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4月12日 「愛がますます豊かになるように」 伝道師 金井恭子

  • 4月15日
  • 読了時間: 8分

更新日:5月16日

詩編138編:4節~8節

フィリピの信徒への手紙 第1章:1節~11節


本日から共に御言葉に聞きますのは、フィリピの信徒への手紙です。第一週目は、伊藤節雄先生に説教と聖餐式をしていただき、第二週目からは私が連続講解説教として、皆さまと共にパウロの教会理解・喜び・祈り・愛が凝縮されたこのテキストから神さまの御言葉を聞き取っていきたいと願います。

 

 

3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とパウロは喜びを語っています。この手紙には、たびたび「喜び」という言葉が出てきます。ですから「喜びの書簡」とも呼ばれています。なぜこんなに喜んでいるのでしょう。パウロにはいったい、どんな喜びの出来事が起こったのでしょうか。

実はパウロが書いたこの手紙は、キリスト教の伝道をしたことによって捕えられ、監禁されている時に書かれたものなのです。獄中での不自由さだけではなく、命の危険にさえ晒されている最中、彼は冒頭で驚くべきことに感謝と喜びの言葉を語っています。それはなぜでしょうか。パウロはその理由を5節で「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」と述べています。フィリピの教会は、パウロがアジアの地域から海を越えて、ヨーロッパで最初に伝道し設立した教会です。「最初の日」とはフィリピの教会の人々が、キリストの救いを信じる信仰を与えられてキリスト者になった日のことです。しかしパウロが別の地で伝道した際に逮捕・投獄され、キリスト者となったばかりのフィリピの教会の人々は、伝道者を失った群れとなってしまいました。それにもかかわらず、彼らはしっかりと福音に生き続ける群れとなっている。そのことをパウロは喜び、感謝しているのです。

ここで言われている「あずかる」の元の言葉「コイノーニア」は、その他に「分かち合う」「参与する」「共に担う」「共に生きる」という意味があります。ですから、単にキリストの恵みを受けるという意味にとどまりません。フィリピの教会の人々は、ただ救われたというだけではなく、その福音の中に生き、一人一人が福音の伝道の働きのために役割を担ってきたという意味があるのです。パウロはそのことを喜んでいるのです。

そしてここでパウロの語る「コイノーニア」=「あずかる」は、人と人との親しい集まりをイメージした交わりのことを言っているのではありません。もちろん、彼はフィリピの教会の人々と親しい交わりがあり、物質的な支援も受けていましたけれども、人間的な親しさだけを見つめているのではありません。仲が良いから交わりがあるのではなく、同じ福音によって救われ、同じキリストに結ばれ共に生きるということを言っているのです。

ここで、松本東教会の始まりの時から主が生きて働いておられることに思い至ります。約102年前の松本東教会の始まりとなった最初の日から今日まで、いったいどれだけ多くの兄弟姉妹の祈りと働きがあったことでしょう。神さまは、キリストの福音を宣べ伝え教会を支える信徒といつも共にいてくださり、人間の力だけでは到底できないことを、必要とあらば成し遂げてくださった。パウロと同様に、このことを心に留め、感謝を捧げたいと思います。

 

ところで、この書簡においてパウロが何度も語っている「喜び」について考えたいと思います。

彼は私たちにも喜ぶようにと勧めます。テサロニケの信徒への手紙でも「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」と言っています。フィリピの教会への手紙を書いているこの時、パウロ自身は獄中にあり、先の見えない現実の中に置かれています。その中で尚、喜びを語っているのです。この喜びはどこから来るのでしょうか。パウロは、その理由を6節で「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と語っています。それは神さまが既に働いておられるという確信です。パウロの喜びは、問題が解決しているからの喜びではありません。むしろ彼は、命の危険の中にありながら、喜んでいるのです。ではその喜びとは何でしょうか。それは、「神がすでに働いておられ、今も働いておられ、そして最後まで完成してくださる」という確信から来る喜びなのです。

しかしここで、私たちは一つの問いを持つのではないでしょうか。「では、私自身はどうなのか」という問いです。  私たちはしばしば、この地上の歩みにおいて自分の現実を見ます。思うようにならない状況、解決の見えない問題……その中で「いつも喜んでいなさい」と言われても、それは非現実的な、どこか遠い言葉のように感じてしまいます。病の中にあるとき、先の見えない不安の中にあるとき、家族のことで心が重くなるとき、どうすれば私たちは喜ぶことができるのでしょうか。 願っていたことが叶わない、祈っているのに状況が変わらない……そのような現実の中で、「神さまはどこにおられるのか」と思うことがあります。しかしパウロは言うのです。神は、始めたことを途中でやめてしまわれる方ではない、と。私たちがどのような状態にあっても、神はその人の中に始められた御業を、決して手放すことなく、最後まで導いてくださるのです。それは、すべてが私たちの思い通りになるということではありません。私たちの人生が神の御手の中にあり、神のご計画の中で完成へと導かれていくという約束です。だからこそパウロは、喜ぶのです。 この喜びは、無理に明るく振る舞うことではありません。現実を見ないことでもありません。むしろ、現実の中でなお、「神が働いておられる」という事実に立つことです。

喜びとは、現実が明るい時にだけ生まれるものではありません。むしろ、暗さの中にあっても神の働きが確かであるという信頼から生まれるのです。地上での歩みに苦しみ悲しみが伴うこと自体は否定されるものではありません。しかしその現実を前にして、キリストが私のためによみがえり、世の終わりまで私と共にいてくださるという福音がもたらされている。ここに、「もう全て神さまにお任せしよう、物事の解決は全て神さまにあるのだ」という安心と喜びがあります。そして「喜び」は常に真っ直ぐに神さまへと向かう「祈り」に結びつかざるを得ません。ですからパウロは「いつも喜び絶えず祈りなさい」と言うのです。私たちは、たとえ泣いたり叫んだりしたとしても、喜びながら祈り、祈りながら喜ぶを繰り返して信仰を握りしめるしかないのかもしれません。

しかしながら、信仰とは人間の力で得られるのものではありません。神さまが始められることなのです。そしてそれだけではなく、神さまご自身が始められたものは最後まで完成させてくださる、ということです。私たちはしばしば、自分の信仰の弱さに心許なさを感じることがあります。教会の現実を見て、失望することもあります。しかしその時こそ、この御言葉が活きてきます。信仰の確かさの根拠は、私たち人間の側には無いのです。全て主によって起こされ、育てられるものなのです。そのことに全信頼を置いて、私たちは祈り続けるのです。

 

パウロは9節で「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」祈ると宣言します。ここに私たちの信仰の成長の姿が示されています。「愛が豊かになる」というのは、ただ人間の感情としての愛が増すということではありません。「知る力」と「見抜く力」つまり、何が本当に良いことなのか何が神の御心に適うことなのか、それを見分ける力と結びついて深められていく愛です。福音にあずかる者の愛が深められていくとき、同時に何が正しいかを知り、見分ける力も与えられていく。ただ思いがあるだけでは十分な愛とは言えません。また正しさだけを求めてそこに愛が伴わなければ、それもまた福音に適うものとは言えません。同じ福音にあずかっているからこそ、そこに愛が生まれ、その愛が「知る力」と「見抜く力」を伴ってますます豊かにされていくのです。

そして「福音にあずかる」とは、どこかで完結するものではなく、その中で生き続けるということです。神を知ることが深められ、見分ける力が養われ、それに伴って愛がますます豊かにされていく。ここに信仰の歩みがあります。何かを達成する歩みではなく、神さまによって与えられ育てられていく歩みです。パウロは「ますます」と言います。愛は一度与えられたらそれで終わりではなく、増し加えられていくものだということを言っているのでしょう。

何かを達成する歩みではなく、神さまによって与えられ、育てられていく歩み。神さまがそれを豊かに増し加えてくださることに信頼して歩んで行くこの私たちの信仰は、どこに向かっているのでしょうか。それは6節にもあります「キリスト・イエスの日」です。すなわち私たちの信仰の歩みも教会の歩みも、主イエス・キリストが再びこの地上に来られるその時へと向かっています。私たちはそのことを心に留めて、主の家であるこの教会に集い、ますます豊かに愛を深めたいと思います。

 

 

お祈りいたします。

恵み深き天のお父さま。

あなたが私たちの内に始められた御業を最後まで完成させてくださるお方であることを

お示しくださり、感謝いたします。どうか主よ、私たちがどのような状況の中にあっても、このあなたの確かな約束に信頼して歩むことができる者としてください。

特に今、病や苦しみ、悲しみの中にある方々を覚えます。

どうかあなたの慰めと平安をお与えください。私たちの愛をますます豊かにしてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン。

 
 
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