3月29日「彼らを守って下さいと祈る主イエス」
- 4月8日
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『詩編』17:6~9
『ヨハネ福音書』17:6~19
祈ります。
天の父、彼等を守って下さいとの主の祈りの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。
主イエスは十字架に向かおうとしています。私達が今日、受難週に向かうのと同じです。木曜日には洗足聖餐式、金曜日には受難日祈禱会をして主の受難に向かいます。時間の差、場所の違いこそあれ、今私達は、最後の晩餐を受けている弟子達ととてもよく似ています。
では、十字架に向かわれる主のお心を満たしているのはどんなことでしょうか。御自分のことで精一杯でしょうか。他の人のことを考えたり思い遣ったり出来ないことを自分のことで一杯一杯、等といいます。私達にはよくあることです。しかし、十字架に向かわれる時、主のお心は、ご自分のことで一杯一杯でいらしたでしょうか。
今日読みました聖書箇所で一番多く主がおっしゃったのはどんな言葉でしょうか。そこに主のお心があったことが分かります。14節の中で、何と24回も言われています。第11節には3回も言われています。私は最早世にはいません。彼らは残りますが、私は御許に参ります。聖なる父よ、私に与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。私達の様に、彼等も一つとなるためです。彼等のことが多く言われています。十字架に向かわれる主のお心を満たしているのは彼等のことなのです。
彼等とは誰か。主はあなた方と言われていますが、そう呼ばれた彼等とは誰か。13章12節迄戻るとよく分かります。イエスは、弟子達の足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなた方のしたことが分かるか。」彼等とは、弟子達。しかし、17章に入って、弟子達という言葉が変わります。3節では「あなたから委ねられた人々」。6節以降は「父なる神が選び出して私に与えて下さった人々」と言われます。つまり、弟子達と呼ばれる人々がぐんと広げられているのです。ペトロ、ヨハネという弟子達だけに限られていない。「私に与えられた人々」なのです。パウロはそれを「キリスト・イエスに結ばれた人々」と言います(Ⅰコリント1:30)。また、言い方を変えて「イエス・キリストの救いに与る人々」とも言います(Ⅰテサロニケ5:10)。彼等とは主によって救われた全ての人々なのです。私達も入っています。十字架に向かわれる主のお心を満たしているのは私達も入っている全ての弟子達のことなのです。
心を満たしているもの、そのことを特に強く思っているものがある時は、祈りが始まります。それがどうしても欲しいものなら、お与え下さいと祈ります。自分の力では出来ないことならば、その力を新しくお与え下さいと祈ります。或いは、主が実現して下さい、と祈ります。この礼拝堂を建てる時、自分達なら出来ると考えて献堂されましたか。大きな困難を覚えて、そして祈られたでしょう。建てる力を新しくお与え下さいと祈り、又、主が実現して下さい、と祈られたはずです。建てて下さるのは主です、と祈られたのではありませんか。信仰の先輩方、主がお建て下さったことを若い方達に証しし、その信仰と祈りをつなげて頂きたい。
心がそこにある時祈りが始まります。十字架に向かわれる主のお心を満たしているのは彼等のことなのです。主も祈りを始められました。聖なる父よ、私に与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。これが、弟子達、私達の為の主イエスの祈りでした。
この主の祈りが応えられているのですから、私達は父なる神に守られていることを確信したい。神に守られているのですから、これほど確かなことはありません。
神に守られている確かさを確認しました。では、守られるとはどういうことでしょうか。新約聖書の「守る」という言葉は二つあります。分かり易いのは、羊飼いが羊を狼から守る、という言葉です。羊飼い達が野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた、とルカ福音書が伝えています(ルカ2:8)。こあの辺りは、狼が出たのです。この守るは外の敵から守るというのが基本的な意味です。
しかし主がここで祈られた彼らを守って下さいという時は、敵から守るという言葉が使われておりません。与えられたものが外へ逃げて行かないように守って下さい、という意味を持った言葉が使われているのです。あなたの御名の内に保って下さい、という訳もあるのです。
主は弟子達の何を守って下さいと祈られたのでしょう。なにを保って下さいと祈られたのでしょう。先ず、世に残されることと関係します。彼らは世に残ります、と言われます。唯残るのではありません。18節では、世に残る目的が示されます。私も彼らを世に遣わしました、とあります。主イエスが救い主として神に遣わされた様に、弟子達も世に遣わされたのです。遣わされるために残されたのです。使徒言行録にモーセの派遣の言葉があります。イスラエルをエジプトから解放する務めに関わる言葉です。モーセを、指導者また解放者としてお遣わしになった、のです(使徒言行録7:35)。務めを果たすために送り出されるのを遣わす、派遣すると言います。
弟子達は、どんな務めに遣わされたのでしょうか。モーセの場合は分かり易い。指導者また解放者としてお遣わしになったのです。では、弟子達はどうか。世に遣わされたのですから、この世に対する務めです。この世を神はどの様に考え、受け止め、お定めでしょうか。14節では、世は彼等を憎みました。私は世に属していない、と言われています。神に背く世だ、弟子達を憎む世だ、と言われます。弟子は、世からは、認められず、嫌われるのです。世からは、拒まれ、否定されるのです。その世に遣わされるという。
遣わされたこの世に対する務めが保たれ、守られるようにと主は祈られました。この世の反応が、たとえ嵐のような厳しいものであっても、それと戦い、乗り越える。波を静め、嵐を静める主がお守り下さるのですから。反抗し反対する世の力を克服し、務めに生きる力や喜びを失わないようにと主は祈って下さる。主イエスを宣べ伝えるのを禁じられた時、弟子達は、この守って下さるという主の祈りを鮮やかに覚えて、対応することが出来ました。決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えて下さい。」(使徒言行録4:18~19)
世に遣わされることに伴い、主はもう一つ祈りを追加されます。真理によって、彼等を聖なる者として下さい(17節)。聖なる者と言われました。聖書の用語として有名な言葉です。見たところだと一般的に、人格が優れ、高い徳と知性を持つ聖人を思い描き易い言葉です。しかし聖書が聖なる者という時、ものの見方が違います。これを聖別された者と訳すと聖書の意味に近付きます。神の為に別にしておかれた者、のことです。エレミヤが預言者とされた時、神の召命の言葉がのぞみました、「私はあなたを聖別し、預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)神に別にされて、神の示す務めに就くということです。
神は、聖別しっぱなし、務めへと立てっぱなしではありません。聖別しお立て下さったなら、その務めに必要な力も添えて与えて下さるのです。
私達はこの世に対するどの様な務めを与えられているのでしょうか。私達も世に遣わされているのです。遣わされて、どう生きたらよいのか。聖書は、その生き方をどう教えているか。こう教えています。主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、誉め歌を歌い、驚くべき御業をことごとく歌え(歴代誌上16:8~9)。御名を呼ぶとは、礼拝を表す旧約の言葉です。御業を示すとは、福音を宣べ伝えることです。主に向かって歌うとは神の栄光を表すことです。この私達の務めに生きる力や喜びを失わないようにと主は祈って下さるのです。
主は弟子達を守って下さいと祈られたのです。この世への派遣に続くものです。弟子達の内にある喜びがなくならないようにです。喜びが保たれるように祈られたのです。これらのことを語るのは、私の喜びが彼等の内に満ち溢れるようになるためです(13節)。信仰が喜びだと歌うのがフィリピの信徒への手紙です。主において喜びなさい(3:1)。主において常に喜びなさい(4:4)。主において非常に喜びました(4:10)。フィリピ書の勧める喜びは、「主において」の喜びです。ヨハネはそれを主イエスの喜びだと告げています。
守られる私達の内にある喜びとは何でしょう。主は何を喜ばれるのでしょう。私の喜びと言われましたが、それはどんな喜びでしょうか。福音書は、神の喜びを譬話で表しています。迷った羊が見つかった時の羊飼いの喜び(ルカ15:5)。なくした銀貨が見つかった時の婦人の喜び(ルカ15:9)。放蕩息子が帰って来た時の父親の喜び(ルカ15:32)。どれも共通点があります。失ったものが戻ってくること。
主の喜びとは失ったものが主に戻ることなのです。主のもとに戻った者としてこの一週を過ごしましょう。
天の父、世に遣わされた者として自分をとらえ、あなたのお与え下さる務めを確かにし、それを果たしていけます様に。果たす力がありません。その力をも務めと共にお与え下さい。主の喜びに満たされて生きていけます様に。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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