い、困り、どう受け止めていいのか分からず動揺したのです。
主イエスが何処かへ行かれる、ついて行けない所へ行かれるという。それはつまり傍に主イエスが居なくなるという事です。その時、弟子達は心を騒がせてしまったのです。これは、私達にも同じことが起こりえます。心がかき回され、どうしていいか分からず戸惑い、困り、どう受け止めていいのか分からず動揺することが私達にも起こり得るのです。いつ起こるのか。傍に主イエスが居なくなる時です。正確に言えば、傍に居られる主イエスに気付かない時です。主キリストに結びつけられていることを見失う時です。主イエスのお体と流された血潮を受ける恵みを忘れる時です。
心を騒がせられることがないようになるにはどうしなさいと主は言われるのか。不安、戸惑い、動揺、を克服するにはどうしたらいいのか。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい、と主は言われる。父なる神を信ずること、主イエスを信ずることが並べて求められています。
何故、父なる神を信じることと主イエスを信ずることが並べて求められているのでしょう。それは、傍に主イエスが居なくなるけれども、主イエスを信ずることを忘れてはならないことを伝えようとしている。目に見えなくなっても、信仰と言う時主イエスを信仰の目標とするのだと言われているのです。これは十字架に向かわれる時も、葬りをお受けになる時も、昇天され父なる神の右にお座りの時も、主イエスは私達の信仰の目指す目標なのです。あなたの信仰は何を目指していますか。
いつも私達は、主イエスに寄り頼むのです。自分の生き方を主イエスに賭けるのです。主イエスを真の光、真の命と信ずるのです。
そうすると、心を騒がせるなとのお勧めは、唯、安心して静かに落ち着いている事ではない。心を、努力して平静に保つことではない。心をかき回すものを上手く工夫して、調整して穏やかにしている事ではない。そういう私達の努力で創り出す静けさではない。主なる神抜きにして、こちら側の工夫や知恵で和やかになることではない。
命を与えて下さる主イエスを自分の中心として選び取っていくことです。そうしたら、心が騒がないのです。喜びをお与え下さる主イエスに向かって行くことです。そうしたら、心が引きちぎられて行かないのです。
恵みを与えて下さる主イエスに自分の生き方を差し出すことです。それを、私をも信じなさいというお勧めで言われているのです。
弟子とお別れになることをお告げになりました。私が行く所にと主は繰り返されました(13:33,13:36)。主イエスが何処かへ行かれるのでしばらく会えないというのです。主はどこへ行かれるのでしょうか。父の家と言われた、行ってあなた方の為に場所を用意すると言われた、それはどこでしょうか。12節ではより明確に「父の許へ行く」と言われています。では父の家とはどこでしょうか。あなた方の為に場所とはどこでしょうか。父の許とはどこでしょうか。弟子達は、知っているはずだと言われたのですが、それでも「どこへ行かれるのか、私達には分かりません」とトマスが言うのです(5)。トマスだけでなく弟子の皆が分からないのです。この時には弟子たちは未だ分からなかったのです。主の栄光の御業を見ていないからです。その十字架と復活の御業を未だ知らないからです。十字架によって、自分達に救いの場所を用意しに行かれることを、未だ知ることが出来なかったのです。
父の家に、あなた方の為の場所を用意しに行くと言われたのは、あなた方の為に十字架による救いを創り出しに行くという事なのです。
このことは、苦しみの予告として前から弟子達に告げられていました。だから、どこへ行くのか、その道をあなた方は知っている、と主が言われたのです。主イエスは、弟子達に繰り返し御自分の死と復活を予告しお教えになっています。三度目の正直と言う諺がありますが、それに似ていて、主は三度も予告されています。弟子達に理解できるよう明確に丁寧に予告されたのがマルコ福音書の8章31、32節に告げられている一回目の予告です。イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日に後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
しかしそのように教えられてはいたけど、十字架と復活の御業を見て知る迄は、どこへ行かれるのか、私達には分かりませんと答えることしか出来なかったのです。
父の許へ行く、父の家には住むところが沢山ある、あなた方の為の場所とは十字架と復活の御業によって創り出された救いの場所なのです。3節で、その場所が出来たら、戻ってきて、あなた方を私の許に迎える、と約束まで残されてこの救いの場所へ行かれたのです。
どうしたらその救いの場所、父の家の住まいへ行けるのでしょうか。私達を代表してトマスが質問してくれています。「どうして、その道を知ることができるでしょうか。」どうして、とはどういう方法でと言う質問です。どういう方法で、その救いの場所、父の家の住まいへ行く道を知ることが出来るでしょうか、と尋ねたのです。主はお答えになりました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の許に行くことが出来ない。」
十字架と復活の御業によって創り出された救いは真理と命だと説明されています。救いのある父の許へ行くには、この道を通るのです。
主イエス・キリストを通って行く、とは不思議な表現です。主イエスによって、父の許へ行くとも訳されています。主イエスを通って、とはどういうことでしょうか。あるいは主イエスによって、とはどういうことでしょうか。
どうしたら主イエスを通ることが出来るのか。どうしたら主イエスによって生きると言えるのか。主に助けられて、主の恵みを受けて、主に執り成しをして頂いて生きる、事だと言えましょう。しかしそれも又、どうしたら主の恵みを受けることになるのかと質問することが出来ます。
神の御言葉はこう教えています、神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれているのです、と(Ⅰコリント1:30)。この主との結びつきはとても強い。二つが結ばれているという事ですが、主キリストの中に入れられている、言わば主キリストと一つとされている、そんな強い結びつきを言っています。その主との結びつきによって生きるから、主イエスを通って、と言うことが出来る。主イエスによって生きると言えるのです。
聖餐式では、主のお体と血潮を私達の中に入れることです。それほど明確に、主キリストに結ばれるのです。
道と言う譬の言葉を聴きました。この一週間、主イエスと言う道を歩きます。それがそのまま真理であり命を受けて生きることです。十字架と復活の御業によって創り出された救いに至る道です。
天の父、不安にかられ、戸惑い、動揺をしてしまう私達を、信ずることへとお勧め下さいました。主イエス・キリストへといつも向かうことが出来ますように。救いへと至る主イエスと言う道を歩くことが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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